R5,劇研「空」群読「長州軍侵攻と最後の代官」浜田で発表(12/10)

12月9,10日、石央文化ホールで、岩町功先生を偲ぶ公演があります。午前中は、先生との出会いを語る会です。10日は美崎理恵、長岡弘志、鹿森偉左雄さんと洲浜昌三が舞台で話します。どんな話が出てくるか楽しみです。
岩町先生が創作脚本「はたちの心ー若き日の島村抱月ー」を書かれて昭和42年に江津高校が中四国大会(高知)へ出場したときの貴重な写真です。岡山の末安先生から送られてきました。

午後からは、山陰久佐松竹座の「関取千両幟」、14:45から劇研「空」の群読「長州軍侵攻と最後の代官ー鍋田三郎右衛門」(洲浜作)を発表します。史実を中心にフィクションも混じえ映像も投影して発表します。16時からは、創作てんからっと、の「大晦日のラプソディ」(美崎理恵作)が楽しみです。
先日浜田城跡へ行き、作家・司馬遼太郎の「浜田藩追壊の碑」をパチリと写して帰りました。森鴎外は「余ハ石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言状の冒頭に書きました。司馬遼太郎は「石見人」(いわみびと)と読ませて書いています。今回の群読に関係します。紹介しましす。

「石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、 たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。
東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人と貨財がゆきかう山陽道があり、 西方には長門・ 周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕し、ある者は砂鉄や銀を堀り、ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世も倦むことがなかった。

浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。 幕府は、この城をもって、毛利氏という外様藩に対するいわば最前線の牙城とした。以後、藩主は十八代を経、城は二百四十八年つづいた。 幕末、西方の長州藩が革命化して、幕府の規範から離れた。   長州藩は時のいきおいを得、また火力と軍政を一新させ、各地で幕軍を破った。ついに浜田城下に押しよせた。浜田藩は和戦についての衆議がまとまらず、さらに二十五歳の藩主松平武聰は病臥中でもあって、  曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。
明治維新に先立つ二年前の慶応二年(一八六六)のことである。 いま、城あとに苔と草木と石垣のみである。それらに積る風霜こそ、歴史の記念碑といっていい」    司馬遼太郎

浜田城跡へ行ったら、ぜひ読んでみてください。
(ブログ:劇研「空」 詩の散歩道 演劇だより 20,231,208洲浜)

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