ー詩人 高塚かず子ー
水の詩人のふるさと、島根川本
洲 浜 昌 三
第44回H氏賞を受賞したとき、高塚かず子は「島根県生まれ」と報道された。しかしその名前は思い当たらなかった。
『島根の詩人たち』(田村のり子著、島根県詩人連合発行)を読むと次のように書いてあった。「川本生まれだが、幼いとき母方の地九州へ移った。祖父が川本で俳句誌『霧の海」を出していたような、文学の血があるようだ。」
(江川の対岸から川本町木路原を望む。右手に竜安寺川の川口がある。その上流の山裾には竜安寺がある。今は護岸工事のために昭和20年代の風景とはずいぶん異なる。木路原には三江線の駅がある。)
川本はぼくが生まれた旧田所村に近いし、川本高校には五年勤めていた。ある程度土地勘があり苗字で場所の見当がつく。しかし、「高塚」は聞いたことがない。川本に長く住んでいる人に聞いても、みな知らないと言う。「長崎出身」と書かずに、なぜ「島根県生まれ」と略歴に書いたのか。それが頭に引っかかっていた。
3ヶ月後の平成五年六月、『山陰詩人』(Ⅱ期50号)が高塚の詩「橋を渡る」を招待作品として載せ、「川本町生まれ、祖父は品川河秋」と紹介した。
川本生まれの友人に、品川河秋の名前をだしたら即座に「知ってるよ、河秋さんなら」と返ってきた。河秋は高塚の曾祖父で幼い高塚に大きな影響を与えた人であったが、江川の洪水で流されていた。
(竜安寺川の川口から川本の対岸を望む。昭和20年代にはコンクリートの道や橋はなかった。昭和47年7月の大洪水の時には一帯が水につかった。対岸の家などは軒下近くまで水が来た。この谷全部が荒れ狂う江川にになった。洪水のあと田所へ帰るために向こう岸の道を通ったが電柱のてっぺん近くまで水の跡があった。)
河秋(品川誠太郎)は30年ばかり大阪の鐘紡で働いて川本へ帰り、1934(昭和9)年、俳句誌『霧の海』を創刊した。広く会員を募り自ら選をし130人近い後援者を得て、地域を越えた月刊句誌を目指した。途中中断があったが50(昭和二十五)年末に復刊号を出した。県立図書館に十四冊だけ保存されている。
(『霧の海』の 後援者名です。参議院議員、町長、文学者などみな錚錚たる人物です。これをみても河秋さんが大きな力を入れて発展的な詩誌を考えていたことが伝わってきます。地域の名所や観光地などの発掘や紹介にも力注いでいたようです。)
高塚かず子(本名・御厨和子)は1946(昭和21)年2月6日、邑智郡川本町で生まれた。家のそばを龍安寺川が流れ約七十㍍下ると水量豊かな大河、江川へ注ぐ。茶室や書斎もある大きな家だった。「今でも川と水の記憶がある」という。
3才のとき税務職員だった父と母が離婚し、母の故郷、長崎県五島有川町へ移った。母は長崎で働き高塚は祖母のもとで海に囲まれた離島で暮らした。「江戸時代末期のようなくらしでした」と書いている。
河秋は毎日のように絵手紙を書いて送り、和子も返事を書いた。
『霧の海』復刊三号には、和子が五歳の時書いた俳句が載っている。「うめのはなきれいなきれいなさいている」。河秋も詠んだ。「かな文字の曾孫の便り島は秋」。
小学校入学時には、お祝いに谷崎源氏全巻が届いた。分からないことが多かったが一生懸命読んだという。「何でも本物でなければだめ」と河秋は徹底していた。
十三歳のとき長崎市へ移ったが、毎日が祭りのような都会の喧噪に馴染めなかった。そんなとき書店で吉原幸子の詩に出会って震えたという。翌年東大生・樺美智子が安保闘争で死亡した日から詩を書きはじめた。県立長崎西高時代にも詩を書き長崎放送でも放送された。十九歳の秋には詩集『存在以前』を出版した。活水女子短大英文科を卒業、文学の夢を抱いて友人と上京し、吉原幸子の家に家事手伝いとして寄寓していたこともある。しかし東京では挫折を味わい二年で長崎へ帰った。
(長崎新聞で紹介された全面記事です。高塚さんは校歌も作詞しておられます)
長崎へ帰郷後は俳句をやっていたが、1983(昭和58)年、新川和江や吉原幸子が『現代詩ラ・メール』を創刊すると会員になって蘇ったように詩を書きはじめた。1992年に第九回「現代詩ラ・メール新人賞」、二年後に詩集『生きる水』で「H氏賞」を受賞した。個人詩誌『海』を年二回発行。2006年から四年間長崎県教育委員会委員も勤めた。詩集は『天の水』、2011年に出た『水の旅』がある。
高塚の一連の詩に通底しているのは、「私」を無にして万物に共感し生の根源に触れようとする瑞々しさであり、過去から未来へ流れる水のように豊かな響きである。江川の川べりへよく行って遊んだという幼児体験や海に囲まれた五島での生活などが自然に影響しているかも知れない。
文学に恵まれた家系であった。河秋の妻は京都出身で琵琶の師匠。祖母トミは俳号を柳雅園と称した。母カヨは晩年詩を書き叔母の榮子と共著で『生きる』を出した。
河秋は一九五四(昭和二十九)年七月五日夕方、川本から自宅のある木路原へ孫娘と帰る途中、豪雨で崩れた土砂に呑まれ江川へ押し流された。高塚は詩「橋を渡る」を書いている。
「歩道橋を渡っている/制服の高校生が 走って追い越していく/その姿に祖父が重なる/ほろ酔いで吊り橋を渡っている祖父の後ろ姿/嵐の日に橋ごと川に流されて海まで/屍はあがらなかった//ザラ紙の俳句誌と短冊だけを残したひと/ー凩や山を鳴らして海に入る 河秋/おじいちゃん 今振り向かないで 呼ばない//揺れる橋 立ちすくむ つかまるものがない/空気が酸のように細胞に沁みてくる」(以下四連略)
父・哲夫は休職して二ヶ月遺体を探した。十八歳の河秋の孫娘の遺体は発見されたが、河秋は見つからなかった。葬儀で俳句仲間であった川本法隆寺の岩 義香老師は吟じた。「江川に吹かれ落ちけり合歓の花」。そこはネムの木が繁り咲く場所だった。
(島根県で長崎物産展が開かれたのは初めてのことです。まるで河秋さんが仕組まれたかのような気がした。高塚さんを待っている間に遠くからその姿をパチリ!)
2011年春、松江で初の長崎物産展が開かれた。ガラス職人の夫に代わって高塚かず子が来た。一度はお会いしたいと思っていたが、長崎まで行くのは大変だと思っていた。だからこのことは実にタイミングがいい機会となった。松江へ出かけていろいろ聞くことができた。
最初に聞いたのは、「なぜ島根県生まれといつも書いたのですか」ということだった。思いがけない言葉が返ってきた。「父が気がついてくれるだろうと思って」。彼女の父は松江で七十歳まで税理士を務めていた。
その夜、八十七歳になった父と久しぶりにゆっくり話したという。
(文中の敬称は省略。 山陰中央新報連載の「人物しまね文学館」に加筆)
山陰中央新報に掲載されたものを紹介しておきます。連載された一連の人物評は5月初旬頃本になって刊行される計画が進んでします。楽しみにしていてください。希望する人は連絡してください。入手してお送りします。何冊でも。
あれれれれ、今日は2月6日!またまた偶然のであい!!
拝読しました。このように素敵な誕生日の贈り物をいただいたのは、
はじめてです。ありがとうございました。
こちらも雪がちらついております。
お風邪など召しませんように。
不思議ですね。2月6日をねらって投稿したわけではありません。投稿した文面を読み直していましたら、誕生日が2月6日!!確認のために机上のカレンダーを見たら2月6日!なんで、なんで??
2月10日、いつもの「ちょこっと農法」で畑に出ていたら近所の友人が手伝ってくれました。「こんど五島へ釣りにいく」と言うものですから、びっくり!「長崎の五島は詩人の高塚さんが育ったところなのでどんなところかよく見てきてや」「五島のどこかな」「有川町」「ええ?有川町へ行くんでな。」「高塚さんはそこで江戸時代末期のような暮らしをした、と書いておられたけど」「人口は5万人くらいの町だでな」「ええ?じゃ大田より大きいんだ」
ぼくが抱いていたイメージは打ち砕かれました。大田周辺も釣りの絶好場所ですが、五島はそれどころじゃないそうです。
これもまた不思議な話でした。長く生きていれば無関係だった無数の糸があちこちで交差するんですね。その糸の中には死者の糸(意図?)も混ざり込んでいるのかも知れません。
本当にありがたい不思議な糸を感じております。おかげさまで。
有川町のなかでも、私が育った場所は太田郷という小さな集落です。5月末には島根の松江と大田市に伺いたいと思い、今日程調整中です。よろしくお願い致します。
楽しみです。
この度は、中四国詩人賞御受賞おめでとうございます。高塚さんを追って、このサイトにたどり着きました。私の『あんぱん』も紹介していただき、ありがとうございました。中四国詩人会の広島での総会でお会いしましょう。
珍しいお客様が来ておられて、驚きました。大歓迎です。なんで高塚さんを追っかけて、この遠方まで来られたのか、いつかお聞かせください。昨年の中四国詩人会には、行事が重なって出席できませんでしたが、受賞、おめでとうございます。広島で9月28日に、お会いできるのを楽しみにしています。