「昌ちゃんの詩の散歩道」カテゴリーアーカイブ

R2,井下和夫詩集、椋木哲夫詩集(書評「石見詩人」144号)

『石見詩人』は、同人も高齢化し現在は年2回の発行になりましたが、益田市の高田頼昌さんが中心になって頑張っています。2019年10月に井下和夫詩集『河は流れる』(ふらんす堂)、12月に椋木哲夫詩集『そっと ひとひら』(たど印刷)が刊行されました。二人ともキャリアのある詩人です。書評を144号に書きましたので紹介します。
井下さんは益田市昭和町にお住まいですが美郷町出身で大田高にも勤務しておられました。詩は、ふと心に触れた感慨を具体を通して洗練された言葉で静かに語るというのが特徴で、行間から哀歓や郷愁が滲み出て味があります。30篇の詩が載っています。
R2,書評 井下和夫詩集「あるがままに」石見詩人144号(洲浜昌三)

椋木さんは益田市向横田に在住。この詩集には、昭和44年から令和1年までの作品が年代順に掲載されています。椋木さんの詩は自己主張や風刺、ユーモア、言葉遊び、鋭い社会批判などを含め「如何に生きるか」という哲学的な模索が背後にあり、独自の面白い視点で光を当てて表現するのが特徴で、詩が活き活きとしています。
R2 書評 椋木哲夫詩集『そっと ひとひら』石見詩人144号(洲浜昌三)rtf
石見詩人主催者の高田頼昌さんが、山陰中央新報に寄稿された
文章がありますので、紹介します。
(ブログ 劇研「空」、昌ちゃんの詩の散歩道、詩集や本の紹介、202010すはま

R2,大田市民会館で「夢育美コンサート」(9/26)

「ユ―メイクミー」長坂行博コンサートが、中ホールで開かれました。新型コロナウイルスの影響でほとんどの文化行事は中止か延期され、大田市民会館では今年初めての文化行事でした。
YOU MAKE ME」「あなたがわたしを育ててくれる」「夢を追いかけている人生は素晴らしい」。市民会館の地域行育成事業の一環で会館スタッフの全面的なバックアップがあり、50人限定のコンサートでした。数多く作詞作曲をされている長坂先生がギターを弾きながら奥様のキーボード伴奏で10曲あまり歌われました。人の心を癒し、そよ風のようにそっと背中を押してくれるような歌の数々でした。
歌の合間に、その歌が生まれた切っ掛けも語られましたが、歌の背景が浮かび、歌に深みが生まれて印象に残りました。

11月23日には、松江の県民会館で「しまね伝統芸能祭」が開催され、創作音楽劇『琴の鳴る浜』を構成劇風に20分に短縮して、合唱5曲と馬路の盆踊りを上演予定です。その作曲も長坂先生(作詞・洲浜)です。作曲者、演奏者、合唱隊、スタッフという力強いコラボレイターの存在があり実現した舞台です。
(ブログ 劇研「空」詩の散歩道 地域情報20201006すはま)

R2, 詩集『ひばりよ 大地で休め』(1978刊)について

1978年(昭和53)11月、石見詩人社から刊行した詩集『ひばりよ  大地で休め』(洲浜昌三著)について、時々問い合わせがありますので、自己整理の意味も込めて紹介してみます。42年前の詩集で、書棚に2冊ありますが、主な図書館にはあるかも。

表紙や挿画は美術教師で同僚だった古浦秀明先生。詩集に合った素晴らしい挿画でした。理想を追い、空想的、抽象的傾向が強かった若者が、厳しい現実を目の前にして格闘していた時期でしたので、詩のモチーフも自分探しにあったのでしょう。表題の「ひばり」も、理想を追って空高く上り、美しい声で歌っているひばりに、たまには大地で休んだらどうだ、と呼び掛けているのです。

 ひばりよ 大地で休め  洲浜昌三

ぴゅうぴる ぴゅうぴる
つぃーちゃい ひょろろ

高い空で
ひばりが さえずる

設計図が
重い

はっきり 見えたから
線を引いたのに
線は 何も
つかんではいない

もとから ないのに
自分のインクで
図面を引き
当然 無から
仕打ちを受ける

宇宙は 広大すぎるから
小さな器に
その一部をすくい取り
争いの種をまき
憎しみを
競ってつくりだす

空の広さが
欲しいのに
空の記憶が
なつかいいのに

ひばりよ

手は
設計図に
また 線を
加えようとするのだ

当時、読売新聞で「西日本詩誌評」というコラムがあり、詩人の黒田達也さんが、「面白い表現技法」というタイトルで取り上げ、新聞を送って頂きました。

第三者の鋭い指摘は、無意識の闇の中にある指向や精神性を天日の下に照らしだしてくれます。
「詩集を読もう。洲浜昌三『ひばりよ  大地で休め』(大田)は、テーマ設定に多様性があり面白かった。例えば「壮大な不在」は、類推すれば多分文学創造の苦しみに関する自己分析を抽象化したユニークな詩であり、「忘れもの」は日常性の中でふと感じる実存的な忘れものの感覚である。「重さを忘れて/歩きはじめると/近くに一点の光がある//その星座にも立ち寄ろうとして/軽い足を/のばすと/太古の記憶が転がっている」
これは「パルテノンからの帰り道」の部分である。このように、多彩な内容と表現技法の面白さは、形而下的な日常や土着性への指向が少ないという、この詩人の特徴を示している。それは主観を深めることによって批評精神の厳しさに徹しようとする作者の姿勢であるように思われる」(黒田達也)
(ブログ 詩の散歩道 詩集や本の紹介 20200813 すはま)

R2,県民文化祭・『島根文芸』作品募集(7/1~9/4)

第18回島根県民文化祭の主要行事・「しまね文芸フェスタ」は、9月20日益田市で開催予定でしたが、新型コロナのため中止になりました。今年度は詩部門が担当で、昨年から講師との調整を進めていましたが、残念ながらキャンセルに至りました。文芸作品募集は例年通り行います。どうぞ奮って応募してください。
裏面に詳細があります。チラシは公民館や学校などにも置いてあります。県文化国際課に問い合わせてもいいですし、「島根県民文化祭」ホームページにも掲載してあります。島根出身者なら県外の人も応募できます。「ジュニアーの部」もありますので、小中学生の皆さんも作った作品を送ってください。
表彰式は12月12日(土)松江の職員会館で行われ、入賞作品を掲載した『島根文芸』が贈られます。次の表紙は昨年度のものです。
次の写真は詩部門の入賞者表彰式です。表彰式のあと、各部門で入賞者を囲んで合評会が開かれます。選者と詩人連合の会員などが参加します。ぼくも毎年出席しています。
『島根文芸』も52号になり、貴重な島根の文芸作品を宝庫にもなっています。小中学生の場合は自分から応募することは滅多にありませんので、学校の先生の指導や勧めで、毎年作品が寄せられます。今年も新鮮な作品が楽しみです。ご協力ください。
(ブログ 詩の散歩道 島根文芸フェスタ 島根県詩人連合 お知らせ 20200702 洲浜)

R2,石見で発刊された個人詩集17冊(2020~2010)

「石見詩人」編集者の高田頼昌さんが、「石見から続々個人詩集発刊」というタイトルで山陰中央新報(4/15)の文化蘭へ寄稿されましたので紹介します。ここでは、井下和夫、洲浜昌三、くりす さほ、栗田好子、椋木哲夫、中村梨々、6名の最近の詩集を取り上げてコメントしています。

ついでに過去の詩集をまとめておきたいと思い、書棚から過去10年分の石見で出版された詩集を年代順に一覧表にしてみました。どの詩集にも素敵な詩があります。各詩集から1,2編選抜してアンソロジーをつくれば、面白い詩集ができるけどなぁ・・・・(沈黙は何を暗示してるのか?)。

発行年月と題名などを一覧表にしてみました。
10年間で、石見で出版された詩集 17冊(1920~2010)

表紙も紹介します。詩集によっては、「詩の散歩道」で書評を載せているものもあります。

つづいて少しづつ整理していきたいと思います。連日、暑い日が続きます。畑の水遣りも手が抜けません。今日は大田准看護学校の英語授業の初日でした。大田準看も今年度で閉校です。18名の男女の皆さんが、熱心に授業に受けておられます。石見は感染者ゼロ行進中ですが、マスク着用、机の間隔確保、手洗いや三密を守っています。感染者ゼロこそ免疫がないから恐ろしい、と言われれば、なんとも、返す言葉がありませぬ。
(ブログ 詩の散歩道 詩集や本の紹介 石見の詩集 洲浜)

R2, 野口やよい詩集『天を吸って』(第30回 日本詩人クラブ新人賞)

日本詩人クラブ三賞(日本詩人クラブ賞、新人賞、詩界賞)が2月16日の第三回選考会議で決定し、「詩界通信」90号で選考経過などが掲載されました。東京の早稲田奉仕園で開かれた新人賞選考会には、7人の選考委員の一人として、はるばる島根から出席しましたので紹介してみます。

全国の会員などの投票や推薦で14冊が新人賞候補になっていて事前に何度も読んで出席しました。選考委員長は谷口ちかえさん、委員は草野早苗、秋山公哉、塩野とみ子、草薙定、庄司進のみなさんと洲浜昌三。皆さんの詩集に対する受けめ方はとても参考になりました。
「詩界通信」では選考委員全員の感想が掲載されていて学ぶところが大いにありますが、ぼくの箇所を紹介してみます。
途中切れですので、続きはPDFでどうぞ。字数が限られていて感想のほんの一端です。
R2 選評所感 「日本詩人クラブ新人賞」20200306 「詩界通信」90号へ
中村不二夫さんには20年ぶりにお会いしました(平成20年に島根文芸フェスタ講師にお招きした)。理事長の佐相さんには2年ぶり。21時ごろ帰るとき地下鉄の早稲田駅まで送ってもらった。東京での詩人クラブの会合には初めての参加です。近くなら度々参加して多くの詩人と知り合いになり、学ぶことも多いことでしょうが、なにせ大田と東京は距離も心理的にも遠い。新型コロナウイルス警戒中の上京で、家族から厳しい事前指導を受けて行きましたが、まだ一族みんな元気です。
(ブログ 詩の散歩道 詩集や本の紹介 20200612 すはま)

R2,短詩「森林 森の酸素工場」(全国育樹祭 三瓶山)

2020年5月31日に予定されていた第71回全国植樹祭は、新型コロナウィルスのために、来年度に延期されました。乱雑に積み上げた書棚を整理していると、新聞の切り抜きがでてきました。
平成13年(1991)10月に三瓶山で行われて第15回全国育樹祭前に発行された山陰中央新報です。全面を使って樹木の写真と洲浜昌三の詩「照葉樹林のふもとで」が掲載されているじゃありませぬか。育樹祭前日の10月5日付けの新聞です。
別の詩も出てきました。「大地の詩」と題した農協の広告です。育樹祭前にシリーズで県内の人に執筆を依頼し、写真と共に掲載していたのでしょう。洲浜の詩と隠岐の竹川恵子さんの詩がでてきました。1990年2月19日付けの新聞です。

森林  緑の酸素工場            洲 浜 昌 三

空の海へ
軽やかに 緑の葉を浮かべ
樹々は 光の中に立っている
空の酸素工場は
音もなく 今日もフル回転

生まれたばかりの
さわやかな風が
樹間を 流れていく

大切なものは 目に見えない
せめて
このそよ風を浴び
空の葉擦れの音に
じっと耳を澄まそう

宇宙に 浮かんだ
この 青い 地球から
日本本土 に近い 森林が
毎年 消えていく という

このころはまだ、詩をこういう場でも大きく扱うという文化があったのでしょう。忘れていましたが、なつかしい再会です。
新聞の詩を少し変更しています。
(ブログ  詩の散歩道 詩作品紹介 20200601 洲浜)

R2, 短詩 野外劇「夕焼け」-五十猛の海ー

短詩 野外劇「夕焼け」ー五十猛の海ー  洲浜昌三

一日の終わりは
華やかな野外劇

無限に広がる空
広大な紺碧の海
海が奏でる水の調べ

壮大な舞台で演じられる
華やかな光の無言劇
「夕焼け」

音もなく
地球の舞台が回ると
舟の影は舟へ

黒い舞台の彼方に
無数の小さな星

この詩も以前、石田健作さんに頼まれ、仁万屋の、はがきのダイレクトメールに書いた詩ですが、少し手を加えています。短い言葉で端的に表現しようと思い、苦労しました。ちぎり絵は夕永清子さん作成による五十猛の港の夕焼けです。ちぎり絵は、独特の味があり詩情も湧いてきます。この五十猛の海の絵も、とてもよくできています。永遠にファイルで眠らせておくには、もったいない。
(ブログ 詩の散歩道 詩作品紹介 20200518 洲浜)

R2, 小学生にとって詩とは?「森をかけ抜ける」

現在、小中学校で、詩はどのように扱われているのでしょうか。二人の孫が低学年のとき、毎日のように「音読を聞いて」と言って教科書をぼくの前で音読しました。その中には必ず詩もありました。しかし、「詩をつくる」ということは、これまで一度もありません。多分、そういう時間や指導はないのかもしれません。学校や先生によって違うのかもしれません。次の詩は倉敷にいる4年生のgrandsonが学校で書いたものです。

森をかけぬける

がっさがっさ
とかけ抜ける
ダッシュだ
ダッシュだ
かけ抜ける
ちょとつもうしん
かけ抜ける
ビュンビュン
ビュンビュン
かけ抜ける
今ぼくは嵐になる

素晴らしい詩で驚きました。詩とは単なる言葉ではなく、空白の空間に絵と言葉で思いや感情を埋める作業なのです。リズム、テンポ、言葉の繰り返し、山から駆け下りて来るイノシシの勢い、急斜面の詩、空白・・・画面全体で表現しています。先生はどんな指導をされたのか知りたい。単なる言葉として詩を教えておられないのかもしれません。今の子供たちにとって、きっと絵と詩は一体なのかもしれません。

島根県文芸協会では毎年「しまね文芸」でジュニアーの詩を募集しています。一昨年、ある中学校から90篇の詩がきました。原稿用紙ではなく、A4の紙に自由に書かれていました。選考しながら感慨がありました。募集要項には「原稿用紙2枚以内」と規定してありましたが、そんな言葉は死語ではないか、と思ったのです。上記の詩を見たとき、そのことが立証された気がしました。昔ながらの詩の概念では、もう古いのです。以前、小学校で詩の講師をしたことがあります。昔通りの指導では、子供たちの新しい芽を殺すことになる可能性があります。
写真はgranddaughterが保育園で描いて、老人の日に贈ってくれたものです。豊ですね。あふれています。描かれた二人も若くて満面の笑顔。現実を豊かに反映しています(文学芸術は現実そのものの表現ではないー誰の言葉だ!)
(ブログ 詩の散歩道 詩作品紹介 子供の詩  20200510洲浜)

R2, 短詩「リラの花が咲くころ」

リラの花が咲くころ                洲 浜 昌 三

高校生のころ
ラジオで覚えた大好きな歌があった
「リラの花が咲くころ」

リラ リラ リラ リラ
なんという さわやかな響きなんだろう

村では 見たこともない花だったので
美しい姿だけが ふくらんだ

何十年もたって
英語ではライラック と知って
ますます美しい夢は ふくらんだ

ライラック ライラック ライラック
なんという きれいな響きなんだろう

ある時 ふとしたことで苗木が手に入り
庭に植えておいたら 初夏に花が咲いた

軽やかに風に浮んだ 薄紫の清楚な花房
ふと流れてくる さわやかで高貴な香り

どこまでも沈んで行く 悲しい日
リラは 美しい姿でそこに立っている
青春の日の あこがれの人のように

なぜ、リラを美しい花と思ったのか分かりませんが、歌った岡本敦夫の歌も好きでしたし、歌詞も印象に残ったからでしょう。今ではリラの花はあちこちで見ることができますが、ぼくの村では当時ありませんでした。だから空想が美しく膨らんだのでしょう。

リラ、という音は、ラ行の「ラリルレロ」で、舌を歯茎に当てて弾いて音を出す破裂音です。明快ではっきりしていて綺麗な澄んだ音に聞こえます。ライラックもそうです。「令和」にも通じます。そのことも影響していることでしょう。

生協から取り寄せ、庭に植えておいたら、どんどん大きくなり、ある日綺麗な花をつけました。思った通りの綺麗な花でした。
大きくなり過ぎて、少し枝を切り落としました。根が強いらしく芽があちこちから顔を出します。以前の詩に少し手を入れて紹介しています。自分の作品は、見るたびに不満が先立ち、手を入れたくなります。作品の一回性は尊重すべきなのに、だめですね。
(ブログ 詩の散歩道 詩作品紹介 20200503 洲浜)