「昌ちゃんの詩の散歩道」カテゴリーアーカイブ

島根 津和野の詩人 中村満子

山陰中央新報では目下、「続人物しまね文学館」を週1回(金)文化欄で連載中です。2012年2月3日に、57番目の人物として津和野在住の詩人・中村満子さんが掲載されました。文章を少し追加し詩集の写真なども加えて紹介します。

孤高の歩み詩集に結実       洲浜昌三

伝説の詩人である。奔放に詩を書き若い異色の詩人として注目されたが、忽然(こつぜん)と益田から消え鹿児島にいた。詩人としての存在が忘れられたころ、津和野にいて8冊の感性豊かな詩集を立て続けに出した。

中村満子(なかむら・みつこ)は1926(大正15)年2月、益田市益田徳原で生まれた。父には9人の弟妹がいて大家族。本宅と弟妹たちの住居が広い地所に連なっていた。祖母は病気、祖父は古神道「神理教」の神主。満子の父とはいさかいが絶えなかった。3人の子供を抱えた母の「息づまる血みどろの家業」を見て長女の満子は育った。県立益田高女から津和野高女補習科へ進み、43(昭和18)年卒業。当時の東仙道小学校で教職に就いた。

数年後、相次ぐ不幸が彼女を直撃した。耐え切れず母が家を捨て実家へ帰った。そこで子宮がんを患い「納屋を借りて身を細くしていた母」を妹と看病した。満子は自分のタンスから着物を出し金に何度も替えたという。

「座ったままで事切れていた母を見て/詫びるより先に/姉妹は手を取り合ってよろこんだ/このよろこびとは何だろう/つぎの瞬間/姉妹は言い合わせたように身震った」「愛の裏腹にある罪/逃げ果たせない闇/それは若い娘とおさげ髪の少女にとっては/あまりにも早すぎた問いであった/やがてよろこびは/妹の自決を生む引き金となり/私の母になる夢を殺していった」(「ときに激しく」)

母の死に続き祖父母の死、58年妹の自死と父の死、離婚(久保姓から中村へ)。「母の悲惨な人生と最期。姓と生は私に深い衝撃をもたらした。生きる不安と抵抗。それは生そのものへの疑惑、反逆に発展したこともあった」。10年後、とどめを刺すように本人の子宮筋腫全摘出。

詩はキムラ・フジオとの出会いから書きはじめた。『詩歴』(54年創刊)や『石見詩人』の同人になりカットや表紙も描いた。「奔騰湧出する詩篇をなぐり書きして持ち込み」、ある時は発行遅延に業を煮やして「積み重ねた詩稿を掴んで河原で焼きすてた」という。

キムラは脳神経障害で苦しんでいたが、満子の多数の詩篇から24編を選び詩集『赫い日々』を出した。奔放な詩と母の悲惨な死を直視し、女の実存的な痛みから生まれた詩は赤裸々で強烈だった。「私の詩の原点は母にある」という。3年後に妹にささげた詩集『花の種を播く』を出版。この時期、東京の『潮流詩派』や岡山の『黄薔薇』にも所属していた。この第2詩集の詩は『潮流詩派』に書いたものを中心にして出版した。『黄薔薇』には短期間しかいなかった。

62年春、満子は「忽然と姿を消し」「数年後一通の便りがあった」(キムラ)。手紙は鹿児島からだった。彼女は阿久根市、出水市の小学校で「まともに子供たちと向き合う」充実した17年を過ごした。詩は突発的に2度『石見詩人』へ送っただけだった。

78年に定年退職。弟がいた津和野に住んだ。頼まれて絵や寸感を色紙に書き、店頭でもよく売れた。しかし欺瞞(ぎまん)も感じ、90年に自ら短期間『山陰詩人』に加入、堰(せき)を切ったように再び詩を書き10年で8冊の詩集を出した。92(平4)年『花もよう』『夕映えて』、93年『卵のゆくへ』。94年日本現代詩人会入会。『水滴』『天の風』『ウォーキング』、詩画集『落書き三昧』。2002年に『苦笑の頷き』を出し再び詩から離れた。現代詩人会もそのうち退会した。

「あの頃のように/傷を裂き ひろげ/血の鮮烈な美しさに/酔うことは/もう決してありません/狂奔する時を衝き/粉砕して/その痛みを/存在の証とする/雄々しさも/すでに/どこかに消えております∥楓の葉が/風と戯れております/その姿をなつかしみ/いとおしみながら/わが来し方/人生は/空に漂い/流れる/一片の浮雲に/似て」(「浮雲」)

激しい情念で拒否し、潔癖な知性で守ろうとした孤独な魂の風景はここにはない。静かな港へ入ってきた船乗りの目に映る穏やかな風景である。その帰港地、津和野で次の詩集『夕やけ』を準備中という。

(島根県詩人連合理事長、「石見詩人」同人 日本詩人クラブ会員)

 

掲載された新聞を紹介させていただきます。読みたい人は図書館か新聞を買って読んでください。5月初旬には本になる予定です。何のコウカもありませんが、今から宣伝しておきます。欲しい人はどうぞ申し込んでください。まだ決定していませんが定価は1600くらいです。山陰中央新報社でも洲浜でもOKです。2月17日には浜田の詩人・閤田真太郎が掲載される予定です。これが最後の掲載になると思います。

紹介した詩集の中に第1詩集『赫い日々』だけありません。どこを捜してもないのです。だれかある場所や持っている人を発見したら教えてください。中村さんの次の詩集『夕やけ』はこの春には出版されます。3月か4月か5月か…。期待してください。

詩 「鬼だぞ-」

 

短詩 「鬼だぞ-」
洲浜昌三

生まれて初めての節分
こわい面をかぶった父さんが
「鬼だぞー」

ニコニコして喜ぶユサちゃん
こんどはドスをきかせて
「こわい鬼だぞー」

顔を近づけておどすと
目を弓にして笑う
「フ フ フ フフフフフ」

鬼が逃げたあと
声がした

「メンガナイホウガコワイヨ」

 

鬼は怖いものの象徴ですが、鬼が人を殺したり弱い者いじめをしたりした記録は歴史上どこにもありませぬ。怖いのは鬼ではなくそれを創りあげたたニンゲンです。ニンゲンの歴史は戦争と殺戮の歴史。学習効果はないみたい。

詩 「がんばれ まめ戦士」

 がんばれ まめ戦士
洲 浜 昌 三

さあ 元気よく歌いながら豆をまいて
オニを退治しましょうね
もう一度大きな声で練習しましょう

おにはそと ふくはうち
ぱらっ ぱらっ ぱらっ ぱら まめのおと
おには こっそり にげていく ※

頭に白い鉢巻きをキリリと締め
ふるさとを守る戦士のように目を輝かして
幼い子どもたちは声を張り上げる

ウオー オニダゾ ワルイコハ タベルゾ
ギヤオー アカオニダゾ ナキムシハ ドコダ

二ひきの鬼が飛び出したとたんに
戦陣はたちまち総崩れ
真っ先に逃げていく男性戦士
恐怖でその場にうずくまる女性戦士
一歩も退かず勇敢に立ち向かう数名の豆戦士
悲鳴や泣き声が戦場に響きわたる

さあ 子どもたちよ
あの歌を歌うんだ
みんな一緒に 大きな声で
あんなに何度も練習したじゃないか

※童謡「豆のうた」より
大田市文化協会は年3回「きれんげ」という会報を発行しています。1000部以上印刷していると思いますが、大田の文化情報や石見銀山の歴史は毎号掲載しています。数年前から詩を依頼されて書いています。詩人ではなく普通の人が読んで何か心に残るような詩になればと思って書いています。石見銀山の詩も時々書いています。行数は30時以内ですから長い詩は書けません。

上の詩は会報の最新号のために書いたものです。マイ グランドドーター が節分前にはいつも「豆まき」を家でも歌っていました。いいうたですね。「ぱら、ぱら、ぱら」 というのがなんともいえません。保育園で節分の当日は鬼がでてくるとみんな恐れて泣いたそうです。その後家でも、鬼を怖がっています。2歳という年はまだサンタクロスも鬼も実在すると思っているんでしょうね。

これは保育園で先生とつくった鬼です。なんとかわいい鬼ですね。食事の時もこのメンをつけて食べています。お気に入りです。

詩人 高塚かず子のふるさと 島根川本

ー詩人 高塚かず子ー
水の詩人のふるさと、島根川本

洲 浜 昌 三

第44回H氏賞を受賞したとき、高塚かず子は「島根県生まれ」と報道された。しかしその名前は思い当たらなかった。
『島根の詩人たち』(田村のり子著、島根県詩人連合発行)を読むと次のように書いてあった。「川本生まれだが、幼いとき母方の地九州へ移った。祖父が川本で俳句誌『霧の海」を出していたような、文学の血があるようだ。」 続きを読む 詩人 高塚かず子のふるさと 島根川本

詩 娘たちの「銀山巻き上げ節」-石見銀山考-

  娘たちの「銀山巻き上げ節」

                                ー石見銀山考ー
                                                                    洲浜昌三

石見銀山で働いていた女性に会いに行こう
と誘われ 八十を超える老女を訪ねたのは四十年前だった
娘のころ永久鉱山で働いていたという 続きを読む 詩 娘たちの「銀山巻き上げ節」-石見銀山考-

書評 水野ひかる詩集『未明の寒い町で』

2010年11月、香川県善通寺の水野ひかるさんが詩集『未明の寒い町で』(土曜美術出版)を出された。贈呈を受け率直な感想を書いて礼状をお送りした。後日「詩誌そばえ」へ書評を頼まれました。「そばえ」(「戯」)は徳島県板野郡板野町の扶川 茂さんが発行されている詩誌。2012年1月にⅢ4号が発行され書評が載りました。長い文章ですが紹介します。 続きを読む 書評 水野ひかる詩集『未明の寒い町で』

詩 大森五百羅漢-石見銀山考-

 

大森五百羅漢 -石見銀山考-       洲浜昌三 

石のそり橋を渡ると
羅漢さまの静かな岩室がある

父や母や夫や妻や愛しい我が子が
安らかに眠りますように

はるか江戸時代に人々が込めた
深い祈りの石仏 (いしぼとけ)

羅漢とはー
いっさいの煩悩を滅し、自力で悟りを開いた人ー
と辞書にある  それにしては

「てめえらぁ それでええんかや!」と目をむいて怒鳴る羅漢
「うちのにょうぼうのやつがのぅ」口を曲げて愚痴をこぼす羅漢
「助けちゃんさい 頼むけぇ」天に号泣する羅漢
「わしゃ はあ知らんで」膝を深く抱える羅漢
「ありゃ ぼけてきたかいのぅ」ふと 頭に手をやる羅漢

静かに瞑想する数多の尊者の中に
悟りとは遠い数体の羅漢

石見の国 福光の石工は
うっかり本音を刻んだのかもしれない

(島根県詩人連合発行「しまねの風物詩」より)

詩 「石見は空白地帯」-石見銀山考-

 

石見は空白地帯  -石見銀山考ー

Shouchan

フランスの観光パンフレットには

出雲と山口の間には何もないという

 

そのフランスからカルロス夫妻がやってきた

メリーズはきりっと引き締まったフランス美人

カルロスは小太りで陽気な赤ら顔のラテン系

船会社を退職し悠々自適らしい

 

若いとき日本のミノルタカメラが欲しくて

ドイツまで稼ぎに行ったというカメラ狂

芸術の都からカメラを抱えて地球の旅へ出る

 

三瓶山から日本海に沈む夕日を連写し

地下で巨大な埋没縄文杉のシャッターを切りつづけ

志学の露天風呂で満天の星を見上げ

無視された石見の我が家でゆかたを着て正座し

ヴェリィ フルーティと日本酒「羅浮仙」を飲み

タタミマットのセンベイフトンでぐっすりねむる

 

江戸風情の家並みの路地に白い雨が降る次の日

石見銀山世界遺産センターのヒノキのホールを抜け

展示を見ながら歩いて行くと

おお!と声をあげてカルロスが立ち止まる

This map is Portuguese!

ポルトガルで400年前に描かれたエビのような日本地図

 

なんと!カルロスはポルトガル生まれだった

 

ヴァスコ・ダ・ガマに出会ったかのように目を丸め

ポルトガル語を読む

「FVOQVI」(ほうき)の西に「INZVMA」(いずも)

その西にあるのは

日本海に張り出た広大な「 R・ASMINAS DA PRATA 」

山口はなくて その南が「VAMGATO」(ながと)

 

抹殺された出雲・山口間に書かれた

ぼくらが立つ石見の大地は

「銀鉱山群王国」

 

H23 島根県民文化祭文芸作品入賞者表彰式

2010年12月11日、平成23年度の島根県民文化祭文芸作品入賞者の表彰式が松江で行われました。表彰式のあとには例年のように各部門で入賞者との懇談会が開かれました。

 各部門の応募作品数は次の通りです。短歌・一般の部413首 ジュニアの部96首  俳句・一般部611句 ジュニアの部89句  川柳・一般部521句 ジュニアの部582句  詩・一般部55編 ジュニアの部77編 散文・17編 ジュニアの部の応募作品はなし。

今年の大きな傾向はジュニア-の部(中学生まで)で多くの応募者があったことです。これは小・中学校の先生などで熱心な方が生徒に書かせた作品を応募されたからだと考えられます。詩では77編も作品が集まり、びっくりしました。これも熱心な先生の指導の賜です。文芸でも高齢化が進み、若い人たちを育てて行く必要性を文芸フェスタの運営委員会でも何度も話し会いました。その結果ジュニア-の部を設けたわけです。ますます応募者が増えることを期待しています。

入賞者の作品は毎年本になっています。「島根文芸」44号です。図書館などにはあると思います。島根県の国際文化課に問い合わせると購入もできます。

詩の分科会では入賞者に作品を朗読していただき参加者で感想等を述べあい貴重な2時間を過ごしました。島根県詩人連合で出席したのは、撰者の田村のり子さん、閤田真太郎さん、事務局長の川辺真さん、理事長の洲浜昌三の3人でした。

今年の入賞者の大きな特徴は高校生たちが上位に入ったということです。今までもそういうことはありましたが、銀賞や銅賞にたまーに1名か2名に過ぎませんでした。金賞の『僕』を書いた竹下奈緒子さんは出雲商業高校生、銀賞『ハロウイン』の中島千尋さんは松江高専の学生、同じく銀賞『純』の青木茂美さんは出雲商業高校、銅賞『おばあさん』の勝部椋子さんも出雲商業高校。

高齢者の作品はどうしても過去の回想になったり、記録だったり、若々しい感性は欠けています。しかし上記の若い人たちの作品には脆いところはあっても新鮮な感性が息づいています。確かに魅力的です。

小林さんの『としをとると』、持田俶子さんの『まあちゃんの自転車』は若い人にはかけない分厚い時間の堆積から滲み出てくるような哀感がありました。本来なら優劣をつけることはできません。

みなさん、おつかれさまでした。来年もまた参加してください。

 

 

島根の詩人 原 敏(田原敏郎)

詩人 原 敏  石見方言で3詩集刊行         【続人物しまね文学館】                                                                                                                                洲浜 昌三
日本が壊滅的な打撃を受け混沌としていた敗戦直後、益田で詩の同人誌『鶯笛』、松江では『自由詩』が創刊された。『戦後詩誌の系譜』(志賀英夫)によれば1945年に創刊、復刊された詩誌は全国で22誌しかない。島根の戦後詩の始動は全国的にも先駆けであった。

『鶯笛』の中心は原 敏(田原敏郎)だった。原は27年(昭和2)益田に生まれ、45年3月、松江工業高校機械科を卒業し、大和紡績で製図書きを担当していた。仲間と詩を語り作り、得意な技を生かしてガリ版を切り、白想社のキムラ フジオへ印刷を頼んだ。同人は若者5人、後に佐藤繁次が加わった。彼は妻の実家へ疎開していたが市の職員で文化活動の立役者であり、原が尊敬する才能のある詩人でもあった。

同人の相次ぐ離郷で47年秋『鶯笛』は3年で終わった。原も進学を決意して上京したが、カリキュラムの違いで目指した大学の手続ができず、荒涼とした東京生活を離れて帰郷、代用教員なども勤めたが、再び志を貫くために京都へ行き高校時代の友人がいた花園大学へ入学、2年時に編入試験を受け立命館の日本文学科へ移った。生活費を得るために映画の看板や紙芝居の絵を描いたり様々な仕事をした。大学4年の年に第一詩集『都会のかたつむり』を出した。佐藤繁次がそれを聞きつけ祝いに来た。「二人で痛飲した。胸にこみ上げてくる涙をおさえて飲んだ。」再会した佐藤は詩や演劇で活躍していたがその後命を絶ち、これが永遠の別れとなった。

大学を卒業すると大阪府立中学校の教員になった。北園克衛の『VOU』や『静眉』に詩を書き、新大阪新聞詩壇へ投稿し、その仲間と「日本児童詩の会」を結成して児童詩誌『詩の手帳』を刊行した。教科書編集委員に任命され詩の教材選考にも関わった。しかし生活も夢も軌道に乗りはじめた矢先、父が他界。涙をのんで62年(昭和37)益田へ帰った。『石見詩人』の主宰者・キムラは書いている。「10数年後、原敏は益田工高の教諭となって突如ぼくらの前へ出現した。ベレー帽に口ひげをたくわえ、詩の会合では軽快なジョークを飛ばし呵々大笑して席上を独占的に賑わした。」繊細だが快活、豪快だった。  74年(昭和49)には子供たちの情操を育てることを目指して小学校の先生を中心に「蟻の会」を作り、児童詩『蟻』を創刊した。毎号小学生の詩を80編以上載せて寸評を書いた。優れた作品を詩集にしたり、児童詩の指導指針の冊子を何度も作り、手書きの会報を毎月発行、217号まで出した。『蟻』は2011年に81号を出して27年の活動に終止符を打ったが、、子供たちの未来に心を寄せ、大阪時代の経験を生かした献身的な活動であった。

 

72年に島根県詩人連合が結成されると初代理事長になった。詩集は『しめった花火』『日々』、さらに石見方言で書いた詩集、『ひゃこる』『続ひゃこる』『裸虫の歌』がある。  「あんた なにょう そがあに 大声で ひゃこりんさるかな そこの氏やぁ とおの昔 おってじゃなあに 山も田地もな そのままいな 今頃らあ まちばで ええ生活しとりんさるげな わしらもなあ おりんさらんことを つい忘れてなあ 時々 ひゃこることがあるでや」(詩「ひゃこる」の冒頭)

「耕地が少なく荒々しい地形と荒波を受ける磯部で生活を確立してきた石見人の言葉には、赤裸々な人間本質の心の叫びがある」と原はいう。

 詩や著作から、形式主義や因循を嫌い自己の信念を貫き真実の声を聞こうとする石見人・原 敏の一徹な姿が浮かぶ。そこには、軍靴で青春や自由や尊厳が踏みにじられた時代を生きた世代の強靱さもあるのかも知れない                                       (島根県詩人連合理事長 「石見詩人」同人)

 上記の文章は2011年12月2日の山陰中央新報の「人物しまね文学館」に掲載されたものに写真を追加しています。ぼくが昭和40年3月に早稲田を卒業して島根へ帰り最初に赴任したのが県立益田工業高校でした。昭和38年に新設された立派な学校でした。そこに国語の田原敏郎先生や矢富厳夫先生がおられて石見詩人の同人でした。ぼくは詩ではなく「日本海文学」へ小説を書いていましたが、誘われて同僚の数学教師・岩石忠臣さんと加入しました。

 田原先生は実に豪快で竹を割ったような人でした。小学生の2人の息子へ英語を教えてくれ、と頼まれ教えたあと2人で飲みながら文学談義を遅くまでやったものです。飲むために教えたようなものです。先生は早稲田の文学部を受験に行かれたそうですがカリキュラムの違いから手続きができなかったそうです。益田工業高校では詩作同好会を作って同人誌を発行され、卒業時にはまとめて詩集『卒業』を作られました。何しろ機械科卒業で製図など

お手のものですから手書きの字など実にきれいなものでそれを輪転機で印刷して会報などは作っておられました。考えの違いから「石見詩人」はやめて、一時「山陰詩人」に詩を書いておられたこともあります。正義感にあふれ一徹なところがありました。ぼくも「蟻」の会の会員でしたが、毎月の会報発行と郵送、100編近い児童の作品に一つ一つ批評を書かれたことなど誰にもできることではないと思っていました。終刊後に会員がお礼の志を集めて感謝しました。

 この時期には石見詩人の高田賴昌さんも朝日新聞地方版で児童詩の選をして毎週掲載していましたし、浜田では石見詩人の熊谷泰二先生、閤田真太郎、山城健さんたちを中心に児童詩を募集し「石見のうた」を毎年発行していました。全国的にも珍しいことです。田原先生は大阪での経験や児童詩にたいする信念からもその意地を通されたのでしょう。『蟻』は全国的に活動していた詩人たちにも送られ寄稿文も寄せられています。

 『詩歴』創刊が昭和20年の秋か、21年の秋かは重要な意味があります。田村のり子さんの「出雲石見地方詩史50年」の年表には20年とでています。しかし後にでた「島根の詩人たち」では「敗戦の翌年ガリ版の鶯笛を創刊」と書いてあります。田原先生自身も『鶯笛』は手元にないとのこと。どこの図書館にもありませんし、矢富先生もないとのこと。実に困りました。いろいろ状況証拠を集めて昭和20年秋としました。本人の記憶も明確ではありませんでした。『詩歴』や『鶯笛』を持っている人がいたら是非見せてください。田原先生が戦後いち早く詩活動をはじめたのは松江工業高校時代の軍政下でもそれを越える自由な思想を持っていたからでしょう。そは重要なことですが、少ないスペースでは書きませんでした。

 文中の佐藤繁次について紹介しておきます。「戦後文化樹立の中枢となった「益田町文化懇話会」を神原正三、篠原信、大谷垣、土田伊平などと結成し、その運営活動の軸として活躍した他に『緑野』同人、『石見洋画界』、「農民組合文化情報部」など益田の文化のために枚挙のいとまがないほど貢献した人であった。市役所職員のサラリーを文化に投資して静子夫人とケンカ別れをし昭和24年故郷の大阪へ帰り府庁に勤めていたが、昭和29年4月20日自ら命を絶った」(石見詩人38号)

 『鶯笛』の同人はつぎのとおりです。「原 敏、岡崎のぼる、浅井昭二、大畑富美子、福原和子など若者グループに途中から佐藤繁次も加わって、早春になく鶯の笛声のような、初々しい誌文学の創造をめざした」

 最後に山陰中央新報の紙面を紹介させていただきます。来年には『続・人物しまね文学館』(想像)として出版される可能性が大でうからPRも兼ねて。

 山陰中央新報での週1回(金曜日)の連載は1月末前後まで続く予定です。すでに詩人の高塚かず子さんの原稿は新聞社へ送っています。ぼくの担当はあと2人です。中村満子さんの原稿は仕上がりました。詩集を10冊読み、敗戦前後の資料を集め、年表を作っていくうちにやっと「書くべき核芯」に至りました。ぼくの内的な文学精神を揺さぶる動機が生まれないと書けません。これが難しいですね。あと閤田真太郎さんが1人残っています。資料は集めていますので年表をつくりじっくり書いていきます。年末も近づいたのにいつものように宿題山積未提出人生です。