娘たちの「銀山巻き上げ節」
ー石見銀山考ー
洲浜昌三
石見銀山で働いていた女性に会いに行こう
と誘われ 八十を超える老女を訪ねたのは四十年前だった
娘のころ永久鉱山で働いていたという
地下三百メートルの立坑の座元から
若い娘たちが四人で
鉱石が入った重いバケットをロープで巻き上げた
手を休めることができない重労働だったが
歌を歌いながら力を合わせて引き上げたという
「歌ってくれませんか」というと
小柄で気さくな老女はニッコリ笑って歌ってくれた
仙の山からよー 谷底みればよー
捲いた まーたぁ 捲いたの アーヨイショ
アー声がするよ アーシッチョイ シッチョイ
明るい娘のような声に乗り 歌は伸びやかに流れた
全身を使う厳しい労働なのに
どこか華のあるゆったりとした労働歌
三十五番のよー 座元の水はよー
大岡 まーたぁ 様でも アーヨイショ
アー裁きゃせぬよ アーシッチョイ シッチョイ
首には豆絞りの白い手ぬぐい
絣筒袖(かすりつつそで)の着物に 赤い腰巻き
足には脚絆と藁(わら)の足半(あしなか)
巻き上げは若い娘たちの仕事だった
元の歌にはこんな歌詞もあったという
三十五は番よー この世の地獄よー
行かす まーたぁ 父さんは アーヨイショ
アー鬼か蛇かよー アー シッチョイ シッチョイ
過酷な労働だったから
伸びやかで美しいメロディが生まれたのかもしれない
昭和十八年の大洪水で再開発中の夢も砕かれ
六百年つづいた石見銀山の歴史が終わり
労働者で賑わった仁摩の街もさびれていったという
昭和47年頃のことです。銀山で働いていた女性がおられるから話しを聞きにいこう、と誘われたのは。社会科の宮脇英世先生でした。テープレコーダーを持参して話しを聞きました。貴重な話しがたくさんありました。歌も録音しました。その頃は銀はあまり取れずに銅が中心でした。永久鉱山は仁摩町側にあります。仁摩の町は労働者で賑やかだったそうです。18年の洪水は石見地方を襲い大被害をもたらしましたが、仁摩でも死者が多数でる被害がありました。鉱山の被害も大きく、この時を堺に閉山されたのです。
この歌がいつ頃から歌われていたかははっきりしません。歌詞の中に「35番の座元の水はよ-」とありますが、35番の坑道は明治の30年ごろにできたようです。江戸時代から歌われていたという資料でも出てくれば大発見!です。知っている人はいませんかね。