「詩集や本の紹介・感想」カテゴリーアーカイブ

H23 『中四国詩集』第4集を刊行

2011年7月、『中四国詩集』第4集(2011版)を刊行しました。第一集は2002年に発行しています。3年に一度発行することになっています。4集では109篇の詩が載っています。

 作品を載せないと内容もわかりませんが、題と名前だけでも紹介しましょう。それぞれ存在感のある作品で個性的です。何を書いているのかわからないというような作品はほとんどありません。春の若葉や青葉、秋の紅葉などいっぺんに眺めるような豊かさが読後に残ります。

53ページの作品は岡山の一瀉千里さんの『土江こども神樂団(大田市)』という詩です。中四国詩人大会を三瓶で開きましたが、その時「土江こども神樂団」にお願いして石見神楽を舞ってもらいました。そのときのことが素材になっています。いつかどこかで紹介しましょう。

序「詩になにができるか」を紹介しておきます。東北大震災が3月11日に起こりましたが、この詩集はそれ以前に募集を締め切っていますので、大震災や福島原発事故を反映した作品はありません。序は大震災後に書いたものですが、言葉を失った状態でした。

この詩集は岡山市の和光出版から出版されています。編集長は岡山の蒼わたるさんん、編集委員は壺阪輝代さん、今井文世さんです。頒布価格は1500円。事務局は692-0014 安来市飯嶋町1842 山根方 川辺 真です。残部はまだありますのでどうぞ。主な図書館には寄贈しています。3年後に参加したい人はぜひ中四国詩人会へ加入してください。年会費3000円です。

2011年7月に岡山市で開かれた理事会のスナップです。今年の10月1日には四国の四万十市で大会が開かれます。

田所出身の作家・小笠原白也のこと(1)

小笠原白也は島根県邑智郡邑南町(合併前は瑞穂町)田所の生まれで、明治39年に大阪毎日新聞主催の懸賞小説で一等になり新聞に掲載されて本になると8版を重ねるベストセラーにもなり、劇や映画になり人気を博した作家です。しかし現在その名前を知っている人はほとんどいません。このままでは完全に過去の歴史に中に埋没してしまいます。

幸いなことに、山陰中央新報が続「人物しまね文学館」を平成22年10月1日から毎週金曜日に連載中です。今回、同じ田所生まれという縁もあり、白也を担当していろいろ調べました。郷土の人たちにとっては白也の小説や業績は文化的な宝ですが資料がほとんどありません。新たなことが分かれば最高です。白也を研究したという人、大阪の小学校校長時代のことを知っている人、大阪毎日新聞記者時代の記録、本や劇の台本を持っている人、白也の映画をみたという人、白也が書いた随筆等々、新たなことをぜひ知りたいものです。次の文章は「人物しまね文学館」に多少手を加えています。そのうちNO.2を書きます。ではNO.1です。

 (写真は田所公民館が復刻版を出したときに掲載されたものです。漢文や漢詩に通じ、毛筆は力強く普通の書道家の域を超えています。田所に「不老泉」という銘酒がありますが、その字は白也が書いたものです。)

小笠原白也 『嫁ヶ淵』で人気作家に                                        洲 浜 昌 三

邑南町井原に国の名勝に指定された断魚溪がある。両岸にそそり立つ断崖絶壁の谷底に清流が流れ、広い岩盤や奇岩、滝、淵など渓谷の景観は峻厳な山水画の世界である。
30代後半で大阪の小学校校長だった小笠原白也は、故郷の断魚溪を背景にして小説『嫁ヶ淵』を書き、大阪毎日新聞の懸賞小説で一等に入選、明治40年(1907)1月から3ヶ月間連載され評判を呼んだ。東京の金尾文淵堂から単行本になって出版されると重版を重ね、後編の執筆を依頼されると、これも好評で大正3年には8版に達した。
ちなみに、津和野出身の中村春雨(吉蔵)も明治34年に小説『無花果』で大阪毎日で一等になっている。当時は新聞社が競って小説家を社員に抱えた。連載小説が当たると新聞の部数も飛躍的に伸びたからである。

(上の写真は「嫁の飯銅」(よめのはんどう)飯銅というのは水などを蓄えておく大きなかめのことで、石見地方では井戸水などを汲んでその中に入れ台所の隅などに置いていた。淵をよく見ると表面はすべすべしていて深く、まさに飯銅の一部のように見える。「断魚溪はもともと魚切とよばれ、嫁ヶ淵は嫁の飯銅と呼ばれていた」と白也は山陰新聞の随筆に書いている。)

嫁ヶ淵はもと「嫁の飯銅」と呼ばれていた。「嫁のはんどう」では題として変なので「嫁ヶ淵」と白也は名付けた。正義感の強い主人公の矢上政八は妹の梨花と二人暮らし。大地主の井原猛夫は東京から子爵を招き梨花に接待させる。梨花は子を宿すはめになり嫁ヶ淵へ身を投げようとして助けられ京都で子爵の別邸に囲われる。村の指導者定吉の妻は井原の伏魔殿で同じ目にあい嫁ヶ淵へ身を投げる。定吉は小作人の暴動で井原を斬りつける。井原は矢上に財産を任すと言って息絶える。矢上は井原の娘・弓子と結婚。小作人との土地問題を解決していく。
この小説は各地で劇になり、明治43年には吉沢商店制作、昭和7年には新興キネマ制作で8巻の映画になった。
小笠原白也(本名は語咲)は明治6年6月10日、邑南町田所上、堂所谷の梅田屋に生まれた。小学校の代用教員をしていたが20歳ごろ志を立てて大阪へ出て関西法律学校(現関西大学)で学び、念願の教職についた。此花区上福島北に住み、啓発小学校などの校長を務めたが、小説入選を機縁に大阪毎日新聞へ入社、後に校正課長なども務めた。昭和10年(1935)62歳で退職すると顧問になり同社下請け会社の青年学校校長として新聞人育成に力を注いだ。
白也には10冊の本がある。『嫁ヶ淵』は田所公民館が昭和60年に復刻版を出しているが他の本は図書館にもない貴重本である。
『女教師』『見果てぬ夢』『妹』『三人の母』『此の一票』。以上は長編小説。
『此の一票』は長編小説。『三人の母』は明治45年に新聞に連載され帝国キネマの制作、曽根純三監督、歌川八重子主演で映画化。劇にもなり京都の明治座で『初時雨』と二本立てで上演、好評だったので延長して1ヶ月間公演された。(『嫁ヶ淵』は明治43年に吉沢商店が映画化、昭和7年には新興キネマが山路ふみ子主演で映画化。明治44年には『濡れ衣』が福宝堂の制作で映画になっている。)


『いそがぬ旅』『南朝山河の秋』は史跡を訪ねて綴った歴史随筆。『その夜』は次の三篇から成る。「僕等十人の兄妹」は各地で活躍する10人の兄妹が優しい母に来て欲しくて取り合うユーモラスな小説。故郷の地名や風景も出てきて実話を思わせる。「櫻姫」は時代劇脚本。「ハンザケ村」は鈍重不遜な山椒魚の姿を故郷の村人や父の実直な生き方に重ねてエールを送った文明論的な随筆。87歳で逝った父・語七郎への回想もある。
大正15年に『南朝時雨の跡』の近刊広告を出したが未刊に終わった。。昭和に入ってなぜ書かなかったのか。健康問題か。戦争に向かう時代との確執があったのか、文学的に行き詰まったのか。白也の著作は、山陰新聞へ寄稿した昭和15年の随筆「春窓閑話」しか確認できない。
当時の新聞連載小説は家庭小説と呼ばれ、『金色夜叉」のように女性の悲劇を描いて読者の感涙を誘い、ベストセラーになると映画や劇にもなって大衆に迎えられた。しかし自然主義やプロレタリア文学全盛時代になると通俗的で文学性がないと切って捨てられた。 感動的な力作を残し作家として名を成しながら、小笠原白也を知る人がほとんどいないのは、ここに原因の一つがある。雑誌や新聞での評論もなく、白也の時間は何十年も停止したままなのである。

(写真は旧瑞穂町が閉町記念として平成16年に発行した『みどりの山河を抱きしめて 環翠 写真で見るみずほの50年』より。白也の父は村のために大いに尽くした。とても歴史が好きで詳しかったらしく、白也はその影響を大いに受けている。父の記念碑ですが、白也の記念碑もほしいですね。その価値は十分ありますよ。)
白也は度々故郷へ帰った。昭和13年春には伯耆、出雲、石見の史跡を巡って帰郷し、婦人会や戸主会に頼まれて民家で百人を前に講話をしている。
石州軍が毛利軍に敗れたのは指揮者不在で団結力がなかったからだ、と得意な歴史をひもといて解説し、石州人特有の「負け嫌い」を越えて一致団結しないと村の発展はない、と語った。
昭和20年(1945)大阪で戦火にあい、敗戦間際に故郷の堂所谷へ帰ってきたが、翌年6月4日、73歳で帰らぬ人となった。
死に臨んで白也は所有していたすべての蔵書類を土に埋めさせて「文塚」を築かせたという。白也は何を示そうとしたのか。自己否定か。敗戦への悲憤か。占領政策への抗議か。日本の伝統文化喪失への落胆か。今になっては作品から推測するしかない。( 日本劇作家協会会員 )

田所の日高勝明さんは田所分校(今はない!)で一級下でした。高校時代から文化や文芸、演劇活動にも熱心で、町会議委員になっても文化芸術への理解が深く、今回の小笠原白也についても大いにバックアップされました。『嫁ヶ淵』の復刻版編集者の一人でもあります。田所のどこからか白也の本や、演じた台本などが出てこないかと彼も力を尽くしています。

次は、白也の著作物についてちょっと詳しく紹介してみます。

 山陰中央新報に掲載された紙面です。風景とし紹介しましたので字は読めません。読みたい人は購入して読むか図書館でどうぞ。

 

閤田真太郎詩集「十三番目の男」を読んで

2010年1月、石見詩人同人の閤田さんが詩集「十三番目の男」を砂子屋書房から出版されました。浜田市久代町の海辺で農業を営みながら詩を書いてこられました。これは第6詩集になります。

これまでの詩集を表紙で紹介しましょう。『博物誌』は詩画集で池田一憲さんが独特の濃密な絵を描いてる個性的な詩集です。

次の文章は「石見詩人」125号へ書いた感想文です。

詩集『十三番目の男』を読んで 洲浜昌三
「1月21日にこの詩集を流し読みしたとき、次のようにメモしている。
「言葉が引きずっている存在の重さを感じた。言葉がつり下げているものの重さ」
5月22日に再読したあとで、次のようにメモしている。
「とてもいい詩が多い。大自然の土と格闘して生きてきた重厚な生が哀感とともに伝わって来る。その土着的で人間臭い泥臭さと同時に、高い志や知性、知識欲が作品の端々に感じられ、その知性を支えるエネルギーが熱となって伝わってくる。後者が作者の本質だったのかもしれない、とふと思った。
作者の父は戦後の経済的に苦しい時代の中で開拓農民という道を選んだ。朝鮮から引きあげると、作者は長男として父親と生を共にせざるをえなかった。もし学問の道を許されていたら高い知性の成果を残したかもしれない。しかし実際は過酷な開拓農民という現実の中でそれを飼い殺し状態にしなければならなかった。
この詩集を読み終わったとき、かけ離れた両極から生まれた作品が、ぼくの思考や想像を地から天まで運んでくれる楽しさを味わった。ユーモアがいままでになくあちこちで顔を出し、自虐的に斜に構えた姿勢が見えたり、孤独な横顔や空虚感、哀感が漂う作品が多いのも印象に残った。」
6月の15日頃から数日かけて丁寧に読んだときには次のようなメモを書いている。
「理には理で読むので詩の世界が狭くなる。知識や理屈で一つの詩の世界を創ろうとすると、その中に不合理な論理や偏狭な知識、作者の思い込みが入っていれば読者はつまずいたり反発したり自己葛藤が生じる。詩は論理や理を越えたところに生まれる世界。論理的に知識を積み上げてもそこに到達していなければ論文やエッセイで書いた方が説得力が生まれる。インタービュー形式や会話形式で書かれた詩の質問は応答者が予期し期待している範疇の作者合意のなれ合い質問。ペダンティックな詩に対するてらいや斜に構えた自虐敵発想から出てきた言葉が多く詩の緊張感や品位を下げているかもしれない。」
3回も読むと違った角度で読むからだろうか。これが同じ詩集に対する感想か、と我ながら疑いたくなるが、すべて「十三番目の男」に対する感想である。どこに比重を置いたて書いたかの違いに過ぎない。
四回目に読めばもっと掘り下げて詩とは何かという観点から書くかもしれない。

(石見詩人の合評会で撮影。右は、くりす さほさん。つい最近詩集『いつか また』を浜田の石見文芸懇話会から出版されました。感性豊かな詩がたくさん載っています。そのうち紹介しましょう。)
この詩集はⅠ、Ⅱ、Ⅲと三部に別れていて、ⅠとⅢは身辺の素材から生まれた詩が中心であり、共感できる詩がたくさんある。特に大きな存在だった作者の父、同じ月に2人の命を見送った母親と奥様を素材にした詩は胸を打たれる。
Ⅱは詩集の表題になった「十三番目の男」(続・又を含め同じ題の散文詩三作品がある)を中心に構成されている。ここを中心に読むとどうしても理屈や理論で対抗したくなるし、作者の意図や理解を問いただしたくなることに度々出会う。
作者はこのⅡを中心にして詩集の顔にした。なるほどと納得する点はあるが、一冊の詩集をつくるとき、どういう詩を載せるか、どうゆう配列にするか、どうゆうタイトルをつけて顔にするか、という点でもいろいろ考えさせられた。

『十三番目の男』というタイトルはダイナマイトのように強烈である。映画か本にあったような気もする。十三階段とも結びつく。何が書いてあるのだろう、という興味もそそる。その点では「やるもんだな」と感心する。しかし詩集を読み終わったとき、「十三番目の男」しか印象に残らない。ⅠとⅢのとてもナイーブなすばらしい詩が吹っ飛んでしまう。これはぼくだけの現象かもしれない。十三番目のような縄文時代から現代までの長い土地の歴史を論文調の散文詩で中心に据えるなら、そういう系統の詩で一冊を仕上げないと他の詩が可愛そうだ。他の詩がいいだけに余計そう思った。」

この詩集は平成22年に第21回富田砕花賞を、永井ますみさんの『愛のかたち』とともに受賞しました。上の写真は受賞式後の写真です。合評会のとき閤田さんが持参されたDVDをテレビに映してみんなで鑑賞しましたが、そのテレビの画面をカメラに写したました。古い古いテレビでしたので目が粗く顔は分かる人にしか分かりません。ちなみに永井さんは神戸市在住ですが米子の出身です。閤田さん、永井さん受賞おめでとうございます。

閤田さんは昭和9年生まれ、日本現代詩人会、中四国詩人会、島根県詩人連合(理事)、裏日本ポエムの会に所属。詩集は2500円、砂子屋書房か著者へどうぞ。〒697ー0004 浜田市久代町1655

 

H23 7/2 故石村禎久氏へ石見銀山文化特別賞

新聞によると2011年7月2日に第4回石見銀山文化賞表彰式が中村ブレイスで行われ、ノンフィクション作家の千葉望さん(東京都在住)に文化賞、故石村勝郎(禎久)さんに特別賞が贈られました。この賞は中村俊郎社長が世界遺産登録一周年と創業35周年を記念して2008年に創設されたもので、昨年は石見銀山天領太鼓が特別賞を受賞しています。文化活動の重要性を考えてこのような賞を設けられた中村社長に敬意を表するものです。また石村さんの業績が評価されたことをとてもうれしく思っています。

石村さんは石見銀山や三瓶、石東の歴史にについてたくさんの本を書いておられます。9日の山陰中央新報の明窓では著書は20冊に及ぶと書いています。出版の度に買い求めてきましたがとても示唆に富み参考になります。実証的な歴史書ではないために歴史家はいつも距離を置いて冷ややかな見下す目で見ていますが、ぼくなどはそこがとても面白く示唆に富んでいて空想を刺激してくれます。

(右端の本は、竹下弘氏が長年執筆された銀山の歴史をまとめ中村社長が中村文庫として出版された『私説 石見銀山』貴重な本です。左の12冊は石村勝郎さんが出された本。貴重なこともたくさん書かれていますが、創作という視点でよむと創作欲を刺激されることがあちこちにあります。詩人だったからですね。)

考えてみれば石村さんは毎日新聞の記者でしたが、詩人としてスタートされたのです。最近島根の同人詩誌を調べましたが、昭和16年6月に島根の詩人が松江へ集まって島根県翼賛詩人会が結成されたとき、吉儀幸吉、門脇真愛氏とともに石村さんは幹事に選ばれています。10月8日には島根県翼賛歌人会と協力して『勇士に捧ぐ』という詩歌集を作って国立病院などに送っています。詩は33篇、短歌は231首あったそうですが、貴重な本はどこかにあるでしょうか。是非手にしてみたいものです。この会では毎月松江の千茶荘へ集まり『作品』というガリ版の詩誌を機関誌として6号くらいまで発行したそうですが、石村さんの家にはあるのでしょうか。貴重です。

石村さんは昭和20年に招集令状がきて薩摩半島の南端、開聞岳のふもとで終戦を迎えるのですが、「詩にうたった皇軍の姿、日本軍の姿、それはイメージとは余りにもかけ離れていた。上も下もエゴイズムのかたまりだった」と書いています。

昭和21年元旦を期して詩誌『詩祭』の創刊号を出版。今井書店に定価2円50銭で委託してすぐ売り切れたとか。文化に飢えていた時代だったからでしょう。同人も会員も2円50銭で、紙が手に入らない時代に8月までに6冊を発行。石村さんは松江から大田へ転勤になり、『詩祭』は財政難もあって廃刊になりました。

大田の毎日新聞通信部勤務となった石村さんは大田で『司祭』を出しました。表紙は民芸紙、中身の紙は三隅町から取り寄せた石見半紙。「滝川共や山根フミがいい詩を寄せた」と石村さんは書いています。30ページほどの紙誌ですが2号で廃刊になり、詩誌『エンピツ』を発刊しました。これが何号まで出たのかわかりません。持っている人がいれば是非ぜひゼヒ貸してください。大田の詩誌の記録としてまとめてみます。

石村さんは石見詩人へもたまに詩を書いていました。しかしぼくは当時石村さんが情熱的な詩人だったことをまったく知りませんでした。そのうちいつかゆっくり話を聞きたいと思っていましたが、当時は多忙を極めていましたし、偉い人の時間を奪うのは失礼だと卑屈な姿勢でしたので、年賀状のやりとりや簡単なハガキの交換くらいしか交流はありませんでした。今思えば残念です。2001年に85歳で他界されました。

上の詩集は昭和52年10月に自費出版されたものです。哲学的な短詩、三瓶、石見銀山など地元の歴史をうたった詩、成人式などで朗読された詩など43篇載っています。

以前島根県詩人連合で『島根の風物詩』を刊行したとき、石村さんの詩も数編検討したことがあります。独自性が少し弱い気がしたのでこのときには採録はしませんでしたが、目下続編を発行する計画が進行中なので再度石村さんの詩も検討してみるつもりです。

石村さんは貴重な詩誌や本などをたくさん所蔵しておられたはずです。いつか見せていただきたいといつも思っていました。新聞では大田市在住の二女石村京子さんが受賞式に出席されたと書いてあります。「こつこつと頑張ってきた父を誇りに感じる。天国で照れながら喜んでいると思う」と京子さんの談話が載っています。

ああ、やっぱり照れ屋だったんだ、とあの端正ではにかんだ青年のような笑顔を思い浮かべています。お孫さんは大田高校でちょっと教えたことがあります。演劇もちょっと手伝ってくれたことがあります。いまどこにいるのかな。元気で活躍していることでしょう。おじいさんの受賞おめでとうございます。

石村さんが山陰中央新報の地域文化賞を受賞されたときお祝いの手紙を出したことがあります。お礼の返事がきましたが、その中に書かれていたことを思い出します。 いしむらさん、おめでとうございます。

岩町功著 評伝『島村抱月』上・下巻 

岩町功先生のライフワークの一つでもあった島村抱月の評伝が上、下巻になって出版されました。上巻だけでも811ページ、更に巻末には克明な事項索引、人名索引21ページがついています。抱月の克明な評伝であると共に、抱月の父が鉄山師として活躍した時代のたたらの歴史などがとても詳しく書かれています。貴重な写真や統計や資料も豊富で、さすがは経済学部で学ばれた学士だと納得迂しました。文学的なセンスと共に社会科学的な蓄積が光っています。単なる抱月の人物伝ではなく、彼が所属し、生きた社会や組織、人物などとの関係が実に克明に書かれています。

この上下2巻の書評を頼まれて山陰中央新報で紹介しました。ていねいに読んでいったので1ヶ月近くかかりました。もともと遅読な上に抜き書きしながら読んだものですから余計に時間がかかりました。大部な書ですから飽きるかと思いましたが、そんなことはなくとても面白く読みました。推理小説仕立てのように、疑問を提出しておいて、それを資料などで解いていくという書き方です。著名な人物も次ぎ次ぎ登場しますのでそれも興味を引きます。早稲田に学んだ者にとっては当時の都の西北を知る貴重な書物でもあり熱い血潮がたぎります。

発行所は石見文化研究所(697-0027 浜田市殿町48)です。定価は上下で8400円です。図書館などには必携の書物です。

書評 克明な『島村抱月』評伝 岩町功著
歪んだ評価正す ー近代演劇史に貴重な一石ー

待望の著書が刊行された。上・下巻で千七百ページ。多くの資料を駆使して書き上げられた抱月の克明な評伝である。
同時に、江戸末期からの鈩業者・祖父一平から、平成十七年抱月の三女トシが永眠し、島村家の血が水に帰すまでの壮大で悲痛なドラマでもある。
さらに、歪められ不当に評価されてきた抱月の実像や業績に真実の光を当てようと四〇年にわたり資料を集め検証してきた岩町氏が世に問う意欲的な研究論文でもあり、実証的な近代演劇史であり、現代にも通じる熱い演劇論の書でもある。
巻末の詳細な年譜や工夫された索引、五百以上の膨大な参考文献も読者や後続の研究者にはありがたい道しるべである。
著者には三十一年前に出版した同名の本がある。祖父一平のルーツ探しから始め、石見の鉄山の歴史、現浜田市金城町で生まれた佐々山瀧太郎が貧困のため十二才で浜田へ出て働きながら夜学へ通学、十八才のとき検事嶋村文耕に認められ養子縁組、学資援助を受けて東京へ発つまでのことが書かれている。
昭和五十三年にこの本が出たとき、江藤淳は朝日新聞の文芸時評で高く評価し、司馬遼太郎は、「経済史の学徒で演劇にも明るい希有な研究者を得て抱月はまったく幸福だ」と書き記している。
今回の評伝ではその後の研究成果を取り入れて書き直してある。
抱月は優秀な成績で早稲田大学を卒業、大学の援助でイギリスやドイツへ留学、帰国後は新進気鋭の教授、『早稲田文学』の編集者として文芸評論や演劇論で第一線に立ち、坪内逍遙の期待を受けて文芸協会を設立。そこで研究生の松井須磨子と出会ってから運命が一変した。恩師逍遥と袂を分かち、協会二期生や須磨子と芸術座を創立、家庭を捨て須磨子と暮らし、新劇を上演して全国を巡業、台湾や大陸まで公演して回った。
芸術性を最優先する小山内薫は、「新劇を低俗化した」と非難し、抱月は「芸術性と大衆性、二元の道」を追求していると反論したが、なぜか現在まで小山内流の説が抱月の評価になっている。
「これまで日本新劇史は抱月を俗物化するために随分手を貸したが、抱月の卓越した思想には一顧だにしていない」と憤慨し、著者は膨大な記録や証言を載せてこの歪んだ評価を正している。日本近代演劇史に投じた貴重な一石である。
大正七年四十八才でスペイン風邪で死亡、二ヶ月後須磨子、後追い自殺。
「まとまった仕事をするとき必ず不幸に逢う」と抱月が述懐したように、今回もそうであった。
身を潜めて暮らす家族。実父の焼死、未婚を通した三人の娘、結婚後二ヶ月で戦死した長男、一高生で自死した秀才の次男。
抱月の影の側面も著者は記録や面接を基にあえて事実を公表する。それが鎮魂であると信じて
「抱月のような人になるな」と祖母から言われて育ったと岩町氏は語る。
抱月は「女に狂って家族と教授の職を捨てた男」であった。
芸術座は山陰公演では大田まで来て相生座で『復活』を公演したが、浜田へは行かなかった。そこは「父の借金取りが待つ町」でもあった。
「抱月のようになって」書かれたのがこの本ではないかと筆者には思える。
当時の著名な小説家や演劇人などがたくさん登場するのも楽しい。また疑問を追求する推理小説形式で書かれているので、小説のように読めるのもこの本の特徴である。