2011年8月7日、浜田市の石央文化ホールで第4回「石央地芝居大会」が開かれました。6団体が劇を上演、約600人の観客が楽しみました。観劇記を依頼されていたので朝から5時頃まで椅子に座りづめでしたが、楽しく観劇しました。
次の観劇記は8月25日山陰中央新報の文化欄に掲載されたものに加筆したものですが新聞など読まない人がほとんどですから、大会の応援を込めてここで紹介します。写真は自分で撮ったものですが、舞台風景として紹介します。
第4回石央地芝居大会
豊穣な時間が流れる/多様な現代劇と地芝居 <洲浜 昌三>
新生浜田市を記念してはじまった「地芝居大会」が4回を迎え8月7日、石央文化ホールで6団体が参加して開かれた。現代を反映した創作劇、自分探しの若者の劇、舞踊、日本人の心を揺さぶる地芝居が上演された。舞台が終わる毎に浜田高校放送部員の司会で劇作りの苦労が披露され、バラエティーに富んだ舞台だった。
地芝居という言葉は現在あまり使われない。地元の人たちが演じる芝居が地芝居だと誤解している人もいるかもしれないので、簡単に説明しておきたい。
江戸から明治にかけて、芝居といえば都会の歌舞伎を指した。農村の有志が江戸や上方から招く芝居は「旅芝居」とか「買芝居」といわれ、その影響を受けて地元の人たちが真似て演じたものは「地芝居」とか「村芝居」「農村歌舞伎」などと呼ばれた。昭和10年前後に黄金期があり、敗戦後に第2次黄金期、昭和50年代からマスコミも取り上げ梅沢富美男に代表される「大衆演劇」の名前でブームになった。地芝居は農村歌舞伎を指したが、明治、大正、昭和の時代を経て新派劇や剣劇の影響を受け、戦後は青年団が各地で上演した新劇の影響も受けて現在に至っている。「地芝居」という名前は現在では使用頻度も低いが、単なる地元の芝居という意味ではなく歴史のあるジャンル名でもある。今回の大会では『絆』だけが地芝居であり、あとは現代劇である。
創作劇『どろぼう日記』(酔族漢、田中栄二作)。認知症で寝たきりの老人宅へ3人の泥棒が侵入して展開されるハプニングで笑いを誘う。認知症も接し方次第で心がつながる-というテーマが埋没したのは、主題より周辺が目立ち過ぎたからだろう。三人の泥棒が認知症の老人と世話をする娘の家へ忍び込むことでまったく異質の人間の出会いからはじまる面白さを狙っているのだが、前半のこの泥棒と娘との奇妙なやりとりで遊び過ぎてこれが観客の印象に残ってしまい、認知症老人は単なる付け足し的な扱いになった。存在感があった老人を周辺は支え、核心を浮かび上がらせたかった。短い劇では遊び過ぎるとテーマがぼける。10分以内にテーマを暗示してテーマの主流に巻き込んでいかなければ観客の緊張感を持続できない。
群読劇『花子がやってきた』(金田サダ子作)。平均年齢が70歳を超える「くにびき学園社会文化18会」の16人が出演。朗読と歌、映像、劇で構成した舞台で、戦争中に上野動物園の象などが飼育員の手によって銃殺されたり毒殺された。そういうことがあった数年後、タイから象の花子が神戸へ送られてきた。一連の実話をもとに作られた。群読劇となっていたが、構成劇に近いと思った。個人の朗読や群読もあるが、飼育員が出てきたりプラカードに絵を描いた像やキリンや蛇などたくさん動物も出てきて舞台を広くつかって劇に近い場面も多い。それらの場面がうまく構成されていた。観客には高齢者が多く、舞台で歌われた数々の戦中戦後の歌は胸に迫るものがあっただろう。観客あって成り立つのが演劇であることを考えれば、作者の金田さんのセンスに軍配をあげたい。力まず自然体からうまれた素朴な演技(というより動き)から自由な風が舞台に流れていてさわやかだった。戦争中に動物園の像などを殺した悲劇はいろいろ脚本もある。『像の死』などは今でもよく上演されて迫力がある。今回の台本では冒頭でパンダの話が出てきたが、観客はパンダが主題かと思って見始める。また上野動物園の像の飢え殺しと神戸へ花子がやってくる場面が同じ比重で扱われているので焦点が散漫になった。焦点を絞って整理すると、さらに印象の強い舞台になるだろう。焦点を絞るということはそれぞれの場面を均等に扱うのではなく、時間や強弱の比重を考えて台本を整理し演出するということだと思う。しかし高齢者でもこれだけの舞台ができると言うことは台本を書かれた金田さんや指導をされた人たちの絶大な力の賜である。
創作劇『られた族の人々』(「創作てんからっと」美崎理恵作)。ドラマツルギーを心得た座付き作家(作者は現在東京在住)と達者な役者が創り上げた舞台で、テンポのいい進行と意外な展開が観客を引きつけて離さない。ホテルの前に捨てられた赤ん坊を育てる支配人夫妻と宿泊客たちの過去が暴かれていく。「息子に裏切られた支配人」「出版社に干された作家」「男に見捨てられた女」「母親に捨てられた赤ん坊」。「られた族」の間に奇妙な連帯が芽生えていく。装置もバランスがよくて安定していたし、奥行きを出し効果的で、何よりも役者が演じる空間がよく計算されていた。プログラムによると舞台デザインは岩町功先生、演出は岩上弘史さん、怪しげな作家は岩町大先生。劇の冒頭は赤ん坊を乳母車のまま捨てていく母親。まずここから引きつける。次々とお客さんが来るが、みな個性があり、その過去や人物が徐々に暴かれていく。引っ張っていけるように観客の心理をよく計算して脚本が作られている。発声や演技もしっかりしていて最後まで安心して楽しく見ることができた。
現代的なテーマや人物設定もあり、最後には希望もある残る終わり方だったが、あえて難を捜せばそれぞれの人物がみな重いものを抱えていることが分かるのだが、その中でも比重の軽重はもっとあった方が劇としての印象は強くなる。誰が主人公になってもおかしくないほど一人一人に重さがある。それは同時に劇を作るためにうまく設定して書いたという印象をかすかに僕の心にす。欲張り男の注文。
創作劇『二人三脚』(浜高演劇部、肥後万結子とDCF作)。同じ学校に通う教師である母の言動に娘が悩み、不登校になる話。さすがに伝統のある浜田高校演劇部。発声も一つ一つの言葉もきれいで気持ちがいい。劇作りとしては暗転の多用で劇が細切れになってしまった。紙の上で脚本を書く立場でいえば、場面を何度も展開して書いてた方が楽である。しかし舞台は紙の上とはまったく違う。学校、家、受業、学校、家、教室、職員室、購買、運動会、それを暗転で処理したら劇は細切れになり暗転毎にお客さんは現実に返る。暗転を最少にして劇をつくるためにはどのように構成すればいいかを考えたら絶対に解決法は見つかる。この劇では学校でも家と同じに振る舞う母という設定だった。これには違和感があった。同じ学校で我が子を教えなければ行けない状態になった先生はたくさんいる。多分100%の先生が、学校では他の生徒と平等に扱うか、又は冷たく扱うだろう。学校でも家と同じように私的感情で対する先生はいないと思う。先生の体面から我が子に過大な期待をかけ過ぎ、その重圧で反発し不登校になるのなら十分わかる。この点は大いに議論してほしい。石見部でただ一つの演劇部として遺跡のような宝になった浜田高校演劇部のみなさん、おつかれさまでした。秋にはまた松江の県大会でがんばってください。今年も行きます。
今福の地芝居がはじまる前に、前座として多邨一雄さんと梶原光朝さん(上の写真)の舞踊『長良川艶歌』があり会場を沸かせました。いやぁ、見事でした!宮本美保子さんと岡千鶴さんお舞踊『佐渡の舞姫』もみごとな舞でした。
『絆』(今福「盛り上げ隊」、元「いまふく劇団」)。伝統の厚みがある地芝居を熱演した。アドリブで客席を沸かせながら自然に芝居へ引き入れていく術も掌中のものである。幼時に父と離別、母も他界、罪を犯しお尋ね者となった和太郎が、そば屋を営む父と出会い、恨み憎しみを超え親子の絆を取り戻す。時にじっくり語り、熱く演じた。何度も客席から拍手が湧き、声が飛んだ。現代演劇の冷めた自我や理知が生み出す世界と対極ともいえる役者と観客が創り出す陶酔の世界があった。地芝居は義理人情をじっくり演じるのが特徴ですが、そんなのは古い!という人もいるかもしれません。しかし戦後のアメリカナイズされた合理化、効率化、個人主義、功利主義のが空気を支配している時代には「古くさい!」と排除すべきものとして嫌われました。しかし時代が変化していくと日本人心の核として評価されるでしょう。日本の芝居はもともと役者と観客が一緒に楽しみ一緒に創っていく芸能です。石見神楽のようなもんです。そういう意味で石見の浜田や邑智郡や益田、隠岐などにまだ残っている地芝居を大切に育てて行きたいものです。「いまふく劇団」は20周年を期に解散し、今は有志だけで上演しているそうです。しかし伝統の厚みをあちこちで感じました。観光客に石見神楽を見せることは力をいれて盛んに行われていますが、何かの催しにこのような伝統のある地芝居を呼んで上演してもらうというのもいいですね。
一つ気になったのは芝居のクライマックスで西洋音楽がずーっとBGとして流れていました。不必要だと思いました。BGなんかない方がはるかにセリフが引き立ち言葉が素朴に観客の心に入ってきます。少なくとも和楽器でないとお互いにバッティングを起こします。
『夢の中のユメ』(島根県立大演劇サークル、神崎逢風作)。1人の死者と死の淵を歩いている2人の若者の間で交わされる会話劇。死の世界から生を見るという面白い着想だが、抽象的で会話の堂々巡りが多い。抽象劇は視覚化し具体化していかないと観客は疲れる。
上の写真は浜田高校放送部員の司会で上演後に劇について語っている演出の新宮さんです。新宮さんは香川県、キャストの千葉さんは佐渡の出身だそうです。こういう人たち参加してくれるとは素敵ですね。
各地で行われる余芸大会はいざ知らず、6本もの劇を上演できる地域はまずないだろう。高校生、大学生にも場を与え育てようとする主催者の姿勢を思いながら、豊饒(ほうじょう)な時間が流れた「演劇祭」会場をあとにした。
(劇研「空」代表、日本劇作家協会会員)
新聞を紹介します。読みたい人は買って読むか図書館でどうぞ。