R6,「松代・鬼村鉱山とその関連遺構」学習会(5/18)

表題の第2回学修会があり参加して、3人の関係者から話を聞きました。旧大屋小学校体育館へ行ったのは初めてでしたが、立派な体育館で、このように活用されるのは嬉しいことです。

松代鉱山については大変苦労したことがありました。それで話を聞きたくて出かけました。もう10年以上前ですが、いき出版社が写真集「石見の100年」を出版するとき、30枚ばかりの昔の写真に解説を頼まれました。

その中に次の写真がありました。

「大田鉱山株式会社」初めて見た名前です。久利町松代は行恒の隣の集落。数人の人に聞きましたが、「そんなのがあったらしいね」くらいしか分かりません。色々と調べました。いつ閉山になったのか資料がありません。市役所に聞きましたが駄目でした。最後の社長だったという市議会議員の子息に聞きましたが、まったく分かりません。閉山は「昭和42年頃」だろうと推測しましたが、明確な数字が分かりません。ものを書くとき、「数字と固有名詞」は恐怖の鬼です。間違えば命取り、信用ガタオチ。数字を避けて説明することも可能ですが、逃げるのも癪です。
そんなことがあったので、ぜひ聞きたいと思って出かけました。

学習会では。3人の方が話されました。採掘資材の納入や坑内のメインテナンスに関わられた久利町の沖さん。子供の頃、鉱山の近くで育ち鉱山にも入ったという谷口さん。父親がトラックの運転手として石膏を静間駅まで運んだという谷口さんです。それぞれ自分の目で見て経験した実体験を基づいた話ですから、実感が伝わってきました。コーディネーターの中村先生や阿部先生が、簡潔にポイントをまとめ、それぞれの持つ「歴史的意義」を説明されました。日本の高度成長時代に、この石膏は大きな役割を果たしたことがグラフや数字で証明されました。
松代鉱山に入ると、体育館くらいの大きな空洞もあるそうです。岡山県の吹屋へ行ったことがありますが、鉱山跡をうまく観光に役立てていました。現在に生かす方法があればいいですね。貴重な歴史遺産です。

こうして調査し、記録に残す仕事も貴重です。そこからいろいろなものが発想されたり、PRされたり、新しいものが生まれたりする可能性を秘めています。大田市にはちゃんとした市史がなく、調べ事をするときいつも苦労します。今回の活動がいつか記録として「市史」に掲載されることを期待しています。
(ブログ:地域情報 詩の散歩道 20240519洲浜昌三)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です