10/8 音楽と朗読『琴の鳴る浜』馬路公演

2011年10月8日、旧馬路小学校体育館で音楽と朗読による創作劇『琴の鳴る浜』を上演します。大田市民会館と実行委員会の主催。台本をやっと仕上げ9月5日に市民会館で検討会を開きました。翌日、出演者に台本と予定表などを郵送しました。

台本は朗読を中心にすすめますが、ポイントになる会話は従来の脚本を生かしています。朗読劇です。音楽や合唱はほぼ前回の公演を踏襲します。馬路地区の小学生が十数名出演してくれます。9人は今年3月の公演に出てくれました。現在合唱の練習をしていますが、指導者のイトウさんによると、とてもみんな元気で声もよく出て、がんばっているそうです。

当日は乙見神社のお祭りの前夜祭として上演します。劇と違って朗読ですが、劇にない効果もあるはずです。言葉の力です。言葉がどれくらい観客のイマジネーションを刺激しふくらますことができるか。絶好の実験舞台でもあります。

山陰中央新報に馬路の子供たちの練習風景が掲載されましたので紹介させていただきましょう。

舞台は小学校体育館の舞台に二段の段をつくり合唱団と演奏の場所をつくります。朗読は舞台前のフロアーです。左右は黒い幕で仕切ります。

チラシ・ポスターはまだ手元に来ていませんができているはずです。チケットは500円です。希望者があれば販売してください。

練習日程について:皆さんの都合を聞いて決めます。
9/12(月)劇研空定例会合日19:30から青少年ホームで説明と台本読み。
9/24(土)市民会館で音楽の練習。朗読の練習も可(中ホール)
9/25(日)市民会館中ホール、13時から17時 総合練習
10/4,5,6 馬路小体育館、道具運搬舞台・照明設置、スタッフ
10/8(土)13時30~16時30分。馬路小体育館でリハ、 19時から開演約1時間と少し。

 

10/29 yaneka清水大師寺で奉納ライヴ

2011年10月29日(土)14:30から大田市温泉津町の清水大師寺本堂前でヤネカの奉納公演があります。スエーデンやフランスで活躍し注目されているヤネカがどうして温泉津の山奥の清水大師寺へくるの?だれも不思議がります。きっと章子さん夫妻との不思議な縁と出会いがあったからでしょう。劇研空の一員でもある章子さんからチラシを送ってきましたので紹介します。

このチラシを見たマイサンズたちは、すごいな、行きたいな、仕事が休みならいいけどな、と言っていました。とても魅力的な音楽だそうです。ヤネカとは変わった名前ですが、先祖は代々神社仏閣の屋根を葺く宮大工だそうです。ヤネカは屋号で「家根嘉」。この屋根嘉姉弟は17代に当たるとか。なんか人間の営みが遠く宇宙空間まで広がっていきます。二人は音楽で世界に屋根をかける!

 

チケットは150枚限定です。大人は1500円、こどもは500円です。電話かメールで申し込んでください。

9/6 大田の芸術文化推進検討会

2011年9月6日(火)午後6時30分から大田市民会館第一会議室で大田の芸術や文化を推進するための会が開かれます。主催は大田市教育委員会で島根県文化振興財団の共催です。大国晴雄教育長から案内文書がきていますので紹介します。だれでも参加して意見を述べることができます。都合をつけて出席してください。

(馬路の琴ヶ浜で写した日本海の波です。波は見ていて飽きません。当日波の話があるわけではありませぬ。気晴らしにここへ入れただけのハナシです。)

市民会館の耐震補強計画について昨年数回にわたり説明会や検討会が開かれました。何回か出席して意見を述べました。その中で生涯学習課から、23年度になったら大田市の芸術文化について検討する会を開きたいという案が出されました。それが具体化されたわけです。劇研空のメンバーも都合がつく人は参加してください。こういう機会は滅多にありません。市民の声を聞いてそれを具体化していくという姿勢ですから大歓迎です。

別件ですが、大田市勤労青少年ホームは昭和47年4月に開設されましたが、平成23年度で使用禁止になります。現在13団体など約300名が定期的に使用し、平成22年度では2243件、延べ人数20819人が利用しました。これが使用できなくなると大変不便になり大田の文化活動が低下します。代わりの施設が必要です。今までに何回か会議を開いて検討してきましたがまだ目途が立っていません。

そこで8月に2回開いた利用者会で市へ要望書を提出することに決まり、文書もでき利用者団体の署名もしました。9月5日に市長へ提出することになっています。要望書の文書の名前は、「大田市勤労青少年ホーム並びに大田市中央集会所の機能確保と代替措置支援についての要望」大田市勤労青少年ホーム利用者会会長、船橋牧夫

市民会館も勤労青少年ホームも使えないというのは関係者にとっては大きなピンチです。当面の代替施設を確保し、ぜひ共有できる長期的なヴィジョンを練り上げたいものです。

 

H23 浜田の地芝居大会観劇記

2011年8月7日、浜田市の石央文化ホールで第4回「石央地芝居大会」が開かれました。6団体が劇を上演、約600人の観客が楽しみました。観劇記を依頼されていたので朝から5時頃まで椅子に座りづめでしたが、楽しく観劇しました。

次の観劇記は8月25日山陰中央新報の文化欄に掲載されたものに加筆したものですが新聞など読まない人がほとんどですから、大会の応援を込めてここで紹介します。写真は自分で撮ったものですが、舞台風景として紹介します。

第4回石央地芝居大会

豊穣な時間が流れる/多様な現代劇と地芝居                            <洲浜 昌三>

新生浜田市を記念してはじまった「地芝居大会」が4回を迎え8月7日、石央文化ホールで6団体が参加して開かれた。現代を反映した創作劇、自分探しの若者の劇、舞踊、日本人の心を揺さぶる地芝居が上演された。舞台が終わる毎に浜田高校放送部員の司会で劇作りの苦労が披露され、バラエティーに富んだ舞台だった。

地芝居という言葉は現在あまり使われない。地元の人たちが演じる芝居が地芝居だと誤解している人もいるかもしれないので、簡単に説明しておきたい。

江戸から明治にかけて、芝居といえば都会の歌舞伎を指した。農村の有志が江戸や上方から招く芝居は「旅芝居」とか「買芝居」といわれ、その影響を受けて地元の人たちが真似て演じたものは「地芝居」とか「村芝居」「農村歌舞伎」などと呼ばれた。昭和10年前後に黄金期があり、敗戦後に第2次黄金期、昭和50年代からマスコミも取り上げ梅沢富美男に代表される「大衆演劇」の名前でブームになった。地芝居は農村歌舞伎を指したが、明治、大正、昭和の時代を経て新派劇や剣劇の影響を受け、戦後は青年団が各地で上演した新劇の影響も受けて現在に至っている。「地芝居」という名前は現在では使用頻度も低いが、単なる地元の芝居という意味ではなく歴史のあるジャンル名でもある。今回の大会では『絆』だけが地芝居であり、あとは現代劇である。

創作劇『どろぼう日記』(酔族漢、田中栄二作)。認知症で寝たきりの老人宅へ3人の泥棒が侵入して展開されるハプニングで笑いを誘う。認知症も接し方次第で心がつながる-というテーマが埋没したのは、主題より周辺が目立ち過ぎたからだろう。三人の泥棒が認知症の老人と世話をする娘の家へ忍び込むことでまったく異質の人間の出会いからはじまる面白さを狙っているのだが、前半のこの泥棒と娘との奇妙なやりとりで遊び過ぎてこれが観客の印象に残ってしまい、認知症老人は単なる付け足し的な扱いになった。存在感があった老人を周辺は支え、核心を浮かび上がらせたかった。短い劇では遊び過ぎるとテーマがぼける。10分以内にテーマを暗示してテーマの主流に巻き込んでいかなければ観客の緊張感を持続できない。

群読劇『花子がやってきた』(金田サダ子作)。平均年齢が70歳を超える「くにびき学園社会文化18会」の16人が出演。朗読と歌、映像、劇で構成した舞台で、戦争中に上野動物園の象などが飼育員の手によって銃殺されたり毒殺された。そういうことがあった数年後、タイから象の花子が神戸へ送られてきた。一連の実話をもとに作られた。群読劇となっていたが、構成劇に近いと思った。個人の朗読や群読もあるが、飼育員が出てきたりプラカードに絵を描いた像やキリンや蛇などたくさん動物も出てきて舞台を広くつかって劇に近い場面も多い。それらの場面がうまく構成されていた。観客には高齢者が多く、舞台で歌われた数々の戦中戦後の歌は胸に迫るものがあっただろう。観客あって成り立つのが演劇であることを考えれば、作者の金田さんのセンスに軍配をあげたい。力まず自然体からうまれた素朴な演技(というより動き)から自由な風が舞台に流れていてさわやかだった。戦争中に動物園の像などを殺した悲劇はいろいろ脚本もある。『像の死』などは今でもよく上演されて迫力がある。今回の台本では冒頭でパンダの話が出てきたが、観客はパンダが主題かと思って見始める。また上野動物園の像の飢え殺しと神戸へ花子がやってくる場面が同じ比重で扱われているので焦点が散漫になった。焦点を絞って整理すると、さらに印象の強い舞台になるだろう。焦点を絞るということはそれぞれの場面を均等に扱うのではなく、時間や強弱の比重を考えて台本を整理し演出するということだと思う。しかし高齢者でもこれだけの舞台ができると言うことは台本を書かれた金田さんや指導をされた人たちの絶大な力の賜である。

創作劇『られた族の人々』(「創作てんからっと」美崎理恵作)。ドラマツルギーを心得た座付き作家(作者は現在東京在住)と達者な役者が創り上げた舞台で、テンポのいい進行と意外な展開が観客を引きつけて離さない。ホテルの前に捨てられた赤ん坊を育てる支配人夫妻と宿泊客たちの過去が暴かれていく。「息子に裏切られた支配人」「出版社に干された作家」「男に見捨てられた女」「母親に捨てられた赤ん坊」。「られた族」の間に奇妙な連帯が芽生えていく。装置もバランスがよくて安定していたし、奥行きを出し効果的で、何よりも役者が演じる空間がよく計算されていた。プログラムによると舞台デザインは岩町功先生、演出は岩上弘史さん、怪しげな作家は岩町大先生。劇の冒頭は赤ん坊を乳母車のまま捨てていく母親。まずここから引きつける。次々とお客さんが来るが、みな個性があり、その過去や人物が徐々に暴かれていく。引っ張っていけるように観客の心理をよく計算して脚本が作られている。発声や演技もしっかりしていて最後まで安心して楽しく見ることができた。

 現代的なテーマや人物設定もあり、最後には希望もある残る終わり方だったが、あえて難を捜せばそれぞれの人物がみな重いものを抱えていることが分かるのだが、その中でも比重の軽重はもっとあった方が劇としての印象は強くなる。誰が主人公になってもおかしくないほど一人一人に重さがある。それは同時に劇を作るためにうまく設定して書いたという印象をかすかに僕の心にす。欲張り男の注文。

創作劇『二人三脚』(浜高演劇部、肥後万結子とDCF作)。同じ学校に通う教師である母の言動に娘が悩み、不登校になる話。さすがに伝統のある浜田高校演劇部。発声も一つ一つの言葉もきれいで気持ちがいい。劇作りとしては暗転の多用で劇が細切れになってしまった。紙の上で脚本を書く立場でいえば、場面を何度も展開して書いてた方が楽である。しかし舞台は紙の上とはまったく違う。学校、家、受業、学校、家、教室、職員室、購買、運動会、それを暗転で処理したら劇は細切れになり暗転毎にお客さんは現実に返る。暗転を最少にして劇をつくるためにはどのように構成すればいいかを考えたら絶対に解決法は見つかる。この劇では学校でも家と同じに振る舞う母という設定だった。これには違和感があった。同じ学校で我が子を教えなければ行けない状態になった先生はたくさんいる。多分100%の先生が、学校では他の生徒と平等に扱うか、又は冷たく扱うだろう。学校でも家と同じように私的感情で対する先生はいないと思う。先生の体面から我が子に過大な期待をかけ過ぎ、その重圧で反発し不登校になるのなら十分わかる。この点は大いに議論してほしい。石見部でただ一つの演劇部として遺跡のような宝になった浜田高校演劇部のみなさん、おつかれさまでした。秋にはまた松江の県大会でがんばってください。今年も行きます。

今福の地芝居がはじまる前に、前座として多邨一雄さんと梶原光朝さん(上の写真)の舞踊『長良川艶歌』があり会場を沸かせました。いやぁ、見事でした!宮本美保子さんと岡千鶴さんお舞踊『佐渡の舞姫』もみごとな舞でした。

『絆』(今福「盛り上げ隊」、元「いまふく劇団」)。伝統の厚みがある地芝居を熱演した。アドリブで客席を沸かせながら自然に芝居へ引き入れていく術も掌中のものである。幼時に父と離別、母も他界、罪を犯しお尋ね者となった和太郎が、そば屋を営む父と出会い、恨み憎しみを超え親子の絆を取り戻す。時にじっくり語り、熱く演じた。何度も客席から拍手が湧き、声が飛んだ。現代演劇の冷めた自我や理知が生み出す世界と対極ともいえる役者と観客が創り出す陶酔の世界があった。地芝居は義理人情をじっくり演じるのが特徴ですが、そんなのは古い!という人もいるかもしれません。しかし戦後のアメリカナイズされた合理化、効率化、個人主義、功利主義のが空気を支配している時代には「古くさい!」と排除すべきものとして嫌われました。しかし時代が変化していくと日本人心の核として評価されるでしょう。日本の芝居はもともと役者と観客が一緒に楽しみ一緒に創っていく芸能です。石見神楽のようなもんです。そういう意味で石見の浜田や邑智郡や益田、隠岐などにまだ残っている地芝居を大切に育てて行きたいものです。「いまふく劇団」は20周年を期に解散し、今は有志だけで上演しているそうです。しかし伝統の厚みをあちこちで感じました。観光客に石見神楽を見せることは力をいれて盛んに行われていますが、何かの催しにこのような伝統のある地芝居を呼んで上演してもらうというのもいいですね。

一つ気になったのは芝居のクライマックスで西洋音楽がずーっとBGとして流れていました。不必要だと思いました。BGなんかない方がはるかにセリフが引き立ち言葉が素朴に観客の心に入ってきます。少なくとも和楽器でないとお互いにバッティングを起こします。

『夢の中のユメ』(島根県立大演劇サークル、神崎逢風作)。1人の死者と死の淵を歩いている2人の若者の間で交わされる会話劇。死の世界から生を見るという面白い着想だが、抽象的で会話の堂々巡りが多い。抽象劇は視覚化し具体化していかないと観客は疲れる。

上の写真は浜田高校放送部員の司会で上演後に劇について語っている演出の新宮さんです。新宮さんは香川県、キャストの千葉さんは佐渡の出身だそうです。こういう人たち参加してくれるとは素敵ですね。

各地で行われる余芸大会はいざ知らず、6本もの劇を上演できる地域はまずないだろう。高校生、大学生にも場を与え育てようとする主催者の姿勢を思いながら、豊饒(ほうじょう)な時間が流れた「演劇祭」会場をあとにした。

(劇研「空」代表、日本劇作家協会会員)

新聞を紹介します。読みたい人は買って読むか図書館でどうぞ。

H23 山口華陵高校全国大会で最優秀

2011年8月5~7日、香川県丸亀市で開かれた57回全国高校演劇大会で山口県立華陵高校の『カツっ!』が最優秀に選ばれました。中国地区からの最優秀です。おめでとうございます!とてもすばらしい劇だったそうです。

優秀賞3校は次の通りです。津曲学園鹿児島高校、大谷高校、北海道北見北斗高校。

創作脚本賞は大谷高校、舞台芸術賞は埼玉県立秩父農工科学高校。

上位4校は東京の国立劇場で8月末に上演します。その舞台は9月4日(日)15:00~17:00にNHK教育テレビで放映されます。ぜひ見てください。

華陵高校といっても島根県では知らない人がたくさんいます。歴史のある学校はほとんど土地の名前をつけていますのですぐに場所が分かります。新設校は抽象的な漢字をつけるので見当がつきません。華陵高校は山口の下松市にあり昭和62年に新設された高校す。英語科と普通科があります。野球部も甲子園へでました。

華陵高校では演劇部は演劇部といわず舞台芸術部です。創立後から中国地区大会へ出ましたが、とてもセンスのいい舞台をつくり劇も洗練されていて「すごいな」と思ったことがあります。

先日浜田で地芝居大会があり、高校演劇の大先輩岩町功先生に会いました。「石見では浜田高校しか演劇部がないとは残念でたまらん」と嘆いておられました。まったく同感です。演劇部の卒業生たちが社会人となり地域の舞台芸術活動を引っ張っているのです。岩町先生も、山口は活発にやっているようだね、と華陵高校の活躍を喜んでおられました。華陵のみなさん、東京でもがんばってください。

 

 

8/7 浜田で第4回地芝居大会

2011年8月7日(日)浜田の石央文化ホールで第4回石央地芝居大会が開かれます。浜田市にある6団体が出演します。様々な劇を楽しむことができます。

 地芝居?なじみのない言葉ですが、ちゃんとした江戸時代からの言葉です。江戸や明治の初めころまでは芝居といえば歌舞伎しかありませんでした。その歌舞伎に影響されてそれぞれの地方で演じられた芝居は村芝居とか地芝居とか村歌舞伎とかいわれたのです。10年前に結成された全国地芝居連絡協議会もあり活発な活動をしています。

島根では出雲の「むらくも座」が本来の意味での正当な地芝居にあたると思います。今回の浜田の大会ではほとんどが現代劇で、創作劇が中心です。内容が看板と変わってきているので、知らない人は何の大会かと思うかも知れません。唯一地芝居に近いのが今福の「盛り上げ隊」が演じる『絆』です。一昨年は観劇しましたが、今福はとても演出が効いたいい芝居を上演しました。細かい動きにも神経が行き届き心理の流れを切らずじっくりと見せてくれました。まさに伝統を感じました。しかしそれは地芝居の流れは受けてはいますが新派に近い芝居です。石見にこういう芝居が残っていることをとてもうれしく思ったものです。子供のころに見に行った旅芝居(これも地芝居や新派に近い)を思い出しました。

 浜田高校、県立大学など若い人たちの演劇をみることができるのも楽しみです。「くにびき社文18会」(なんの省略?)は『花子がやってきた』を16人で群読します。花子というのは象の名前です。どのような群読になるか楽しみです。

一昨年は見にいきました。昨年は高校演劇島根県大会と重なって行けませんでした。今年は早くからイワマチ大先生から案内を受け観劇記を依頼されていますので優先していきます。都合がつく人はぜひ見に行って芝居を楽しいんでください。

8月5,6,7日は香川県丸亀市で高校演劇の全国大会があり、年1回の劇作研究会総会もあり案内がきています。近くだし参加したいなと思っていましたが、両方行けば股割き。はいそれまでよ。まだいやです。

大田市勤労青少年ホーム利用者会報告

2011年月21日、大田市勤労青少年ホームの利用者会が開かれました。この建物は市内の文化、体育など15団体が利用して活動しています。最も大きい団体は「大田ウインドオーケストラ」です。このたび福岡の全国大会に出場するコーラスグループ「花音」や子供ミュージカル「風花」もここを使って毎週練習しています。劇研空も月曜日にはここで定例会を開きます。

(写真は2012年3月末で全面使用禁止になる大田市勤労青少年ホーム。大田市の体育文化活動に貢献し、島根の中央にある建物として会議や催し物開催に大いに利用されとても便利だった建物です。建物は利用者の活動によって生きてきます。ヴィジョンなしにただ解体するだけはさびしいかぎりです)

昨年突如として「大田市勤労青少年ホームの使用は平成23年度末まで」といううわさが流れ、利用者会を開き市会議員の内藤さんにも来ていただき説明を聞きました。建物が危険なので解体する方針が出たというのです。大田市民会館は耐震検査をしましたが、青少年ホームは検査以前の問題なのだそうです。内藤さんには今回も出席していただいていろいろ貴重な説明をしていただきました。やり方に暖かみや思いやりがないんですよ、という言葉は出席者の胸に響きました。SSくんはこんなことをいいました。「もしこれが学校で、ぼくがトップの責任者で、部室を解体を決行することになったら、まず先に仮の練習場所を確保してから解体準備にはいるけどなぁ」もちろん冷たい沈黙がながれました。

さーて、利用している15団体はどこへ行けばいいのか。何回も会議を開き説明も受けてきました。この青少年ホームの市の担当はなんと産業振興部。体育文化は大田市の産業?設立時の事情や歴史があるのでしょうが素人にはよくわかりません。

産業振興部の説明では、過日市役所で関係者が話し合い、今後は生涯学習課が担当することになったそうです。自然な形になるということです。

要望書提出の話しも出ました。要望だけではほとんど効果がないのでもっと違う形式にした方がいいという意見もでました。もっと多くの市会議員にも理解し協力してもらう必要があるという意見も出ました。楽器などを置く建物として使用できないかという意見もでました。

利用者会の大方の意見はほぼ固まっています。そのうち消防署が9号線沿いに移転するそうですし、有線放送の建物も空くそうです。図書館もありますし、青少年ホームの跡地も利用可能です。市民会館一帯を文化ゾーンとして位置づけ長期的なヴィジョンで町作りをしてほしいということです。この点に関しては市議会議員の吾郷さんも昨年の議会でとても建設的な意見を述べ質問しておられます。

次回の会議では原案が出され、それについて8月19日(金)19時から話し合います。

斐川の農民詩人 高田正七

山陰中央新報が2010年10月1日から毎週金曜日に文化欄で続「人物しまね文学館」を連載しています。前期は終わり本になって出版されています。「続」で、詩人高田正七さんを担当することになり、2ヶ月近くかけて高田さんのあらゆる著作を捜し、読んで年表を作成、151号まで出ている個人詩誌『二十五年』(約半数は所有、石見詩人の高田さんからも借用、欠番は県立図書館で閲覧)を読んで重要なことは書き抜いてノートを作り、やっと5月末に脱稿しました。

(『二十五年』の第一号、貴重な詩誌です。近所の小学校の美術の先生だった周藤吉宏氏がガリ版で切って印刷。小さな字でもとてもきれいに書いてあります。しかし昭和40年代の印刷物は号によってはめくると紙が砕けそうになります。それだけに貴重です)

斐川のスダさんと一緒に故高田正七さんの家を訪ね長女の早苗さんから貴重な話しも聞くことができました。斐川の図書館に問い合わせても高田さんの詩集や寄贈書はないとのこと。島根の有名な詩人であり、詩集や残された蔵書は貴重な文化財産ですが、高田さんを詩以外の分野では知る人はほとんどなく、蔵書も行方不明です。とても残念なことです。そういうこともあり、ここで紹介します。ほとんどの人には関係ない記事ですが、正七さんのことを調べたいという人もきっとあるでしょう。そういう人の参考になれば幸いです。新聞には字数の制限があり細かいことはほとんど書けませんので、そのうち「島根年刊詩集」か「石見詩人」にでも書いて記録として残しておきたいと思います。次の文章は新聞掲載原稿前のもので、少し詳しく書いた部分も残っています。

 

高田正七  夢追い続けた農民詩人 洲 浜 昌 三
高田正七は築地松に囲まれた斐川の農家に生まれ、生涯、詩に夢を追い求め続けた農民詩人である。
50歳までは島根の詩活動にはほとんど関わらず、中央の高名な詩人が主宰する詩誌へ投稿して詩を書く「一匹狼」であった。
晩年には県内の活動も重視し詩人連合の理事も務めた。修行僧のように一日一作を課して詩を書き、個人詩誌『二十五年』を毎月発行、詩集を3冊、『島根年刊詩集』を7集まで発行したり、高田敏子、郷原宏、荒川洋治など有名詩人を呼んで「島根の詩祭」を敢行するなど詩の普及と向上にも意志的に貢献した。同時に、その裏では多大な出費や借財という犠牲や詩人、詩人団体との軋轢などもあり心労も大きかった。

長身で蓬髪、剣道5段。肝っ玉が太く行動力に富む豪毅な性格であったが、同時に人一倍繊細で気弱な一面も同居していた。詩人で評論家の松永伍一は、高田の生き様を「詩の鬼」という言葉を使い、「一念貫徹の姿勢は今の若い人には時代錯誤だと受けとられがちだが、日本を見まわしてもこういう愚直な詩人の姿は見出せない」と評した。

1913年(大正2)高田正七は現在の斐川町美南で父・忠四郎、母センの長男として生まれた。父は幼い正七を背負って村々の神社で朝まで舞われる秋祭りの出雲神舞にいつも連れて行った。そういう刺激が音楽や絵、芸能を好み立川文庫をあさる少年に育てた、と高田は書いている。読書好きで早熟な文学少年であった。当時人気があった『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』『日本少年』などで佐藤紅禄や吉川英治など著名な作家の小説や、大人向けの小説なども読みふけった。小学校4年のとき野口雨情に刺激されて詩を書き先生からほめられた。鴎外や漱石、蘆花、啄木、芥川、トルストイ等の文学作品も意欲的に読んだ。軍国主義の風潮が強まっていく中で、高田は学校で疎外感を味わっていたが、詩への期待や希望は失わなかった。

大正の終わり頃から昭和の初期にかけて白秋、八十、雨情などを中心に新民謡という創作民謡が盛んだった。高田もこの影響を受けて新民謡を書いた。 イタリアのヴァイオリン名器・ストラデバリゥスを購入するほど音楽好きだった高田は昭和6年、兵庫の同人誌『詩と音楽』に加入したり、大関五郎の『新日本民謡』や西条八十の『蝋人形』、前田鐵之助の『詩洋』へ高田秀子などのペンネームで詩を投稿した。島根では宮田隆、吉儀幸吉、甲山まさる、岡より子も詩の投稿者であった。
(正七さんは音楽や劇などがとても好きで、長女の早苗さんは度々松江の公会堂へ連れて行ってもらったという。カルメンなどのオペラは今でも覚えているという。また近くの斐川西小学校で劇や音楽会などを開き、連れて行ってもらったという。高校の時にはヴァイオリンも習っていて島根大学の音楽の先生に指導してもらったら、「あなたはあまり上手じゃないけどこのヴィオリンはとても立派なものですね」と言われたという。中にはイタリア語でちゃんとストラデヴァリウスと書いてある)

旧制中学を経て農学校を18歳で卒業すると「文学で食ってやろう」と考え大阪へ飛び出した。大阪には叔母がいた「人は『わがまま者』と言ったが、その頃誰にも依存する精神を持たなかった。」(『二十五年』7号)。「勝先生に歌謡指導を受けていておほめにあずかり自信満々、中央に希望をつないでいた」(99号)。
1936年に大阪の女学校を卒業したばかりの意中の女性と結婚した。「泥ひとつ付けたことのない人がその後泥まみれになって苦労した」と母のことを長女の早苗さんは語っている。秋山清を知って現実に立脚した農民詩を書き始めたのもこの頃であった。

日本が戦争に突入すると、島根にも翼賛詩人会が結成され、松江放送局では詩の朗読を流し高田も参加した。朗読に参加した石村勝郎は次のように書き残している。「ひげを立てた和服姿の詩人が来た。高田という人で婦人名で詩を書いている奇人だった。」高田は戦争の詩を朗読する気にならず、無関係な百姓の詩を朗読した。
昭和18年9月、高田にも招集令状が来た。勝承夫に遺言状に近い手紙を送り、満州の興安北省のハイラルへ行った。砂漠に近い極寒の地であった。父と妻あてに詩を書いたハガキを出した。22年5月に復員してそのハガキを手に取ると、ほとんどの字が墨汁で消されていた。防諜暗号だと思われたのであった。
敗戦を迎えて、「精神は颱風の目のように悶えつづけ」「残ったのは不信と孤独と哲学だった」(19号)いっきに空白を埋めるかのように詩の本を探して読んだ。翌年に詩誌『文学集団』が発行された。選者者は憧れの村野四郎。渇を求めるように詩を書いて送り、毎回入選した。 ペンネームは高田無。精神が無だったからつけた。『若草』や『詩洋』、秋山清の『コスモス』にも詩を書いた。昭和27年には村野四郎の推薦で北川冬彦の『時間』の同人になった。東京の村野や北川の家を訪問したのもこの頃である。米や干し柿を持参したのも百姓として精一杯の礼節だったにちがいない。

満51歳の誕生日を期して個人詩発行を決意した。余命を25年と想定し『二十五年』と命名。美術教師・周藤吉宏がガリ版で切りわら半紙で約百部印刷した。月刊を厳守、151号まで発行した。創刊号には秋山と勝の詩を載せた。高田は「拡暁」という詩を載せた。

「濃い霧が地上からうすらぐ/そよとも動かない水面/かわいい苗が葉の先を出し//苗代で/あえいでひしめきあったくつろぎを/一本立ちした生命に/小さな自信をみなぎらせている//苗を目の前でかぞえ/寝ころびを直してやる/水を引いて飲ましてやると/もう新緑でうずまった森の中で/かっこうの声を聞く//晴切った高い天/すっかり生きかえった今日の朝/冷え切った腹の底へ/竹藪の筍の味噌汁を流しこもう」

(家の前から甘南備山方面を望む。左側の建物がもと牛小屋で、書斎に改造した4畳半くだいの部屋(窓があるところ)。今は農機具置き場になっている。当時は家の回りは築地松で囲まれていた。また鉄道線路との間に建物はなかったという)

牛小屋を改造し、図書館のように本が積まれた板敷きの部屋で毎晩詩を書いた。
豪華な詩集『風土記』上、中、下巻を立て続けに出版した。表紙は民芸紙に手織り木綿張り、中身は手すき和紙、A5変形縦長版という類を見ない凝った詩集であった。

高田の詩は叙情や主観、観念を排除し言葉を即物的に置いていく独特のスタイルである。作者の主張や思想は排されているから詩を読む面白さには欠けるが、冷静に読めば言葉と言葉のすき間からにじみ出てくる風土の滋味や気配が立ち上がってくる。

黒田三郎は、「決して安易に自分の感情を表に出そうとしない」「謙虚に風土自身、生活自身をして語らせている」と新聞で評した。 山本太郎は、「見え隠れする地霊の気配、アニミズム~情念が観念語をまじえずに思惟を宿すというデリケートな詩精神が独立した個性にまで育とうとしている」と序に書いた。

上巻は農民文学賞次点、中巻も候補になったが、力を持ちながら詩の世界で光りを浴びることなく、1977年(昭52)11月23日、斐川の病院で他界した。64歳だった。予定した75歳と夢はまだ先にあったが、幼い時に抱いた夢を追い、独立した個性を我がままに貫き通した生涯だった。

10月に病床を見舞った帆村荘児は、高田が「念願の詩誌発行」について目を輝かして語ったという。同年配の県内の詩人たちと「水の詩人の会」を準備中であった。

※水の詩人の会についてはほとんど知られていない。高田正七さんは、帆村、宍道、杉谷、甲山、田原氏などと新しい同人誌を作るために会合を開いていた。それは新しい夢だった。

次の新聞は当時きり抜いて保存しておいたものです。膨大な書物があったのですが、それを奥様が寄贈されたときの報道です。それが今はどこにも見あたらないとはどういうことなのでしょう。どこからかでてくることを祈りましょう。

次ぎに新聞へ載ったものを紹介しておきます。読みたい人は山陰中央新報の2011、6,10の文化欄でどうぞ。ここでは字は小さくて読めません。

続「人物しまね文学館」は11月ころまでつづきます。ぼくが担当する人は次の通りです。終わるまでにあと30人くらい島根に関わる文人が登場します。読みたい人はどうぞ山陰中央新報を買ってよんでください。(引用したので気が引けてPR?)

邑南町田所出身の小説家・小笠原白也。近日中に掲載されるはずです。益田の詩人田原敏郎(原 敏)さん、邑智郡川本の生まれで3歳の時に長崎へお母さんと移住、詩人として活躍され44回H氏賞を受賞された高塚かず子さん。一度お会いしました。思わぬことをたくさん聞くことができました。津和野に在住の詩人中村満子さん。たくさんのすばらしい詩集があります。昨年土井晩翠賞を「十三番目の男」で受賞した浜田の詩人閤田真太郎さん。

高塚かず子さんや中村満子さんについてはまだまだ知らなければいけないことがたくさんあります。参考になることがあれば教えてください。

 

あしぶえ『セロ弾きのゴーシュ』45周年公演

あしぶえが創立45周年を迎え、特別記念として『セロ弾きのゴーシュ』を公演しています。6/23日の山陰中央新報が大きく取り上げていますが、代表の園山さんが1989年創立以来のことを語っています。この劇は20年を超えるロングランで、2万8千人を動員したそうです。数年前に松江の県民会館で観劇しましたが、プロといってもいい完成度の高い舞台です。絶対に観る価値があります。

観劇に行くつもりでしたが、いつものように行事が重なります。7/9.10は中四国詩人会理事会で岡山へ、7/24ならOK、と思っていたら香川の丸亀高校が『また夏がきて』を川之江会館大ホールで(四国高校演劇祭)上演する予定だとか。一度自分が書いた脚本がどのように料理されるか見てみたいと思っていたので、行きたくなりました。どうするか未定ですが、都合がつく人は県民会館へ是非行ってください。川之江会館へ行くのも止めません。

電話は0852-54-2400 FAXは0852-54-2411  インターネットでは「あしぶえ」で検索すると出てきます。

10年前の創立35周年記念では祝賀会が開かれ多くの人たちがお祝いに出席しました。ぼくも出席しました。松江の24人劇場のときも一度観にいったことがあります。創立時から、数え切れない苦労を重ね、地域に根ざし、多くの人たちに支えられて大きくなってきた歴史の厚みが感じられます。

45周年、おめでとうございます。- 劇研空一同

朗読と音楽『琴の鳴る浜』馬路公演計画中です

平成23年6月21日、『琴の鳴る浜』の実行委員会が市民会館で開かれました。事業報告、決算報告、監査報告があり、総て了承されました。アンケートの結果はとても好評でした。チケットは950枚ばかり売れていましたが入場者は663人でした。日曜日で他の行事と重なったことや、東北大震災の影響などもあったと考えられます。市民会館入り口でカンパをお願いし、被災地へ約20万の義援金を送ることができましたが、多くのみなさまにご協力いただきました。改めてお礼を申しあげます。

(左の写真は馬路です。琴が浜の白い砂が見えます)

実行委員会では今年度の新たな公演を企画しています。それは地元の馬路で音楽と朗読による『頃の鳴る浜』を上演することです。地元馬路もOkということです。

開催日:平成23年10月8日(土)19:00 場所:旧馬路小学校体育館     入場料:500円

音楽伴奏練習日:9月24日(土)夜 市民会館中ホール           事前総合練習: 9月25日(日)午後   〃

台本はまだ脱稿していません。演奏や合唱を主体にして朗読でつないで行く形になると思います。そのうち詳細を会報などでお知らせします。

馬路では高齢舎が多いので、どれくらい観客が集まるか心配しておられました。PRして仁摩や温泉津、大田からも来てもらえるといいですね。音楽中心のいい舞台になりそうです。

上の写真は琴が浜にある琴姫の記念碑にある説明です。劇では社会的背景も取り入れて複雑な構造にしていますが、ここに書かれているのは単純素朴です。これもまたいいですね。