平成23年1月21日、旧島根県立博物館の文化国際化分室で、第32回島根県文学館推進協議会が開かれました。出席者は10名でしたが、「続・島根文学館」の山陰中央新報連載について、また県議会での福田議員の文化行政に関する質問と知事の答弁内容について報告があり、話し会いました。その席で島根の文芸5分野の活動の歴史を書いて新聞に掲載してもらうことを提案し承認されました。
「人物しまね文学館」は人物中心の点です。線(歴史)としての文学者の位置づけが必要で、当然取り上げられるべき人物が出てこないという問題(執筆等の関係者)を幾分でも解消するためにも歴史的な活動を示す必要があります。すでに5分野の文学運動が山陰中央新報に掲載されました。紙幅が限られていて要点を箇条書きしたような評論になったのはやむを得ないことですが、調べたい人の参考になればと考え、整理の意味も兼ねて紹介します。
島根県の文学運動 詩(上)
大正末に第一次黄金時代 〈洲浜昌三〉
島根で発行された詩の同人誌にスポットを当て、県内の詩の歩みを概観してみたい。
日本の近代詩は、それまでの漢詩から新体詩と呼ばれる文語定型詩ではじまった。明治15年に出た西洋の訳詩集『新体詩抄』を源流とし、森鴎外を中心にした訳詩集『於母影』で成熟し、藤村の『若菜集』(明治30)で新体詩は完成したといわれる。更に白秋、露風の文語自由詩を経て、大正の口語自由詩へと発展していった。島根では中央に少し遅れて大正末期から昭和初期にかけて、多くの同人詩誌が誕生し黄金時代を迎えた。プロレタリア作家への弾圧が激化する昭和6,7年以降は創刊も減り、昭和15年から敗戦にかけては詩誌の誕生はなかった。
田村のり子著『出雲石見地方詩史50年』では、島根で最初の詩誌は、大正7年出雲今市で旧制杵築中学の日野よしゆき、錦織秀二、岸野生花らが創刊した『草原』だろうと推定している。彼らはその後文芸誌『森の中』や『塑像』を創刊した。
古くから短歌が盛んだった大社では大正10年に錦織天秋、上野一郎など多くの文学青年が集まり郷土草社(後に山陰詩人社と改名)を結成し、『ふるさと』『水明』(後に『日本海詩人』、廃刊後は文芸誌『出雲』)を創刊して活発な活動をした。安部宙之介や温泉津の木嶋俊太郎も『水明』の同人だった。
大社にいて島根詩壇に長期にわたり大きな影響を与えたのは安部宙之介であった。後に日本詩人クラブ会長にもなった安部は、昭和4年から15年まで旧制大社中学で教え、『木犀』『森』『詩・研究』を発行した。多くの詩人が励まされ、教え子が詩誌を興し活躍した。大谷従二、音羽融、中沢四郎らは詩誌『なぎさ』、桑原文二郎『白い花』、中塚博夫『山陰詩人』(現行の詩誌とは同名異誌)、松田勇は戦後に『詩文学』『山陰詩人』を創刊した。安部夫人も昭和4年に『あけみ』(後に『女人文化』)を中心になって創刊した。
松江では大正9年に金沢芳雄、山部茂の詩誌『ひよどり』が誕生した。1号雑誌だったがそれを母体に青壺詩社が結成され雑誌『青壺』を発行し活発に活動した。解散後の大正13年、松江詩話会が生まれ『松江詩人』を発行、4年間華々しい活動をした。長谷川芳夫、坂本精一、貴谷昌市、佐々木春城など優れた詩人や詩論家が揃っていた。栗間久、宍道達なども途中で参加した。昭和3年に島根師範学校へ赴任した木島俊太郎は『十字架』などの詩誌を発行し校友会誌『阿羅波比』に詩を書き吉儀幸吉、音羽融など多くの学生に影響を与えた。昭和3年に旧制松江高校で森脇善夫を中心に結成された淞高詩話会も活発に活動し多くの文学者や詩人を輩出した。布野謙爾、花森安治、田所太郎、宍道達、藤原治、宗寂照、田村清三郎、山本清、小原幹雄など多士済々である。
石見では大正11年、大国小学校の松村勇が月刊誌『心閃』を創刊、粕淵へ転任してからは『詩巡礼』を発行した。大田には山田竹哉などの『群像』、温泉津では木嶋俊太郎や渡利節男らの文芸誌『赤裸』もあった。昭和5年には中島雷太郎や中島資喜らが静窟社を結成して『静窟』を創刊(後に『山陰詩脈』と改名)した。時は日本が軍国主義を強めていった頃で昭和9年に警察からの不当な介入もあったが5年間で49輯は長命であった。同人だった和田快五郎は『島根詩人』を創刊し7輯まで発行した。
出雲の知井宮では昭和10年に野尻維三男、山本善二、木村富士夫などが『幌馬車』を創刊。岡より子を選者に迎え多数の会員を擁して3年間活発に活動した。その他に安来では大正11年に佐々木春城などの『曼荼羅』が4号まで発行され、大東では大正13年ごろ土谷幸助らが発行した『炎上』があった。当時の山陰新聞、松陽新聞は入選した詩を競って掲載した。これは若い詩人を刺激し詩の大衆化に大きな役割を果たした。 ( 島根県詩人連合理事長 石見詩人同人 )
初めまして。
私は、《静窟詩社》創刊メンバー中島雷太郎の息子です。
父が遺した《径づれ》という作品があります。
ご紹介させて戴きたいのですが。
一瞬、夢ではないかと思いました。
いろいろ手をつくして探しても、とうとう手がかりがなくあきらめていた中島雷太郎さん!そのご子息とこんな場所で出会えるとは!
雷太郎さんは静間の和江の生まれですから、静間のことに詳しいカタラオさんに聞きましたが、名前しか知らないといわれました。同じ静間出身の郷土史研究家、コバヤシさんに聞きました。わざわざ和江まで行って調べてくださいましたがだめでした。県の俳句協会会長ツキモリさんが和江の出身だと分かりましたので松江の会議の折に聞きました。ツキモリさんは和江へ帰ったとき近所の人たちに聞いて手紙をくださいました。その結果、雷太郎さんの家には以前から誰も住んでいなくて子供さんは東京の方へ住んでおられるらしい、という返事でした。
発行された同人誌「静窟」が家のどこかに残っていないかどうか知りたかったのです。残っていればとても貴重な文学資料です。そこに書かれていることから当時のことが直接わかります。
というような経過がありましたので、その雷太郎さんの息子さんが、このブログを読まれたなんて驚きです。
是非「径づれ」を紹介してください。その他のことでも是非教えてください。
月森さんは、多分和江の出身の方ですね?ご本人でなくても身内の方がそうでしょうね?
荊尾さんは静馬の方ですかね?
どちらも懐かしい姓です。
実は、今月の初めから、何故か本棚に眠っていた“径づれ”を引っ張り出して読み始め、誤字や文脈の乱れがあったので、私なりに校生しておりました処、昨年の秋に脳梗塞で倒れた母、つまり“径づれ”の共同著者である中島ミヨ子が今月の8日に逝去しまして、13日に和江で納骨と法事を済ませたばかりです。
私が校生しました“径づれ”に関しまして、雷太郎が復員した昭和24年まではほぼ完全に復刻しましたが、それ以降については理由があって省略しております。
メールを頂戴しましたので、そちらの方へ送らせて戴きます。
尚、和江の自宅には《静窟》自体は恐らく残ってはいないと思います。
今後共宜しくご指導お願い致します。
“径づれ”は、
資料添付で送っていただいた「径づれ」を拝読させていただきました。「静窟」のことや、当時の様子が具体的にかなり分かりました。満州からシベリヤへ抑留された時の子細や、日本へ帰られてからの様子、また親友だった中島資喜さんのことなど、直接関わった人の文章だけに歴史的な重みがあります。
「径づれ」には雷太郎さんと奥様の短歌がたくさん載っていますが、詩はありませんね。「山陰詩脈」は特集号が大田図書館に一冊ありました。雷太郎さんが中心になって編集されていますが、県下の有名な詩人や歌人なども寄稿されていて、装幀も立派な同人誌でした。
そのうち「山陰詩脈」や「静窟」を持っている人が現れるかもしれませんね。長い目で期待して待つことにします。
ご母堂様がご他界されたとか。ご冥福をお祈りいたします。
この「島根の文学運動 詩」は一般の人には面白くもない評論で、普通はそんなに読む人はいないはずですが、どういうわけかここ数週間、グラフを見ると読んでいる人が急増しています。中島廉信さんの投稿があったからでしょうか。
いつか雷太郎さんの「径づれ」で判明したことなどを参考にして大田の同人誌の歴史について書いておきたいと思っています。
唐突に失礼します。
もし人違いでしたらごめんなさい。
中島康信さんとは、今から二十数年前に東京の○医○和(現:日神○○○)にいらした中島さんでしょうか?
もしそうでしたら、ぜひ連絡をとりたいのですが?
私は、北海道 函館市の山田豊重 です。(もしそうなら、元部下です)
トヨさんか?!
淡路島のホテルにいたんじゃなかったのか?
でももう二〇年近く昔の話だよね?
懐かしい!
でもどうして、貴方がこのHPにいるの?
どうして函館にいるの?
私も色々あったけど、元々函館出身だったっけ?
奇遇も奇遇!なんてこったっ!
信じられないよ!
先日家内の実家の徳島に行く途中、(何時もそうするんだけど、高速を使わないで下の道で)洲本から南淡を通ったんだよ。
貴方が勤めてたホテルも見えた。
船井君はどうしてるのかな?
オカメ庵は?ナツコ屋は?
今でも憶えてるよ!
洲本の花火大会の夜、居酒屋で食べたイイダコの煮付け!
先日洲本を通った時、家内と想い出話をしたんだ。
本当に驚いた!
ここで貴方に遭えるなんて!
是非メール下さい。
中島様
サイト管理人の松本と申します。
イタズラの原因になってはいけませんので、山田様に転送後メールアドレス部分を削除させていただきました。
ご了承ください。
ありがとうございます。
“径づれ”は中島雷太郎、ミヨ子の短歌集という形で、製作されましたので、詩は余り挿入されていません。多少はありましたが。
尚、ご希望される方がおいででしたら、“径づれ~抜粋”を(勿論無料で)お分けしたいと考えております。
何か良い手段はありませんでしょうか?
洲浜昌三
なんとも不思議な出会いの場になりましたね。こんなこともあるんですね。びっくりしたり感激したり。役に立って幸せです。
「径づれ」ですが、ご厚意に甘えて調子に乗って書きますが、よかったら5冊送っていただけませんか。一冊は大田市立図書館、一冊は和江生まれの島根県俳句協会会長・月森遊子さん、郷土史家で詩人、静間生まれの小林俊二さん、一冊は島根県詩人連合理事長、洲浜くん。きっとびっくりして喜ばれることでしょう。
このたびは私の全く個人的で不躾なコメントにもかかわらず
ご理解・ご配慮いただき、本当にありがとうございました。
おかげさまで無事連絡がとれ、再会できそうです。
心より感謝・御礼申し上げます。
洲浜様
大変申し訳ありませんが、原本は親族、知人で各々一冊ずつ記念(遺品)として所有しているだけで、余分にはありません。
実は私も校正抜粋している間に、コーヒーを零してしまい、台無しになってしまいました。
一冊で宜しければ身内から借りて、お送りする事は出来るのですが、大切な遺品ですので、返本戴きたいのですが如何でしょうか?
或いは、コピーでお送りする事も出来ますが、如何でしょうか?
洲浜昌三
貴重な本だとは思いましたが、
そのような希少本とは知らず、たいへん失礼しました。
コピーをされるのは大変な手間と経費がかかりますので、
一冊送っていただけませんか、ぼくの方でコピーして
また返送します。
近々身内から送って貰う事になっております。
少々お待ち下さい。
入手次第お連絡します。
洲浜昌三
歌集「径づれ」、届きました。ありがとうございました。
早速コピーしてきましたので、返送します。
大田の短歌会にも入って活躍しておられたのですね。
「島根文芸」でも何度も入選されておられます。
ぼくも島根文芸には運営委員として長く関わっていますが、
短歌部門についてはほとんど詳細を知りませんでしたので、
中島ご夫妻のことはまったく知りませんでした。
ご夫妻の「自分史」のページ、戦争の渦中を生きて来られた
体験記が胸に迫ります。貴重な記録ですね。
ありがとうございます。
父母の遺した作品の数々と戦中戦後の生き様を、可能な限り沢山の方に知って戴ければ幸いです。
今後共宜しくお願い致します。
突然のメール、失礼いたします。
「新宿のチョーク」さんでしょうか?
他の方のコメントで、以前のお勤め先に「○医○和」とあったので、ひょっとしてチョークではないかと思い失礼ながらメールさせていただきました。
私は、今は連れ合いの姓を名乗っていますが、旧姓は「中根」といいます。
もしチョークであれば、今を去ること40年も前(私は高校生でしたが)に新宿の「サブマリン」とその後、やはり新宿は二丁目の「パンプキン」でいろいろお世話になりました!!
玲子も元気ですよ!
ほとんどあいませんが…、FaceBookで繋がっています。。
万が一人違いであったり、このメールが不都合であったりする場合には遠慮なく削除してください。
また、返信を下さるときにはメールでもかまいません。
FaceBookは本名でアカウント登録しているので、そちらでもOKです。
失礼いたしました。
東京都 八王子市 美山町 1778-3
田代 敏博
今朝メールを送ったけど、届いたかな?まさか中根くんとこんな場違いのサイトで出会うとは想いもよらなかったよ。ありがとう。
またまた洲浜さんに感謝です。
玲子さんも元気なのか!裕子さんやミィちゃんも連絡取り合ってるのかな?懐かしいな、蒲田駅から裕子さんのアパートまで歩いたよな。
今朝のメールにも書いたけど、息子が“尾上陽”っていう名前で京都や大阪のライブハウスに出てて、月に2、3度東京のライブハウスにも出てる。兄貴の息子が“世界の終わり”でター弾いてて、その関係かも知れないけどな。オヤジとしては嬉しい事だ。you tubeにもアップしてるから観てやってくれ。機会があったら是非会いたいな!元気でな!
何十年ぶりの再会、よかったですね。
それにしても固くて面白くもなくて読む人などいない「島根の文学運動 詩」の中の5文字からこんなに次々と発展していくなんて不思議ですね。
蒲田駅と聞いて、ふと大学生時代のアルバイトを思い出しました。新橋から証券新聞の包みをたくさん抱えて蒲田駅で下車し証券会社などへ持参していました。
八王子市は、石見銀山の初代奉行、大久保石見守長安が、原野に近い土地を開いて計画的につくった町です。先日、劇研「空」が長安の劇を邇摩高校で上演しましたので、これまた不思議な縁です。
中島さんの小説を楽しみにしています。 洲浜
ありがとうございます。
よろしかったら睡眠薬がわりに枕元にでも置いてやって下さい。
メールで送ります。
スマンね!
おかしなもの送ってしまって。
今度のは、ちゃんと読めるかな?↓
チョーク(って呼んでていいのかな?)も元気そうでなによりです。
まぁ、フェイスブックは煩わしいコトも多いよね!俺もやったり、やらなかったりでかなりテキトーなんだが。必然は感じないしね!
俺は、何と言う事であろうか神奈川県の公務員やってるよ!笑
もう20年も前に、応募資格の年齢制限ギリギリで試験を受けたら合格しちゃって。
公務員としては最下級だけど、こんな時代になると良かったんだろうなって思えるね。
去年家を建て替えたりしたから、もう辞められないけどね!
音楽は、やってる、と言うか楽器は触っているよ。
もう25年も前に、元「武蔵野タンポポ団」のシバっていうフォークシンガーとバンドやっててね、CDを一枚リリースした途端に著作権関係でクレームついて、CDは全品回収、廃棄。
かなりそうそうたるメンバーで作ったんだけどね。
総合プロデュースがドクトル梅津、ゲストのギターが鮎川誠、コーラスに「たま」の知久寿焼、ドラムにRCサクセションの新井田耕造とか…
シバとのユニットは3年くらいはやってたんだけどね、結局ポシャってその後は現代詩の朗読会にアドリブで音を付けたり、公務員になってからは商店街のお祭りで演ったりとか。
それももう15年もやってないな。
俺もそろそろ何かやらなきゃな、って思っているんだよ!
息子さんの「尾上陽」の世界はけっこう好きな世界だよ!
チョークが教えてくれなかったら、たぶん知ることは無いんだけどね。
チョークが物書きって、どういう系統かな?
ネットで読めるものはあるかな?
教えて貰えると有難いです。
またメールさせてもらいます!
管理者さま…
誠に申し訳ありません!
コメント欄に、このブログとは直接関係のない私信を書き込んでしまいました。
以後は、ここを使用せず本人同士のメールの交信と致しますので、お許し下さい。
失礼いたしました。
田代敏博
管理人 様
初めまして。
小松 円と申します。
40数年前、和江にて
短歌《径づれ》の著者であります中島雷太郎様 ミヨ子様に、ご子息のご縁でお目にかかり、お世話になったことがございます。
今年(2016年)初めに偶然「詩の散歩道 島根の文学運動 詩(上)」で、中島様ご夫妻の名前を目にし驚き、また懐かしく思いました。
実は、ご子息にお伝えしたいことがあり連絡させて頂きたいとずっと思っていました。
初対面の御方に、失礼なことと知りつつ、橋渡しをお願いしたいのですがよろしいでしょうか。
私のアドレスをお伝え下さり、空メールを送って下されば幸いです。
他の方法があれば教えて下さい。
先様が「私に心当たりが無い」とおっしゃれば、それまででございます。
色々悩み、迷った末、このような厚かましいお願いをする次第です。
どうぞお許し下さい。
よろしくお願い致します。
小松 様
中島康信様へ小松様のメールアドレスを送信しておきました。
それにしても、この「島根の文学運動 詩」は不思議な役割を果たしますね。堅苦しい島根の詩の歴史の中の四文字が、遠く離れている人たちの縁を結ぶ役をはたすとは!
数日前からこの「島根の文学運動 詩」を検索して読む人が急増していましたので、なんでだろう、と思っていました。日本詩人クラブが発行している「詩界」から、島根の詩について原稿依頼を受けていましたので、そのためかな?と思ったりしましたが、理由は不明です。
役に立てば幸せです。洲浜昌三
洲浜 昌三様
ありがとうございます。
厚かましいお願いをし、今になって恥ずかしく思っているところです。
「遠く離れている人たちの縁を結ぶ役をはたすとは!」と驚かれているようですが、洲浜様はじめ、こちらにかかわっている方々の暖かいお人柄ではありませんか。
難しいことは分かりませんが、”人の心”を大切に想っていらっしゃるからと推察致します。
ご親切、感謝致しますと共に、ご活躍お祈り申し上げます。
小松 円
洲浜 昌三様
お陰さまで、長年気に掛かっていたことを伝えられました。
ありがとうございます。
個人的なことで申し訳ありませんでした。 小松 円
州浜様
度々、旧友との架け橋をして戴き、ありがとうございます。
小松円様と連絡が取れました。私にとって奇跡のような、生涯忘れられない出来事となりました。
本当に心から感謝しております。
州浜様のおっしゃる通り、“詩の散歩道”というHPで、旧友と再会できるのは、州浜様のお力もありますが、偶然州浜様のHPに父母の遺作を紹介させて戴いた事がご縁で、つまり父母のお陰ではないかと、感謝しております。
まるで私のメッセージコーナーのようになってしまって恐縮しておりますが、今後ともご指導をお願いいたします。