「昌ちゃんの詩の散歩道」カテゴリーアーカイブ

詩 「石見は空白地帯」-石見銀山考-

 

石見は空白地帯  -石見銀山考ー

Shouchan

フランスの観光パンフレットには

出雲と山口の間には何もないという

 

そのフランスからカルロス夫妻がやってきた

メリーズはきりっと引き締まったフランス美人

カルロスは小太りで陽気な赤ら顔のラテン系

船会社を退職し悠々自適らしい

 

若いとき日本のミノルタカメラが欲しくて

ドイツまで稼ぎに行ったというカメラ狂

芸術の都からカメラを抱えて地球の旅へ出る

 

三瓶山から日本海に沈む夕日を連写し

地下で巨大な埋没縄文杉のシャッターを切りつづけ

志学の露天風呂で満天の星を見上げ

無視された石見の我が家でゆかたを着て正座し

ヴェリィ フルーティと日本酒「羅浮仙」を飲み

タタミマットのセンベイフトンでぐっすりねむる

 

江戸風情の家並みの路地に白い雨が降る次の日

石見銀山世界遺産センターのヒノキのホールを抜け

展示を見ながら歩いて行くと

おお!と声をあげてカルロスが立ち止まる

This map is Portuguese!

ポルトガルで400年前に描かれたエビのような日本地図

 

なんと!カルロスはポルトガル生まれだった

 

ヴァスコ・ダ・ガマに出会ったかのように目を丸め

ポルトガル語を読む

「FVOQVI」(ほうき)の西に「INZVMA」(いずも)

その西にあるのは

日本海に張り出た広大な「 R・ASMINAS DA PRATA 」

山口はなくて その南が「VAMGATO」(ながと)

 

抹殺された出雲・山口間に書かれた

ぼくらが立つ石見の大地は

「銀鉱山群王国」

 

H23 島根県民文化祭文芸作品入賞者表彰式

2010年12月11日、平成23年度の島根県民文化祭文芸作品入賞者の表彰式が松江で行われました。表彰式のあとには例年のように各部門で入賞者との懇談会が開かれました。

 各部門の応募作品数は次の通りです。短歌・一般の部413首 ジュニアの部96首  俳句・一般部611句 ジュニアの部89句  川柳・一般部521句 ジュニアの部582句  詩・一般部55編 ジュニアの部77編 散文・17編 ジュニアの部の応募作品はなし。

今年の大きな傾向はジュニア-の部(中学生まで)で多くの応募者があったことです。これは小・中学校の先生などで熱心な方が生徒に書かせた作品を応募されたからだと考えられます。詩では77編も作品が集まり、びっくりしました。これも熱心な先生の指導の賜です。文芸でも高齢化が進み、若い人たちを育てて行く必要性を文芸フェスタの運営委員会でも何度も話し会いました。その結果ジュニア-の部を設けたわけです。ますます応募者が増えることを期待しています。

入賞者の作品は毎年本になっています。「島根文芸」44号です。図書館などにはあると思います。島根県の国際文化課に問い合わせると購入もできます。

詩の分科会では入賞者に作品を朗読していただき参加者で感想等を述べあい貴重な2時間を過ごしました。島根県詩人連合で出席したのは、撰者の田村のり子さん、閤田真太郎さん、事務局長の川辺真さん、理事長の洲浜昌三の3人でした。

今年の入賞者の大きな特徴は高校生たちが上位に入ったということです。今までもそういうことはありましたが、銀賞や銅賞にたまーに1名か2名に過ぎませんでした。金賞の『僕』を書いた竹下奈緒子さんは出雲商業高校生、銀賞『ハロウイン』の中島千尋さんは松江高専の学生、同じく銀賞『純』の青木茂美さんは出雲商業高校、銅賞『おばあさん』の勝部椋子さんも出雲商業高校。

高齢者の作品はどうしても過去の回想になったり、記録だったり、若々しい感性は欠けています。しかし上記の若い人たちの作品には脆いところはあっても新鮮な感性が息づいています。確かに魅力的です。

小林さんの『としをとると』、持田俶子さんの『まあちゃんの自転車』は若い人にはかけない分厚い時間の堆積から滲み出てくるような哀感がありました。本来なら優劣をつけることはできません。

みなさん、おつかれさまでした。来年もまた参加してください。

 

 

島根の詩人 原 敏(田原敏郎)

詩人 原 敏  石見方言で3詩集刊行         【続人物しまね文学館】                                                                                                                                洲浜 昌三
日本が壊滅的な打撃を受け混沌としていた敗戦直後、益田で詩の同人誌『鶯笛』、松江では『自由詩』が創刊された。『戦後詩誌の系譜』(志賀英夫)によれば1945年に創刊、復刊された詩誌は全国で22誌しかない。島根の戦後詩の始動は全国的にも先駆けであった。

『鶯笛』の中心は原 敏(田原敏郎)だった。原は27年(昭和2)益田に生まれ、45年3月、松江工業高校機械科を卒業し、大和紡績で製図書きを担当していた。仲間と詩を語り作り、得意な技を生かしてガリ版を切り、白想社のキムラ フジオへ印刷を頼んだ。同人は若者5人、後に佐藤繁次が加わった。彼は妻の実家へ疎開していたが市の職員で文化活動の立役者であり、原が尊敬する才能のある詩人でもあった。

同人の相次ぐ離郷で47年秋『鶯笛』は3年で終わった。原も進学を決意して上京したが、カリキュラムの違いで目指した大学の手続ができず、荒涼とした東京生活を離れて帰郷、代用教員なども勤めたが、再び志を貫くために京都へ行き高校時代の友人がいた花園大学へ入学、2年時に編入試験を受け立命館の日本文学科へ移った。生活費を得るために映画の看板や紙芝居の絵を描いたり様々な仕事をした。大学4年の年に第一詩集『都会のかたつむり』を出した。佐藤繁次がそれを聞きつけ祝いに来た。「二人で痛飲した。胸にこみ上げてくる涙をおさえて飲んだ。」再会した佐藤は詩や演劇で活躍していたがその後命を絶ち、これが永遠の別れとなった。

大学を卒業すると大阪府立中学校の教員になった。北園克衛の『VOU』や『静眉』に詩を書き、新大阪新聞詩壇へ投稿し、その仲間と「日本児童詩の会」を結成して児童詩誌『詩の手帳』を刊行した。教科書編集委員に任命され詩の教材選考にも関わった。しかし生活も夢も軌道に乗りはじめた矢先、父が他界。涙をのんで62年(昭和37)益田へ帰った。『石見詩人』の主宰者・キムラは書いている。「10数年後、原敏は益田工高の教諭となって突如ぼくらの前へ出現した。ベレー帽に口ひげをたくわえ、詩の会合では軽快なジョークを飛ばし呵々大笑して席上を独占的に賑わした。」繊細だが快活、豪快だった。  74年(昭和49)には子供たちの情操を育てることを目指して小学校の先生を中心に「蟻の会」を作り、児童詩『蟻』を創刊した。毎号小学生の詩を80編以上載せて寸評を書いた。優れた作品を詩集にしたり、児童詩の指導指針の冊子を何度も作り、手書きの会報を毎月発行、217号まで出した。『蟻』は2011年に81号を出して27年の活動に終止符を打ったが、、子供たちの未来に心を寄せ、大阪時代の経験を生かした献身的な活動であった。

 

72年に島根県詩人連合が結成されると初代理事長になった。詩集は『しめった花火』『日々』、さらに石見方言で書いた詩集、『ひゃこる』『続ひゃこる』『裸虫の歌』がある。  「あんた なにょう そがあに 大声で ひゃこりんさるかな そこの氏やぁ とおの昔 おってじゃなあに 山も田地もな そのままいな 今頃らあ まちばで ええ生活しとりんさるげな わしらもなあ おりんさらんことを つい忘れてなあ 時々 ひゃこることがあるでや」(詩「ひゃこる」の冒頭)

「耕地が少なく荒々しい地形と荒波を受ける磯部で生活を確立してきた石見人の言葉には、赤裸々な人間本質の心の叫びがある」と原はいう。

 詩や著作から、形式主義や因循を嫌い自己の信念を貫き真実の声を聞こうとする石見人・原 敏の一徹な姿が浮かぶ。そこには、軍靴で青春や自由や尊厳が踏みにじられた時代を生きた世代の強靱さもあるのかも知れない                                       (島根県詩人連合理事長 「石見詩人」同人)

 上記の文章は2011年12月2日の山陰中央新報の「人物しまね文学館」に掲載されたものに写真を追加しています。ぼくが昭和40年3月に早稲田を卒業して島根へ帰り最初に赴任したのが県立益田工業高校でした。昭和38年に新設された立派な学校でした。そこに国語の田原敏郎先生や矢富厳夫先生がおられて石見詩人の同人でした。ぼくは詩ではなく「日本海文学」へ小説を書いていましたが、誘われて同僚の数学教師・岩石忠臣さんと加入しました。

 田原先生は実に豪快で竹を割ったような人でした。小学生の2人の息子へ英語を教えてくれ、と頼まれ教えたあと2人で飲みながら文学談義を遅くまでやったものです。飲むために教えたようなものです。先生は早稲田の文学部を受験に行かれたそうですがカリキュラムの違いから手続きができなかったそうです。益田工業高校では詩作同好会を作って同人誌を発行され、卒業時にはまとめて詩集『卒業』を作られました。何しろ機械科卒業で製図など

お手のものですから手書きの字など実にきれいなものでそれを輪転機で印刷して会報などは作っておられました。考えの違いから「石見詩人」はやめて、一時「山陰詩人」に詩を書いておられたこともあります。正義感にあふれ一徹なところがありました。ぼくも「蟻」の会の会員でしたが、毎月の会報発行と郵送、100編近い児童の作品に一つ一つ批評を書かれたことなど誰にもできることではないと思っていました。終刊後に会員がお礼の志を集めて感謝しました。

 この時期には石見詩人の高田賴昌さんも朝日新聞地方版で児童詩の選をして毎週掲載していましたし、浜田では石見詩人の熊谷泰二先生、閤田真太郎、山城健さんたちを中心に児童詩を募集し「石見のうた」を毎年発行していました。全国的にも珍しいことです。田原先生は大阪での経験や児童詩にたいする信念からもその意地を通されたのでしょう。『蟻』は全国的に活動していた詩人たちにも送られ寄稿文も寄せられています。

 『詩歴』創刊が昭和20年の秋か、21年の秋かは重要な意味があります。田村のり子さんの「出雲石見地方詩史50年」の年表には20年とでています。しかし後にでた「島根の詩人たち」では「敗戦の翌年ガリ版の鶯笛を創刊」と書いてあります。田原先生自身も『鶯笛』は手元にないとのこと。どこの図書館にもありませんし、矢富先生もないとのこと。実に困りました。いろいろ状況証拠を集めて昭和20年秋としました。本人の記憶も明確ではありませんでした。『詩歴』や『鶯笛』を持っている人がいたら是非見せてください。田原先生が戦後いち早く詩活動をはじめたのは松江工業高校時代の軍政下でもそれを越える自由な思想を持っていたからでしょう。そは重要なことですが、少ないスペースでは書きませんでした。

 文中の佐藤繁次について紹介しておきます。「戦後文化樹立の中枢となった「益田町文化懇話会」を神原正三、篠原信、大谷垣、土田伊平などと結成し、その運営活動の軸として活躍した他に『緑野』同人、『石見洋画界』、「農民組合文化情報部」など益田の文化のために枚挙のいとまがないほど貢献した人であった。市役所職員のサラリーを文化に投資して静子夫人とケンカ別れをし昭和24年故郷の大阪へ帰り府庁に勤めていたが、昭和29年4月20日自ら命を絶った」(石見詩人38号)

 『鶯笛』の同人はつぎのとおりです。「原 敏、岡崎のぼる、浅井昭二、大畑富美子、福原和子など若者グループに途中から佐藤繁次も加わって、早春になく鶯の笛声のような、初々しい誌文学の創造をめざした」

 最後に山陰中央新報の紙面を紹介させていただきます。来年には『続・人物しまね文学館』(想像)として出版される可能性が大でうからPRも兼ねて。

 山陰中央新報での週1回(金曜日)の連載は1月末前後まで続く予定です。すでに詩人の高塚かず子さんの原稿は新聞社へ送っています。ぼくの担当はあと2人です。中村満子さんの原稿は仕上がりました。詩集を10冊読み、敗戦前後の資料を集め、年表を作っていくうちにやっと「書くべき核芯」に至りました。ぼくの内的な文学精神を揺さぶる動機が生まれないと書けません。これが難しいですね。あと閤田真太郎さんが1人残っています。資料は集めていますので年表をつくりじっくり書いていきます。年末も近づいたのにいつものように宿題山積未提出人生です。

 

川本町で発行の俳句誌『霧の海』

島根県邑智郡川本町で俳句雑誌『霧の海』が発行されていました。奥付を見ると編集発行人は品川誠太郎、発行所は観光新報社、主幹は品川河秋となっています。創刊は昭和9年12月15日です。どこを捜しても見つからなかったのですが、島根県立図書館に13冊だけ保存してあります。創刊号(27ページ)と翌年1月(2巻1号)から2巻12号まで(8月号は欠番)あります。昭和10年12月以降はどうなったか不明です。

昭和25年12月3日にに発行した復刊第4巻第2号、26年1月3日発行の第5巻1号が県立図書館にはあります。次の写真は昭和26年3月3日発行の第5巻第3号です。(巻はどういう使いかたなんでしょう?だれか教えてください)インターネットで捜したら福岡市の古本やにあるのがわかり注文しました。

 編集主幹の品川河秋さんについては詳しいことはわかりません。『霧の海』を読んでいくと、33歳の時創刊し、30年間大阪へ出ていた、という文章が出てきます。具体的なことは書いてありませんが、大阪へ出られて実業家として活躍されたのではないかと思います。復刊号を出された昭和25年には74歳かと思われます。他界されたのは78歳です。昭和29年7月の江川の大洪水です。葬儀のとき、俳句仲間の法隆寺住職・岩 義香氏が次の一句を献詠されたそうです。「江川に吹かれ落ちけり合歓の花」。そのあたりにはネムの花がたくさん咲くそうです。

次の写真は川本の木路原方面を江川の対岸から写したものです。詩人・高塚かず子さんが生誕された集落です。近くに竜安寺があり、竜安寺川が流れています。

 川本は水量豊かな江川があるために昼頃ままで一面に霧が立ちこめることがよくあります。まさに霧の海です。多分そういうところから『霧の海』と名前を付けられたのでしょう。

品川河秋さんのことを知っている人がまだおられるでしょうか。『霧の海』に参加された同人は50名以上あったと思われます。とても発展的な展望を持って発行しておられたのが誌面からよく分かります。俳句の選をして載せるだけではなく、各地区に俳句会を結成しています。自ら観光名所の歴史を解説して観光資源開発も目指しておられたようです。五島にいる5歳の孫娘を詠んだ俳句も一句見つけましたが、体がしばらく震えました。

河秋さんや『霧の海』のことを知っておられる人がありましたら、ぜひ話しを聞きたいものです。

島根の文学運動 詩 (下)

(上)では大正から昭和19年までを紹介しましたが、つづいて戦後から現在までの同人誌活動を中心に紹介します。現在の同人誌や詩人連合などの活動状況についてはそのうち書く予定です。

(斐川町の高田正七氏が個人で出版した昭和40年版の島根年刊詩集。中身も和紙。高田氏は7冊個人で年刊詩集を発行した。その後は島根県詩人連合に受け継がれ最新版は平成22年版で39集になる)

島根の文学運動 詩(下)
戦後に短期黄金時代 ー〈洲浜昌三〉

島根の詩活動は、日本が戦争への道を進む中で衰退していった。1939(昭和14)年に吉儀幸吉、門脇真愛の『風土記』創刊があるだけで、翌年春安部宙之介が大社を去ると詩誌の火は消えた。国策宣伝普及が求められ、42年には30数名の詩人が集まり島根県翼賛詩人会を結成した。戦地へ行ったり、公田豊治郎のように詩才を戦場で散らした者もあった。

敗戦後は若い詩人たちが各地で動き始め、雨後の竹の子のように詩誌が誕生した。しかしなぜか6年以内に消え昭和30年代以降は3詩誌寡占時代になった。

敗戦の年の11月、早くも松江で詩誌『自由詩』が創刊された。20歳をでたばかりの帆村荘児と本庄稔民が中心で、岡より子、雲田謙吉、甲山まさるを客員に、一時会員が130人もいた。文化活動も活発におこなったが51年に30号を出して終わった。46年1月には石村禎久を中心に『詩祭』が誕生、市民を啓蒙する文化活動も展開し8月までに6号を出したが、石村は大田へ転勤、大田で『司祭』を2号まで出した。22年春には安食久雄が『ポエジー』、9月には三島秀夫が『人間詩』を創刊し5号まで出した。

出雲では大社中学で安部宙之介の薫陶を受けた松田勇を中心に『幌馬車』で活躍した野尻維三男たちが46年5月出雲文芸社を結成。安部と岡を顧問に『詩文学』を12号まで発行した。「荒涼とした郷土の街に文化の灯をともす」ことを掲げ、100人近い会員を擁し2年間エネルギッシュに文化活動も展開した。大東では48年大東高校職員中心に錦織芳夫、星野早苗、後藤正美らが『山脈』を創刊、栗間、中尾、甲山、宮田、吉儀、布野、細貝真紀子(後の別所)など多くの県内有力詩人も寄稿した。

大田では46年春、吾郷次頼、中井律郎らが『たんぽぽ』(後に『詩世紀』と改名)を創刊、大田高校の中尾清が指導的役割を果たし23号まで出した。市内の石村、和田雨星、石田暁生、松尾清や県内の甲山、三島、吉儀、岡、帆村、本庄なども詩を寄せた。

益田では敗戦の秋、20代の田原敏郎を中心に佐藤繁次なども参加して『鶯笛』を創刊した。同人の離郷で47年秋には廃刊になったが、印刷を頼まれてガリ版を切ったキムラフジオは54年に内海泰、中村幸夫などと『詩歴』を創刊し、55年末までつづいた。

56年1月キムラは岡崎澄衛、内海泰などと石見詩人社を設立し6月に『石見詩人』を出した。31号からは高田賴昌が編集者となり現在(126号)に至っている。同じ年に出雲では光年の会が誕生、20代の喜多行二、原宏一、田中瑩一らが7月に『光年』を発行し、現在は松江の坂口簾(田中瑩一)が編集を担当し138号になる。松江では61年11月松田勇と帆村荘児が往年の詩人へ呼びかけて木嶋俊太郎、安部宙之介を顧問に山陰詩人クラブを結成した。『山陰詩人』準備号を含め2号まで帆村が編集、13号まで岡より子( 松田、宮田隆、栂瀬大三郎が編集同人)、67年からは前年入会した田村のり子が編集を担当し現在(189号)に至っている。田村には6冊の優れた詩集があるが、73年に第6回日本詩クラブ賞を受賞した『出雲石見地方詩史50年』は評価が高い著作で、著者の慧眼と共に批評や記録も重視してきた執筆方針の成果である。

昭和40年代には出雲の琴川輝正らの文芸誌『清流』、隠岐では小室賢治、斉藤弘、河野智恵子らの『潮鳴』、島大生・伊藤里子らの詩誌『擬態』、浜田では石見文芸懇話会が結成され文芸誌『山椒魚』を7号まで発行した。また個人詩誌では高田正七が『二十五年』を151号まで出し、帆村荘児は『貝』(後に『典』)を32号、キムラは『雑木林』を120号まで発行した。個人誌では肥後敏雄が『狼派同盟』をこの春60号を出した。

現在の島根の詩誌の詳細や島根県詩人連合の活動などについては後日に譲りたい。         参考文献 田村のり子著『出雲石見地方詩史50年』、同『島根の詩人たち』、島根県詩人連合刊『島根年刊詩集』各号、『石見詩人』『山陰詩人』『光年』『二十五年』など。  (島根県詩人連合理事長 石見詩人同人)

  (田村のり子著、島根県詩人連合発行の『しまねの詩人たち』島根県文化ファンドの助成と詩人連合連合の積み立て金で発行しました。手元に残部が数冊あり。頒価1200円。希望があればお送りします。)

島根の文学運動 詩 (上)

平成23年1月21日、旧島根県立博物館の文化国際化分室で、第32回島根県文学館推進協議会が開かれました。出席者は10名でしたが、「続・島根文学館」の山陰中央新報連載について、また県議会での福田議員の文化行政に関する質問と知事の答弁内容について報告があり、話し会いました。その席で島根の文芸5分野の活動の歴史を書いて新聞に掲載してもらうことを提案し承認されました。

「人物しまね文学館」は人物中心の点です。線(歴史)としての文学者の位置づけが必要で、当然取り上げられるべき人物が出てこないという問題(執筆等の関係者)を幾分でも解消するためにも歴史的な活動を示す必要があります。すでに5分野の文学運動が山陰中央新報に掲載されました。紙幅が限られていて要点を箇条書きしたような評論になったのはやむを得ないことですが、調べたい人の参考になればと考え、整理の意味も兼ねて紹介します。

島根県の文学運動 詩(上)
大正末に第一次黄金時代 〈洲浜昌三〉

島根で発行された詩の同人誌にスポットを当て、県内の詩の歩みを概観してみたい。

日本の近代詩は、それまでの漢詩から新体詩と呼ばれる文語定型詩ではじまった。明治15年に出た西洋の訳詩集『新体詩抄』を源流とし、森鴎外を中心にした訳詩集『於母影』で成熟し、藤村の『若菜集』(明治30)で新体詩は完成したといわれる。更に白秋、露風の文語自由詩を経て、大正の口語自由詩へと発展していった。島根では中央に少し遅れて大正末期から昭和初期にかけて、多くの同人詩誌が誕生し黄金時代を迎えた。プロレタリア作家への弾圧が激化する昭和6,7年以降は創刊も減り、昭和15年から敗戦にかけては詩誌の誕生はなかった。

田村のり子著『出雲石見地方詩史50年』では、島根で最初の詩誌は、大正7年出雲今市で旧制杵築中学の日野よしゆき、錦織秀二、岸野生花らが創刊した『草原』だろうと推定している。彼らはその後文芸誌『森の中』や『塑像』を創刊した。

古くから短歌が盛んだった大社では大正10年に錦織天秋、上野一郎など多くの文学青年が集まり郷土草社(後に山陰詩人社と改名)を結成し、『ふるさと』『水明』(後に『日本海詩人』、廃刊後は文芸誌『出雲』)を創刊して活発な活動をした。安部宙之介や温泉津の木嶋俊太郎も『水明』の同人だった。

大社にいて島根詩壇に長期にわたり大きな影響を与えたのは安部宙之介であった。後に日本詩人クラブ会長にもなった安部は、昭和4年から15年まで旧制大社中学で教え、『木犀』『森』『詩・研究』を発行した。多くの詩人が励まされ、教え子が詩誌を興し活躍した。大谷従二、音羽融、中沢四郎らは詩誌『なぎさ』、桑原文二郎『白い花』、中塚博夫『山陰詩人』(現行の詩誌とは同名異誌)、松田勇は戦後に『詩文学』『山陰詩人』を創刊した。安部夫人も昭和4年に『あけみ』(後に『女人文化』)を中心になって創刊した。

松江では大正9年に金沢芳雄、山部茂の詩誌『ひよどり』が誕生した。1号雑誌だったがそれを母体に青壺詩社が結成され雑誌『青壺』を発行し活発に活動した。解散後の大正13年、松江詩話会が生まれ『松江詩人』を発行、4年間華々しい活動をした。長谷川芳夫、坂本精一、貴谷昌市、佐々木春城など優れた詩人や詩論家が揃っていた。栗間久、宍道達なども途中で参加した。昭和3年に島根師範学校へ赴任した木島俊太郎は『十字架』などの詩誌を発行し校友会誌『阿羅波比』に詩を書き吉儀幸吉、音羽融など多くの学生に影響を与えた。昭和3年に旧制松江高校で森脇善夫を中心に結成された淞高詩話会も活発に活動し多くの文学者や詩人を輩出した。布野謙爾、花森安治、田所太郎、宍道達、藤原治、宗寂照、田村清三郎、山本清、小原幹雄など多士済々である。

石見では大正11年、大国小学校の松村勇が月刊誌『心閃』を創刊、粕淵へ転任してからは『詩巡礼』を発行した。大田には山田竹哉などの『群像』、温泉津では木嶋俊太郎や渡利節男らの文芸誌『赤裸』もあった。昭和5年には中島雷太郎や中島資喜らが静窟社を結成して『静窟』を創刊(後に『山陰詩脈』と改名)した。時は日本が軍国主義を強めていった頃で昭和9年に警察からの不当な介入もあったが5年間で49輯は長命であった。同人だった和田快五郎は『島根詩人』を創刊し7輯まで発行した。

出雲の知井宮では昭和10年に野尻維三男、山本善二、木村富士夫などが『幌馬車』を創刊。岡より子を選者に迎え多数の会員を擁して3年間活発に活動した。その他に安来では大正11年に佐々木春城などの『曼荼羅』が4号まで発行され、大東では大正13年ごろ土谷幸助らが発行した『炎上』があった。当時の山陰新聞、松陽新聞は入選した詩を競って掲載した。これは若い詩人を刺激し詩の大衆化に大きな役割を果たした。          ( 島根県詩人連合理事長 石見詩人同人 )

 

四万十大会成功裏に終了

2011年10月1日(土)四万十市の新ロイヤルホテルで第11回中四国詩人会が開かれ、会員は約50名、講演時には80名近い参加があり成功裏に終了しました。田中四万十市長も来られて歓迎の挨拶をしていただきました。 (上の写真は講師の鈴木漠先生を紹介する高知の小松弘愛さん。高知詩の会代表として事務局長の林嗣夫さん共々お世話になりました。)

 大会のプログラムを載せておきます。

 詩の朗読は地元の高知から山本衛さん、大森ちさとさん、香川の宮本光さん、徳島の宮田小夜子さん、岡山から山田朝子さん、摩耶甲介さん、広島の川野圭子さん、山口のスヤマユージさん、鳥取の井上嘉明さん、島根kらは唯一の参加者・洲浜昌三くんが『流人のように草を抜く』を朗読しました。それぞれの詩は事務局長の川辺さんが冊子に編集し、当日参加者に配布しました。

 第11回中四国詩人賞は岡山県瀬戸内市在住の小野田 潮さんの詩集『いつの日か鳥の影のように』に贈られました。小野田さんは詩集を私家版としてつくられましたが、編集するときに先入観をもたれないように表紙は題字だけにしたことや、発表順ではなく一つの世界観が出てくるように整理し配列したと話され、2編の詩を朗読されました。詩と同様に謙虚なジェントルマンだというのがぼくの印象です。

 講演は鈴木漠先生。前夜の歓迎会から一緒だったのですが、知的エネルギーの固まりで実に博学な人です。広い知識だけではなくその深さは徹底しています。講演の内容は多岐にわたるので紹介はここではできませんが、中国の漢武帝や李賀など、日本では古事記や万葉集からはじまる連句の歴史や時代の中で占めた働きなど資料を基にして熱心に話されました。明智光秀が信長を討つ前の天正10年5月25日に愛宕山の威徳院で開いた連歌会は、人という字を伏せるということで読まれました。光秀は「ときは今天が下しる五月哉」と読みました。伏せられた「人」を表に出すと、「天下人」となります。この席には当代随一の連歌師も参加していたという。彼らが光秀の句を秀吉側の武将に教えていたかもしれないーというのは証拠はありませんが可能性はありそうです。裏面史に通じ、想像力も抜群に豊かな鈴木先生でした。

 アトラクションでは高知の永野美智子さんが幸徳秋水の生涯を紙芝居にして語られました。また幸徳秋水の絶句などを2名の現地の方が朗詠、一條太鼓演奏では小学1年生から大人まで出演して力強い響きを奏でていただき四万十市の文化の一端に触れることができました。

 懇親会も楽しく過ごし、翌日は市内視察。まずホテルのすぐそばにある幸徳秋水の墓へ行き手を合わせて黙祷しました。どんなに無念だったか、そして家族や親族が如何に長い間偏見の中で国賊扱いをされてきたか、また中村市自身も負の遺産として背負ってきたかーそのことに胸が痛みました。しかし今は、自由、平等、博愛を説いた秋水は、平成12年12月、中村市議会で「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で承認、公に秋水を表にだして顕彰しPRしています。ある時代には罪人とされた人間が時代が変われば時代をリードする先駆的な思想家になるのです。時代こそ罪人です。実に不合理です。今生きて両面を知ることができるぼくらは幸せかも知れません。

 汽車の都合で秋水の墓へ参った後に1人で市内を歩き9時過ぎの汽車に乗って帰ったのでこの後の市内観光には参加できませんでした。山本衛さんはじめ高知のみなさん、お世話になりました。

くりす さほ 詩集『いつか また』

2011年6月、浜田市のくりすさほさんが詩集を出されました。『いつか また』は100ページの詩集で31編の詩が載っています。どの作品も平易で難解な言葉はありませんが、若々しい感性にあふれ、省略された空間が大きいので単純に分かりやすい詩とは言えません。「感じる」ことがたくさんある魅力的な詩がたくさんあります。詩に感心がない人で楽しめる詩集です。

 タイトルにもなっている冒頭の詩「いつか また」を紹介します。

いつか また

一読すると女学生が書いたかとも思われるような詩です。しかしよく読むと感性だけではない深いものが感じられます。「風は/誘っていない」とか「いつか また…」には引き戻されます。風が誘っていないのに花びらは落ちるのです。普通の「いつか また」には夢や希望があります。特に若い人なら未来に開かれた言葉です。くりすさんは高齢な方です。「いつか また」の「いつか」はどの時点をイメージしてつくられたのでしょう。そう思えば、不安や恐怖も滲み出てきます。長い人生と経験の末にサクラを見ているのです。女学生の感性で書かれていることも不思議な魅力ですが、どこかにさらっと人生の深い谷を見た目が生きて来ます。それが立ち止まらせ考えさせます。

くりすさんは石見詩人の同人で島根県詩人連合会員です。この詩集は第一詩集。何かの時の贈り物として送ったらきっと喜ばれると思います。希望があれば取り寄せてお送りします。

ではもう一編紹介します。

詩集は石見文芸懇話会から発行されています。浜田市黒川町251-12 山城様方です。印刷は弘文印刷(0855-22-3171 浜田市片庭町254-6)。

「石見詩人」は11月ごろ127号を発行しますが、この詩集の感想特集を載せます。

島根の現代詩の状況

日本詩人クラブが発行している雑誌『詩学』の編集部から依頼されて平成16年に島根県の現代詩の状況を書きました。整理のため、そして何かの役に立つこともあるかもしれないと考え紹介します。   

 

地域別現代詩の状況
           島 根 県
洲 浜 昌 三
島根県は東西に長い。山口県境にある西の津和野から鳥取県境にある安来市まで約200キロ。汽車で4時間はかかる。
島根県民歌の中に、「九十万の県民の…」とあるが、これは昭和30年代のことで、いまは75万余、65歳以上の老年人口比率は26%で全国一。代表的な過疎県である。貧しい暮らしの中で子供を立派に教育して都会へ送り出し、自ら疲弊していく人材供給県である。
中国山脈を背にして、日本海沿いに伸びるこの細長い県は地理的文化的に、出雲、石見、隠岐と三つに分けられる。

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吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む

2011,3,9倉敷市の詩人吉田博子さんが『聖火を翳して』(せいかをかざして)をコールサック社から出版されました。第11詩集になります。依頼があって『COALSACK』70号へ詩集評を書きました。紹介します。

吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む
自己凝視から弱者への優しい眼差し
洲 浜 昌 三
詩集を手にした時、しばらく表紙に見入った。質素だがどこか華さと豊かさがある。長方形の枠の中の絵は幼児が描いたように素朴で素人っぽいが色彩豊かで鮮やかだ。計算や技巧のない大らかさが、現代が失った豊かさを語っている。
詩を読み終わって改めて表紙を眺めていると、新たな角度から作品の底流が見えてくるような気がした。
この詩集は三つの章から成る。Ⅰ章、Ⅱ章は詩、第Ⅲ章は絵画で、40数ページにわたり作者の絵と9枚の「たっくん」(作者の孫)の絵が載っている。


作者は日常生活で触れ合う自然や人、風物などを素材にして読者を詩の世界へ誘っていく。虚構や技法や高度な抽象で表現しようとはしない。思いや洞察を素直に記述していく。言葉は抵抗なく読者の心に入っていく。しかし作者の感慨の域を越えない場合は何も触発しない場合もある。詩には、素材に言葉が埋没せず、それをジャンプ台にして飛翔していくものが必要である。
ここ10年くらいの間に吉田さんの詩集は『詩選集150篇』を含め5冊読ませてもらった。第8詩集の『立つ』から『咲かせたい』『いのち』そして今回の詩画集である。それらの詩集には共通した基盤がある。それは「自己への執拗な視線」、「背負わされた自責」、「痛点の敏感さ」であり、同時に「姿勢の低さ」、「弱者への優しい眼差しと思いやり」である。その強さや深さは普通の何倍もあるのではないかと想像する。そこから生まれてくる痛みや怒り葛藤などのマグマに自ら傷を負いながら、内蔵し、凝視し、詩という文学の世界へ昇華させてきた。
今回の詩集にも執拗な自己凝視や痛切な自責、非合理への怒りがある。


「嵐の海は愛のかたみを流す以外になかったわたしを/激しく包んで抱きしめてくれた」(「あの夜の港」)「業の深いわたしという女/片方の手を/空のむこうへ伸ばしてみても/つかめない希望/そんな欲深い心に/夜の灯台の灯は/静かに心のドアをトントンとたたくのだ/じっと自らを見つめてごらん、と」(灯台)「時が わたしの積みあげた愛が/溺愛でしかないことを知る」(「疲れた耳に届く声」)「わたしは死ぬまで/美しい心はもてない/そう思う/いつも心がけてはいても/たちはだかる業に身動きできぬ程/摑まれている」(「愛しい左半身」)
同時に今回の詩集では大自然や生命への慈しみの気持や感謝から生まれた詩も多い。落ち葉の視点や死の視点、死後の未来からの視点、更に普遍的な時間認識から生まれた詩が多いのも特徴である。
「娘や孫が愛しんだ命が/わたしの内の野原に/ろうそくの灯をともす/一つ二つ三つ/でも決してゆるがない愛する芯を/聖火のように翳して」(表題の詩)「愛することは/生きる時間を芯から共有すること/生まれる 逝くこと/それは永遠に紡ぎ続けること」(「自らを織る」)「まんまるの月がぽっかりと/空にうかんでいて/思わず手をあわせる/命を守っていただいている/なぜか知らぬまに心がうるむ」(「はてなの木」)
高機能自閉症だという「たっくん」の絵は、仏さまや魚などの色や形の自由さが魅力的。また4頭の虎の絵は、虎の内面がよく表情に出ていて楽しい。
「おばあちゃんは遠くへ行ってしまっても、いつまでもたっくんといっしょだよ」という思いを作者の吉田さんは具体的な形にして残したかったのだろう。

コールサック社は東京都板橋区板橋2-63-4 (03-5944-3258)この詩集は2千円です。吉田さんは詩画展「折り折りの想い 希い」を2011年10月8日~16日まで開かれます。10時~17時まで。場所はいかしの舎(岡山県都窪郡早島町早島1466)見に行ってください。感じるものがたくさんあると思います。