R7,k今日は『思い出の記』(小泉節子)を読みます(3/27)

3月27日(木)の定例会では、ラフカデオ・ハーンの妻、小泉節の『思い出の記』をみんなで読みます。19時30分~21時、大田町並み交流センター3階です。前回『若草物語』の脚本を読むことになるかも、と言っていましたが、都合により変更します。「空」以外の人も参加歓迎です。電話があり、一人参加されるかもしれません。よろしく。

アイキャッチ画像がないとさびしいので、書棚の写真をパチリ!ハーンに関する本もたくさん見えます。

冒頭部分を紹介してみます。

「思い出の記」 小泉 節子
ヘルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。ついて間もなく会社との関係を絶ったのですから、遠い外国で便り少い独りぽっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。
伯耆の下市に泊って、その夜盆踊を見て大層面白かったと云いますから、米子から船で中海を通り松江の大橋の河岸につきましたのは八月の下旬でございます。その頃東京から岡山辺までは汽車がありましたが、それからさきは米子まで山また山で、泊る宿屋も実にあわれなものです。村から村で、松江に参りますと、いきなり綺麗な市街となりますので、旅人には皆眼のさめるように驚かれるのです。大橋の上に上ると東には土地の人の出雲冨士と申します伯耆の大山が、遥かに冨士山のような姿をして聳えて居ります。大橋川がゆるゆるその方向へ流れて参ります。西の方は湖水と天とぴったり溶けあって、静かな波の上に白帆が往来しています。小さい島があってそこには弁天様の祠があって松が五六本はえています。ヘルンには先ずこの景色が気に入ったろうと思われます。
松江の人口は四万程ございました。家康公の血を引いた直政という方が参られまして、その何代か後に不昧公と申す殿様がありましたが、そのために家中の好みが辺鄙に似合わず、風流になったと申します。(以下、約20ページあり)
(ブログ:劇研「空」 小泉八雲 小泉節子 20250327洲浜)

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