吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む

2011,3,9倉敷市の詩人吉田博子さんが『聖火を翳して』(せいかをかざして)をコールサック社から出版されました。第11詩集になります。依頼があって『COALSACK』70号へ詩集評を書きました。紹介します。

吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む
自己凝視から弱者への優しい眼差し
洲 浜 昌 三
詩集を手にした時、しばらく表紙に見入った。質素だがどこか華さと豊かさがある。長方形の枠の中の絵は幼児が描いたように素朴で素人っぽいが色彩豊かで鮮やかだ。計算や技巧のない大らかさが、現代が失った豊かさを語っている。
詩を読み終わって改めて表紙を眺めていると、新たな角度から作品の底流が見えてくるような気がした。
この詩集は三つの章から成る。Ⅰ章、Ⅱ章は詩、第Ⅲ章は絵画で、40数ページにわたり作者の絵と9枚の「たっくん」(作者の孫)の絵が載っている。


作者は日常生活で触れ合う自然や人、風物などを素材にして読者を詩の世界へ誘っていく。虚構や技法や高度な抽象で表現しようとはしない。思いや洞察を素直に記述していく。言葉は抵抗なく読者の心に入っていく。しかし作者の感慨の域を越えない場合は何も触発しない場合もある。詩には、素材に言葉が埋没せず、それをジャンプ台にして飛翔していくものが必要である。
ここ10年くらいの間に吉田さんの詩集は『詩選集150篇』を含め5冊読ませてもらった。第8詩集の『立つ』から『咲かせたい』『いのち』そして今回の詩画集である。それらの詩集には共通した基盤がある。それは「自己への執拗な視線」、「背負わされた自責」、「痛点の敏感さ」であり、同時に「姿勢の低さ」、「弱者への優しい眼差しと思いやり」である。その強さや深さは普通の何倍もあるのではないかと想像する。そこから生まれてくる痛みや怒り葛藤などのマグマに自ら傷を負いながら、内蔵し、凝視し、詩という文学の世界へ昇華させてきた。
今回の詩集にも執拗な自己凝視や痛切な自責、非合理への怒りがある。


「嵐の海は愛のかたみを流す以外になかったわたしを/激しく包んで抱きしめてくれた」(「あの夜の港」)「業の深いわたしという女/片方の手を/空のむこうへ伸ばしてみても/つかめない希望/そんな欲深い心に/夜の灯台の灯は/静かに心のドアをトントンとたたくのだ/じっと自らを見つめてごらん、と」(灯台)「時が わたしの積みあげた愛が/溺愛でしかないことを知る」(「疲れた耳に届く声」)「わたしは死ぬまで/美しい心はもてない/そう思う/いつも心がけてはいても/たちはだかる業に身動きできぬ程/摑まれている」(「愛しい左半身」)
同時に今回の詩集では大自然や生命への慈しみの気持や感謝から生まれた詩も多い。落ち葉の視点や死の視点、死後の未来からの視点、更に普遍的な時間認識から生まれた詩が多いのも特徴である。
「娘や孫が愛しんだ命が/わたしの内の野原に/ろうそくの灯をともす/一つ二つ三つ/でも決してゆるがない愛する芯を/聖火のように翳して」(表題の詩)「愛することは/生きる時間を芯から共有すること/生まれる 逝くこと/それは永遠に紡ぎ続けること」(「自らを織る」)「まんまるの月がぽっかりと/空にうかんでいて/思わず手をあわせる/命を守っていただいている/なぜか知らぬまに心がうるむ」(「はてなの木」)
高機能自閉症だという「たっくん」の絵は、仏さまや魚などの色や形の自由さが魅力的。また4頭の虎の絵は、虎の内面がよく表情に出ていて楽しい。
「おばあちゃんは遠くへ行ってしまっても、いつまでもたっくんといっしょだよ」という思いを作者の吉田さんは具体的な形にして残したかったのだろう。

コールサック社は東京都板橋区板橋2-63-4 (03-5944-3258)この詩集は2千円です。吉田さんは詩画展「折り折りの想い 希い」を2011年10月8日~16日まで開かれます。10時~17時まで。場所はいかしの舎(岡山県都窪郡早島町早島1466)見に行ってください。感じるものがたくさんあると思います。

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