「詩作品紹介」カテゴリーアーカイブ

詩「父がくれた腕時計」

大田市文化協会会報「きれんげ」118号がでました。8ページの冊子ですが、充実しています。表紙にはオペラ「石見銀山」の事務局を担当して頑張っておられる谷本由香子さんが、「清水の舞台から飛び降りる覚悟で」引き受けられた思いを書いておられます。石賀 了さんの井戸平左衛門頌徳碑シリーズは24回目です。石見銀山資料館の藤原雄高さんが、平左衛門の事績を執筆。23回になります。「人」では五十猛の童謡詞作家、佐々木寿信さんの活躍が紹介されています。すはまくんが詩を発表しています。

「父がくれた腕時計」 洲 浜 昌 三

「進学したけりゃ自分で自由に行ってくれ」

六人も子どもがいて
五反百姓の大工では
自由が最大の遺産だったのだろう

それでも大学に合格すると入学金を工面し
お祝いに腕時計を買ってくれた
村ではまだ腕時計は珍しい時代だった

新宿の夜景が見えるバラック建ての部屋で自炊し
金がないときは一週間も米に醤油を掛けて食べ
口がカラカラになったこともあった

ある時は十円玉を求めて畳の間まで捜した
飯田橋駅から小岩まで四十円
そこに行けばやさしい義姉(あね)がいる

初めて質屋へ行き 腕時計を見せ
「五百円貸してください」というと
即座に返事が返ってきた 「駄目です」

「じゃ百円でいいです」
一気に決着を付けるために大幅に譲歩すると
「こんな時計ではねぇ」

「四十円」と言おうとしたら
何かが言葉をさえぎり
そのまま無言で店を出た

後に母に話したら 母が言った
「東京じゃ時計がいるだろういうて
広島まで行って質屋で買いんさったんよ
入学金は大工賃の前借り 半年分のね」

(ブログ 詩の散歩道 より)

 

H29, 「今年も木蓮が咲いたよ」


誕生日おめでとう!記念樹の木蓮が美事な花をつけましたので、写真と一緒に詩を送ります。

DSC07776 (2)

「今年も木蓮が咲いたよ」
洲 浜 昌 三

雪が消えた裏庭の片隅に
今年も真っ白い木蓮が咲いたよ

池に咲く高貴な蓮(はす)の姿で
早春の青空に浮かんでいる

      きれいだね
      りんとしているね

遠い遠い旅をして
あなたが生まれてきた時の記念の樹

太古の昔 中国から渡ってきた
地球最古の樹

      たんせいだね
      きぜんとしているね

気品も優雅さも失わず
どうして生きてきたんだろうね

氷河や火山をくぐり抜け
一億年前の美しい姿で立っている

(20年前、イーシャオ君の誕生日の記念に木蓮を植えました。花は清純で清楚で脆弱そうに見えるのに、強い樹ですね。少々枝を切ってもたくましく伸びてきます。気品があり優雅だけど一億年も生き延びてきたのです。すばらしい樹です。中国大陸から来た樹だそうです。お釈迦様のハスの花とそっくりなので、「木に咲く蓮」となったんだそうです。ブログ 詩の散歩道)

詩 娘たちの「銀山巻き上げ節」

娘たちの「銀山巻き上げ節」
              ー石見銀山考ー                   洲 浜 昌 三

石見銀山で働いていた女性に会いに行こう  と誘われ
老女を訪ねたのは四十年前
娘のころ柑子谷の永久鉱山で働いていたという

地下三百メートルの立坑の座元から
鉱石が入った重いバケットをロープで引き上げる
若い娘が四人で 歌を歌いながら巻き上げたという

「歌ってくれませんか」というと
小柄な老女はニッコリ笑って歌いはじめた

仙の山からよー 谷底みればよー
捲いた まーたぁ 捲いたの アーヨイショ
アー声がするよ アーシッチョイ シッチョイ

娘のような声に乗り
歌は伸びやかに流れた
全身を使う厳しい労働なのに
どこか華のあるゆったりとした労働歌

三十五番のよー 座元の水はよー
大岡 まーたぁ 様でも アーヨイショ
アー裁きゃせぬよ アーシッチョイ シッチョイ

首に豆絞りの白い手ぬぐい
絣筒袖の着物に 赤い腰巻き
足には脚絆と藁の足半
巻き上げは若い娘の仕事だった

元の歌にはこんな歌詞もあったという

三十五は番よー この世の地獄よー
行かす まーたぁ 父さんは アーヨイショ
アー鬼か蛇かよー アーシッチョイ シッチョイ

過酷な労働だったのに
伸びやかで美しいメロディ

昭和18年の大洪水で再開発中の夢も砕かれ
六百年つづいた石見銀山の歴史が終わり
労働者で賑わった仁摩の街も寂れていったという

石見銀山を素材にして書いている「石見銀山考」の一篇です。「花音」の40周年記念コンサートのために鍵盤男子の中村匡宏さんが合唱用に曲を作らましたので、参考になるかもしれないと思い、載せてみました。この詩は大田市文化協会会報誌「きれんげ」と『中四国詩人集』にも載っています。

昭和48年頃、石見銀山の永久鉱山(仁摩側)で働いておられた人に話をうかがいに行きました。ぼくはテープに録音しました。しかしそのテープを捜してもまだ見つかりません。ぼくも若くて、価値をあまり意識しませんでしたが、時とともに価値が増して行きます。必ず捜します。

どのような動作で仕事をしたのか。想像はできますが、具体的に知りたいものです。労働歌ですから、それによって元の歌のリズムもわかってきます。ぼくの想像では、現在の歌い方より、もっと力強くて素朴な歌い方ではなかったのかという気がします。)

 

詩集「港湾の詩学ー詩人の港・詩人の海ー」

おもしろい詩集が発行されました。港や海をテーマにしたアンソロジーです。発行人は京都の詩人、すみくらまりこさん。公益社団法人日本港湾協会の研究奨励助成を受けて刊行されました。大いにPRしてください、と案内書にありましたので紹介します。

DSC05141

DSC05142

DSC05145

(島根の港)があります。洲浜昌三?・・・・ホンニンじゃないですか。この島根の港だけ詩を紹介しましょう。石見銀山考として歴史を素材に書いている中の一編です。湯里の人の話しでは、子供のときには古龍で泳いでいたそうです。いまは草や木が生い茂っていて道もわかりません。

古代へ帰った港                      洲 浜 昌 三

日本海の荒波を遮断した細長い湾は
両岸を緑の樹木に囲まれ
藍色の水を湛えて ひっそりと横たわっていた

ここには
船もない道もない家もない人もいない
もやい綱を結びつけた鼻ぐり岩の他には
人工の構造物も岸壁もない

石見の守護、大内氏の「大内義隆記」に
「唐土(もろこし)、天竺、高麗の船が来た」と書かれ
銀鉱石を博多や朝鮮へ運び出した港・古龍

大航海時に 世界の銀の三分の一を産出し
ポルトガルの古地図に名が残る石見銀山

豊かな海に恵まれ
太古から大陸の文明を受け入れてきた島根
その中央で世界に開かれていた日本の表玄
関 湯里の港・古龍
馬路の港・鞆が浦

「士稼の人数二十万人、一日米穀を費やす事
千五百余石 車馬の往来昼夜を分かたず」
「津々浦々四方の大船に競ひ繋ぎ~」
と「銀山旧記」に書かれた石見銀山

山を越え銀鉱山の町・大森へ物資を運ぶ牛馬の列
蔵が並び北前船でひしめき合った
温泉津の港・沖泊

日本海に面し東西に長くのびた山陰、島根
そこに90の港があり全国で三位だという
その中に三つの港はもうない

「古龍千軒」といわれた古龍の港は
一足先に古代へ帰ってしまった

DSC05146

DSC05147

DSC05148

DSC05149
最後に発行所などを載せておきます。いろいろな視点、角度、形式で個性豊かな海や港とのかかわりが詩として描かれていて楽しめます。

DSC05144

短詩 「たからもの」「おまえの母さん」

たからもの    洲 浜 昌 三

藤づるのバスケットに手を伸ばすと
「だめ!」
遠くから走って来て取り返し
鋭い目でアヤちゃんは僕をにらみつける

外で遊ぶときも
町へ行くときも
大切に持ち運ぶ小さなバスケット

見られたら価値がなくなるもの
そんなたからものが僕にもあった気がする

夜 ぐっすり眠っているすきに
こっそりバスケットを開けてみると
小石が五つ
もみじの葉が三枚

おまえの母さん
洲 浜 昌 三
保育所で日々新しい知恵を授かる
三歳のアヤちゃんは
今日も新しい武器を手に入れて帰る

ふとしたすきに人形を取られさっそく一撃
「おまえのかあさんでーべーそ!」
ことばで反撃できない一歳のヒロちゃんのため
おやじがケンカを買って反撃する
「おまえのかあさんでーべーそ」
「ちがう! おまえのかあさんでーべーそだ」
「おまえのかあさんがでーべそだ」
「でべそじゃない! でべそじゃない!」
叫びながら涙の小川が二筋三筋

(今までこどもの詩を意外にたくさん書いています。この詩は「きれんげ」に書いたものです。現代詩とかなんとか小難しい意識はまったくなく、こどもを見ていてふと心を動かされたことをメモしておいて、あるとき机に向かって詩にしたものです。素直に書いているので自分でも読むと素直な気持ちになり、ほのぼのとしてきます。

このブログの読者は70%以上が new visitors です。何故かここ数ヶ月前からいつもグラフで「詩」が上位を占めています。詩など読む人は詩人しかいないといわれているのですが、ここに書く詩は分かりやすいからでしょうか。詩がもっともっと一般の人に広まっていくことを願って書いているのですが、有名人のブログなら regular visitors がいて毎日多くのファンが読むのでしょうが、そうでもないこの地味なブログに立ち寄ってくださる人がいるとはうれしいことです。短くて分かりやすい詩を紹介するようにしています)

詩 「何を残しただろう」

何を残しただろう                    洲 浜 昌 三

戦後の貧しい村の小学校や中学校で
欠席する理由は四つしかなかった
「病気」「手伝い」「貧乏」「怠け」

手伝いもないのに元気な子が学校へ来なければ
当然「怠け休み」
最大の恥だったからみな休まなかった

教師になり二十数年たった時A君と出会った
遅刻欠席がつづき 何度注意しても同じことの繰りかえし

習慣化した怠けに活を入れようと 放課後 家を訪ねると
布団の中でマンガの読書中

「こんな時間に何をしてるんだ!目を醒ませ!」
意識的に声を張り上げたが
期待した反撃の言葉は返らずしばし静寂
いつもの素直な優しい表情でうつむいている
「…あしたは来るよね」
「はい」

初めて目の前にした心の深い闇
初めて向かいあった新しい欠席
行きたくても行けない 「不登校」

遠くへ行ったA君よ
元気か ー

ぼくの古い武器は
深い傷を更にえぐっただろうか

分厚い壁に裂け目ができて
青空が見えるようにならなかっただろうか

 

大田市文化協会が発行している「きれんげ」107号に頼まれて書いた短詩です。ここではちょっと修正しています。
今までにない欠席と初めて出会ったときの戸惑いは今でも忘れません。まったく未知の精神文化と出会った戸惑いでした。怠ければ叱る、という日本古来のしつけの武器は通用するどころか逆効果を生むことになったのです。あのころから日本の文化も変わっていったようにおもいます。
 

詩 「礼節」  (現代生活語詩集2012)

 

           礼 節                               洲 浜 昌 三

道ばたじゃ三回唾(つば)ぁ吐ぁて
ちょっとごめんなさい いうて シッコをせにゃいけんよ
川へ小便(しよんべん)をすりゃ目がつぶれるけぇな

迷信だと思いながら
何故か子どもの時から守ってきた

 

世界一豊かな国の高層ビルディングが
あっという間に地上に崩れ落ち

 

世界一貧しい国の大地が連日爆撃されはじめ
神と神が正義を高く掲げて真正面から衝突し
泥沼の戦いが始まったさわやかな日本の九月

 

自然に優しく安上がりで安全と一億二千万を
越える人がひしめく小さな島に創りあげた
原 発神話が吹き飛んださわやかな若葉の春三月

 

正義のために
人を神に仕立てて戦った国の子孫であり
豊かさのために 科学を神のように信じてきた国の住人である
ぼくはますます無神論者になる

 

ー 目に見えぬ神は何処(いづこ)と人問(と)わば
神は水なり火なり土なり ー

 

中国山脈の紅葉に囲まれた盆地
ふるさとの晩秋の森の社(やしろ)で
目にした短歌一首

 

縄文人と弥生人の混血児であるぼくには
これこそ懐(なつ)かしい

 

母の言葉は
太古の昔から 命を生み
命を育んできた
大地への礼節だったのだ

DSC04656

 

2012年10月に大阪の竹林館から出版されました。北海道から沖縄まで153名の詩人が詩を寄せています。編集者の一人、永井ますみさんは、直接本人の朗読する映像を撮影するために、今回も全国へ足を伸ばしておられます。そのうちDVDが完成することでしょう。

上の詩は冒頭だけ、島根県邑智郡邑南町田所で使われている生活語で書いています。方言は文字では10パーセントも方言の特徴を出せません。声でないと味がでません。そこが難しいところです。

DSC04658

 

 

 

 

 

 

詩「空にそびえる草原」

DSC04546

 

空にそびえる草原   

洲 浜 昌 三

広大な草原の海原が 目の中に飛び込んできたとき
山育ちのぼくの世界は砕け散った
ー草原(くさはら)が空までつづいているー
昭和三十年高校生の時のこと

その後この山は国立公園に指定された
「全山が芝 根笹でおおわれわれ
世界的にも貴重な草原風景の美しさ」
それが指定の根拠になったという
昭和三十八年のこと

この美しい山を再び訪れた
国立公園指定審議委員の沼田氏は
「昔の面影はまったくない 指定を外すべきだ」
と語ったという
平成三年のこと

30年の間に何があったのか

牛の姿が広い草原から消え
雑草や雑木が自由に伸び伸びと育ち
山頂近くまで杉やカラ松が植えられ

貧しかったこの国は
世界第二位の経済大国になった

牛の放牧は江戸の初期に始まるという

明治元年 3000頭
昭和33年 1766頭
昭和41年 743頭

標高1126メートル 山頂までつづいた
美しい風景は
牛と大地が生み育てた草原だったのだ
350年の歳月をかけて

写真は北ノ原です。後ろの親三瓶は木が密集していますが、昔の三瓶の写真をみれば一面きれいな草原です。

島根県詩人連合では、続「しまねの風物詩」刊行を計画しています。平成25年5月26日の総会へ提案します。島根の風物や歴史などを詩にし一般の人たちに読んでもらおうという企画です。誰でも応募できますが編集委員会で審査します。

短詩 急流を遠くに眺め

急流を遠くに眺め

久利町  洲 浜 昌 三

「おかえりなさい ごくろうさん」
明るい声で玄関まで出迎え
「きょうもがんばったね」
と高々と抱き上げる

おしめが汚れると
「またでたねぇ よかった よかった」
歌うように話しかけて取り替える

広告の紙が鶴になり
空を舞って雪のヒマラヤを越え
風呂の船で銀河を渡る

外へ出ると靴が鳴って歌になり
手をつないで野道を行くと
二羽の小鳥になり
夕焼けの空が歌になる

「はやくはやくはやくはやく」
あのころそれが子供たちへの言葉ではなかったか

時間の激流の中であえいでいたころ
流れに沿って共に泳ぐのが精一杯だった

今 急流を遠くに眺め
じいちゃん ばあちゃん と呼ばれる
遠く離れた丘の上に立ち
見えてくる時間と景色がある

 

大田市文化協会が発行している会報「きれんげ」106号に掲載された詩です。

我が子を育てるときにはいつも時間に追われていました。特に朝は戦争です。食べさせながら「はやくはやく」、着替えをさせながら「はやくはやく」、靴をはかせながら「はやくはやく」。

退職し、孫との距離になると、まったく違う時間が流れます。ワイフさまが一歳の孫のオシメを替えながら、ウンチがでているのを見て「よかったね、よかった、よかった」と言っているのを聞いたとき、感動が走りました。こんな豊かな言葉があるとは!

お互いに勤めながら4人の子供を育てていたころは、「またウンチをして」という言葉が出ていたんじゃないだろうか。

自分が書いた詩は見る度にいやになるところがあり、削除修正の手がでます。困ったものです。上の詩も少し手が入っています。次に見ればまた手がでそうです。

詩誌でもないのに詩を載せてくれる会報や雑誌はほとんどありません。「きれんげ」はその点で編集者の見識を感じます。読んで見たい人があれば送ります。8ページの冊子ですが、大田市の文化行事、石見銀山の歴史などとても読み応えがある会報で好評です。

方言詩 「水車」

水 車

洲浜昌三

中国山地の中の小(こ)まぁ盆地の村だったが
亀谷川が流れとって どの家にも水車があった
近くを通りゃ ばしゃばしゃばしゃばしゃ
水の音がして ギーコトン ギーコトンちゅうて
ひんごて杵(きね)の音がしよった

うちの下(しも)の井坂にゃ大きな水車があって
商売にしとりんさった 可部広屋の水車ぁ水の
勢いが強かったけぇ速かった
田んぼの中の谷田屋のはゆっくり回っとった
山裾の上新屋(うえにいや)のは道のすぐそばにあったけぇ
小屋の中ぁ見るんが楽しかった
紺屋(こうや)にゃなかったが近くの上新屋のを
使わしてもろうとりんさった
熱田屋(あつたや)は本家の袋地(ふくろじ)の大きな水車と一緒だった
富屋にも前新屋(まえにいや)にも新屋(しんや)にも
川手屋にも立派な水車があった。

なんでか知らないけど 植田屋と隣の高畦(たかぜ)にはなかったので
よその水車でついてもろうた
植田屋の子のぼくは
貧乏だけぇ水車がないんだと思うて寂しかった

石見方言です。方言は文字に書くと大事なものがほとんど消えてしまいます。
ぼくが生まれた邑智郡瑞穂町下亀谷の昔の風景を思いだしていたら、水車が
が浮かんできました。ほとんどの家に水車があったことに気がつきました。
ちょっとした工夫でまた水のエネルギーなども利用したいものです。

みどりの風景の中に 石見特有の赤瓦が映えています。田んぼの中を一本道が通っていました。
「中道路」と呼んでいました。右側の家は「谷田屋」その奥が「上新屋」です。ぼくが生まれた
「植田屋」は左側ですが、見えません。わら屋根の家は解体され協和建設の事務所と仕事場が
建っています。右の山は「二つ山」鎌倉時代の古城跡が残っています。
子どもの頃はこの集落一を週して走りっこをしたものです。