井上嘉明詩集『封じ込めの水』

鳥取の詩人・井上嘉明さんが第9詩集を出されたのは2009年11月でした。書評を頼まれて書きましたので紹介します。その前の詩集・『地軸に向かって』は中四国詩人賞を受賞しています。

   日常から思惟の世界へ 井上嘉明著 詩集『封じ込めの水』

好打者・イチローのように確実にヒットを打ち続ける詩人・井上嘉明の第九詩集である。中四国詩人賞を受賞した前回の詩集『地軸に向かって』以降五年間に書かれた作品の中から27編が収録されている。

現代詩は言語中心主義の難解な修辞法に走り自ら孤立してきた。理解することが不可能な詩が幅をきかす中で、この詩人はあえて日常の言葉を大切にする。本来の意味で言葉を使う。それぞれの詩はささやかな日常の事象を入り口にして平明な描写で始まる。詩は詩人だけのものではなく、万人に開かれた文学だ、という詩人のポリシーがここには見える。高い敷居がないので読者は抵抗なく詩の中へ誘い込まれる。表現は無駄がなくしなやかで洗練され彫りが深い。絵画や短歌の素養も深いのか、一編の詩は明確な輪郭を持ち端正で古典的な姿で立っている。

何より井上詩の最大の魅力は読者が日常から予期せぬ思惟の世界へ連れ出されることだろう。存在と非存在、生と死の隙間を開けたり構図をずらしたりして三段跳びのような仕掛けで遠い抽象の世界へ読者を誘引する。

 「封じ込めの水」
まわりを塩水に囲まれた水
そこだけ ぽっかりと明るく
動かない
南極には冬になっても
摂氏二五度をくだらぬ水が
あるという
厚い氷が
夏の熱気を閉じ込めているのだ

わたしの内側にも
確かに塩水に包囲された水がある
それは母からもらったような気がするが
定かではない(五行略)

まわりの乾きが
攻めてくる日のあることを
わたしは知っている
砂漠を行く商人のように
最後の砦の水の封を
切る日のことを

誰かに もらうのを
あてにするのではなく
自分自身のための
末期の水を
さかずき一杯ほど
底に残して

ここでは紹介できないが、ユーモアのある詩や大きな視点から本質をつかもうとする詩などもあり、帰納的に思考しつつ同時に詩の楽しさと醍醐味を味わえる詩集である。

(日本詩人クラブ会員 洲浜昌三)

詩 樹齢45年アソカの樹

 

樹齢四十五年 アソカの樹 shouchan
「お元気ですか」
風のように自由自在になってしまわれたあなたへ
こんな言葉をかけるのはちょっと変ですね
でも 会議を終えてさっき別れてきたかのように
いつものあの慈眼と笑顔が今日もぼくの目の前にあるのです

秀陽先生 ー ああ それから それから 昭英先生 …
とうとうこの日がきました
この国は一体どうなっていくのでしょう

街でアソカのバスを見るたびに思い出します
「アソカという言葉は古代インドのサンスクリット語で
お釈迦様はルンビニー園のこの樹の下で誕生されました
中国ではその意味をとって漢字で無憂樹(むゆうじゆ)と書きます」
そう教えてくださったのは先生でしたね

まだ一度も見たこともないアソカの樹
あの時からこの樹はぼくの中で大きくなっていったのです

みどりの葉を空に広げ 香り高い美しい花をつけたアソカの樹ー
その下でぼくの二人の子も「光りの子」として育てられ
大勢の友達と「みんな優等生」となって巣立っていったのです
憂(うれ)いの無い空のように澄んだ目で
この樹は千人を越える「アソカの子」を見てきたのです

樹齢四五年に育ったアソカの樹
壮年期に入った大木アソカの樹
その下で明るい声が絶えなかった幼稚園

過去の思い出となり 未来の夢は語れなくなっても
先生
アソカの樹は大きくなっていきますよ
ぼくの心の中で
千を越える多くの人たちの心の中で

 

(文集アソカへ頼まれて書いたものです。秀陽先生は創立当時の園長先生でした。昭英先生は次の園長先生でしたが、若くして他界されました。触発されて「ミネコ先生の傘」という詩を書いていますが、いつかいつかと思っている内にいつか…。みんな素敵な人たちでした。お世話になったマイサンが大学を出て中国で十数年働きちょうど日本へ帰った時に閉園式が行われました。当時お世話になった先生方へ感謝の言葉を述べお礼の花束を渡しました。Shouchanは文集アソカには10数編詩を頼まれて書いています。素直に書いた詩ですから自分でよんでも心に響くものがあります。いつかまとめてお世話になった人たちに贈りたいものですね)

 

H23 『中四国詩集』第4集を刊行

2011年7月、『中四国詩集』第4集(2011版)を刊行しました。第一集は2002年に発行しています。3年に一度発行することになっています。4集では109篇の詩が載っています。

 作品を載せないと内容もわかりませんが、題と名前だけでも紹介しましょう。それぞれ存在感のある作品で個性的です。何を書いているのかわからないというような作品はほとんどありません。春の若葉や青葉、秋の紅葉などいっぺんに眺めるような豊かさが読後に残ります。

53ページの作品は岡山の一瀉千里さんの『土江こども神樂団(大田市)』という詩です。中四国詩人大会を三瓶で開きましたが、その時「土江こども神樂団」にお願いして石見神楽を舞ってもらいました。そのときのことが素材になっています。いつかどこかで紹介しましょう。

序「詩になにができるか」を紹介しておきます。東北大震災が3月11日に起こりましたが、この詩集はそれ以前に募集を締め切っていますので、大震災や福島原発事故を反映した作品はありません。序は大震災後に書いたものですが、言葉を失った状態でした。

この詩集は岡山市の和光出版から出版されています。編集長は岡山の蒼わたるさんん、編集委員は壺阪輝代さん、今井文世さんです。頒布価格は1500円。事務局は692-0014 安来市飯嶋町1842 山根方 川辺 真です。残部はまだありますのでどうぞ。主な図書館には寄贈しています。3年後に参加したい人はぜひ中四国詩人会へ加入してください。年会費3000円です。

2011年7月に岡山市で開かれた理事会のスナップです。今年の10月1日には四国の四万十市で大会が開かれます。

田所出身の作家・小笠原白也のこと(1)

小笠原白也は島根県邑智郡邑南町(合併前は瑞穂町)田所の生まれで、明治39年に大阪毎日新聞主催の懸賞小説で一等になり新聞に掲載されて本になると8版を重ねるベストセラーにもなり、劇や映画になり人気を博した作家です。しかし現在その名前を知っている人はほとんどいません。このままでは完全に過去の歴史に中に埋没してしまいます。

幸いなことに、山陰中央新報が続「人物しまね文学館」を平成22年10月1日から毎週金曜日に連載中です。今回、同じ田所生まれという縁もあり、白也を担当していろいろ調べました。郷土の人たちにとっては白也の小説や業績は文化的な宝ですが資料がほとんどありません。新たなことが分かれば最高です。白也を研究したという人、大阪の小学校校長時代のことを知っている人、大阪毎日新聞記者時代の記録、本や劇の台本を持っている人、白也の映画をみたという人、白也が書いた随筆等々、新たなことをぜひ知りたいものです。次の文章は「人物しまね文学館」に多少手を加えています。そのうちNO.2を書きます。ではNO.1です。

 (写真は田所公民館が復刻版を出したときに掲載されたものです。漢文や漢詩に通じ、毛筆は力強く普通の書道家の域を超えています。田所に「不老泉」という銘酒がありますが、その字は白也が書いたものです。)

小笠原白也 『嫁ヶ淵』で人気作家に                                        洲 浜 昌 三

邑南町井原に国の名勝に指定された断魚溪がある。両岸にそそり立つ断崖絶壁の谷底に清流が流れ、広い岩盤や奇岩、滝、淵など渓谷の景観は峻厳な山水画の世界である。
30代後半で大阪の小学校校長だった小笠原白也は、故郷の断魚溪を背景にして小説『嫁ヶ淵』を書き、大阪毎日新聞の懸賞小説で一等に入選、明治40年(1907)1月から3ヶ月間連載され評判を呼んだ。東京の金尾文淵堂から単行本になって出版されると重版を重ね、後編の執筆を依頼されると、これも好評で大正3年には8版に達した。
ちなみに、津和野出身の中村春雨(吉蔵)も明治34年に小説『無花果』で大阪毎日で一等になっている。当時は新聞社が競って小説家を社員に抱えた。連載小説が当たると新聞の部数も飛躍的に伸びたからである。

(上の写真は「嫁の飯銅」(よめのはんどう)飯銅というのは水などを蓄えておく大きなかめのことで、石見地方では井戸水などを汲んでその中に入れ台所の隅などに置いていた。淵をよく見ると表面はすべすべしていて深く、まさに飯銅の一部のように見える。「断魚溪はもともと魚切とよばれ、嫁ヶ淵は嫁の飯銅と呼ばれていた」と白也は山陰新聞の随筆に書いている。)

嫁ヶ淵はもと「嫁の飯銅」と呼ばれていた。「嫁のはんどう」では題として変なので「嫁ヶ淵」と白也は名付けた。正義感の強い主人公の矢上政八は妹の梨花と二人暮らし。大地主の井原猛夫は東京から子爵を招き梨花に接待させる。梨花は子を宿すはめになり嫁ヶ淵へ身を投げようとして助けられ京都で子爵の別邸に囲われる。村の指導者定吉の妻は井原の伏魔殿で同じ目にあい嫁ヶ淵へ身を投げる。定吉は小作人の暴動で井原を斬りつける。井原は矢上に財産を任すと言って息絶える。矢上は井原の娘・弓子と結婚。小作人との土地問題を解決していく。
この小説は各地で劇になり、明治43年には吉沢商店制作、昭和7年には新興キネマ制作で8巻の映画になった。
小笠原白也(本名は語咲)は明治6年6月10日、邑南町田所上、堂所谷の梅田屋に生まれた。小学校の代用教員をしていたが20歳ごろ志を立てて大阪へ出て関西法律学校(現関西大学)で学び、念願の教職についた。此花区上福島北に住み、啓発小学校などの校長を務めたが、小説入選を機縁に大阪毎日新聞へ入社、後に校正課長なども務めた。昭和10年(1935)62歳で退職すると顧問になり同社下請け会社の青年学校校長として新聞人育成に力を注いだ。
白也には10冊の本がある。『嫁ヶ淵』は田所公民館が昭和60年に復刻版を出しているが他の本は図書館にもない貴重本である。
『女教師』『見果てぬ夢』『妹』『三人の母』『此の一票』。以上は長編小説。
『此の一票』は長編小説。『三人の母』は明治45年に新聞に連載され帝国キネマの制作、曽根純三監督、歌川八重子主演で映画化。劇にもなり京都の明治座で『初時雨』と二本立てで上演、好評だったので延長して1ヶ月間公演された。(『嫁ヶ淵』は明治43年に吉沢商店が映画化、昭和7年には新興キネマが山路ふみ子主演で映画化。明治44年には『濡れ衣』が福宝堂の制作で映画になっている。)


『いそがぬ旅』『南朝山河の秋』は史跡を訪ねて綴った歴史随筆。『その夜』は次の三篇から成る。「僕等十人の兄妹」は各地で活躍する10人の兄妹が優しい母に来て欲しくて取り合うユーモラスな小説。故郷の地名や風景も出てきて実話を思わせる。「櫻姫」は時代劇脚本。「ハンザケ村」は鈍重不遜な山椒魚の姿を故郷の村人や父の実直な生き方に重ねてエールを送った文明論的な随筆。87歳で逝った父・語七郎への回想もある。
大正15年に『南朝時雨の跡』の近刊広告を出したが未刊に終わった。。昭和に入ってなぜ書かなかったのか。健康問題か。戦争に向かう時代との確執があったのか、文学的に行き詰まったのか。白也の著作は、山陰新聞へ寄稿した昭和15年の随筆「春窓閑話」しか確認できない。
当時の新聞連載小説は家庭小説と呼ばれ、『金色夜叉」のように女性の悲劇を描いて読者の感涙を誘い、ベストセラーになると映画や劇にもなって大衆に迎えられた。しかし自然主義やプロレタリア文学全盛時代になると通俗的で文学性がないと切って捨てられた。 感動的な力作を残し作家として名を成しながら、小笠原白也を知る人がほとんどいないのは、ここに原因の一つがある。雑誌や新聞での評論もなく、白也の時間は何十年も停止したままなのである。

(写真は旧瑞穂町が閉町記念として平成16年に発行した『みどりの山河を抱きしめて 環翠 写真で見るみずほの50年』より。白也の父は村のために大いに尽くした。とても歴史が好きで詳しかったらしく、白也はその影響を大いに受けている。父の記念碑ですが、白也の記念碑もほしいですね。その価値は十分ありますよ。)
白也は度々故郷へ帰った。昭和13年春には伯耆、出雲、石見の史跡を巡って帰郷し、婦人会や戸主会に頼まれて民家で百人を前に講話をしている。
石州軍が毛利軍に敗れたのは指揮者不在で団結力がなかったからだ、と得意な歴史をひもといて解説し、石州人特有の「負け嫌い」を越えて一致団結しないと村の発展はない、と語った。
昭和20年(1945)大阪で戦火にあい、敗戦間際に故郷の堂所谷へ帰ってきたが、翌年6月4日、73歳で帰らぬ人となった。
死に臨んで白也は所有していたすべての蔵書類を土に埋めさせて「文塚」を築かせたという。白也は何を示そうとしたのか。自己否定か。敗戦への悲憤か。占領政策への抗議か。日本の伝統文化喪失への落胆か。今になっては作品から推測するしかない。( 日本劇作家協会会員 )

田所の日高勝明さんは田所分校(今はない!)で一級下でした。高校時代から文化や文芸、演劇活動にも熱心で、町会議委員になっても文化芸術への理解が深く、今回の小笠原白也についても大いにバックアップされました。『嫁ヶ淵』の復刻版編集者の一人でもあります。田所のどこからか白也の本や、演じた台本などが出てこないかと彼も力を尽くしています。

次は、白也の著作物についてちょっと詳しく紹介してみます。

 山陰中央新報に掲載された紙面です。風景とし紹介しましたので字は読めません。読みたい人は購入して読むか図書館でどうぞ。

 

第10回中四国詩人会鳥取大会のことなど

2011年9月25日第10回中四国詩人会・鳥取大会が開かれました。大会の主な様子を紹介します。島根県詩人連合会報に載せたものに少し手を加えています。

(講師は大阪交野市在住の金堀則夫氏。地域を掘り起こす詩や文学活動にも意欲的に取り組んでおられます)

第10回中四国詩人会 鳥取大会のことなど     洲 浜 昌 三

10回大会は平成22年9月25日、鳥取市の白兎会館で開催されました。島根が事務局を受けて最初の大会です。現在約200人の会員を擁していますが、文書作成や発送など任務は重大です。島根の事務局長で奮闘中の川辺さんには中四国の事務局長としても孤軍奮闘してもらいました。
開催地の鳥取では、副会長の井上嘉明さんをはじめ13名の人たちに裏方として大会の成功を支えていただき感謝しています。参加者は約60名。懇親会参加者、約50名。翌日の見学ツアー、32名。ほぼ例年の参加者数ですから中央から離れた(?)日本海側で開く大会としては大成功です。鳥取も島根もこういう詩の会に参加できる詩人は十数名で、それ以上は望めないのが現状です。
第10回中四国詩人賞は高知の萱野笛子(本名・福嶋富士子)さんの詩集「五丁目電停 雨花」ふたば工房発行)に贈られました。萱野さんは1937年長野県生まれ、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、現代俳句協会会員。これは8冊目の詩集。


賞状の原文は山口の陶山選考委員長。大田市在住の書の達人に書いてもらうことに決め、お願いしました。しかしまったく予期していなかったのですが、3人の匠は丁重に辞退されました。その理由を聞いて納得しました。「賞状は人前に掲げられて永久に残るもの。形式もあり書くのがとても難しい」というのです。自分の無知を恥じながら4番目の達人を懸命に説得してやっと書いてもらいましたが、自分の安易さを再認識しました。詩集紹介を兼ねて、参考までに文面の中心を紹介します。

「あなたの詩集「五丁目電停 雨花」は場面が一点に絞られている上に表現の完成度が高く 強い印象を与えます 時間と空間を超え 現実と非現実とが微妙に混じり合った独特の世界に読む者を引き込み 深く考えさせ感じさせるこの詩集は選考委員会で高く評価されましたここに第十回~」
萱野さんに顛末の一部を冗談気味に話したら逆に感動の言葉が返ってきました。どの詩にも物語性があり読む者の心の中でイメージが自由に広がっていく魅力的な詩集です。
詩の朗読では鳥取から池澤真一さん、福田操恵さん、山口は秋吉康さん、広島は北村均さんの後任として理事になられた上田由美子さん、岡山ー田尻文子さん、香川ー大波一郎さん、徳島ー堀川豊平さん、愛媛ー柳原省三さん、高知ー大崎千明さん。そして島根は若手のホープ岩田英作さんの「千の晩夏」。島根の参加者4名を勇気付けてくれるいい詩でした。
講演は大阪交野市に在住の金堀則夫さんで、「わたしの<フォークロア>ー詩と郷土史かるたー」と題して話されました。金堀さんの意思的な情熱が滲み出てくる熱のある講演でした。住んでいる場所の地名や伝説、習俗などを徹底的に堀り下げていく重要性を具体的に自分の作品を例に語られました。「詩人は何かしないと地域と結びつかない」「中央こそ詩が根付いていない。地方にこそ詩の根がある」ー講演中の言葉ですが、印象に残りました。しかし金堀さんの詩は決して郷土詩ではなく、素材は郷土にあっても創作詩であることは明記しておかなければいけないでしょう。

懇親会では傘踊りや民謡が披露され、途中では山陰詩人の成田公一さんの名調「貝殻節」も飛び出し、準備された二次会も含め楽しい時間を過ごしました。

翌日はバスによる市内観光。鳥取城主池田家の墓所、万葉記念公園、鳥取城、歴史博物館、尾崎放哉の生家跡や墓、鳥取砂丘など歴史に造詣の深い手皮小四郎さんの感銘深い超名ガイド。小寺勇造さんや井上義明さんの親切な説明など実りの多いツアーでした。鳥取も大陸の文化の影響を受けている点では出雲と共通した香りがあるのを感じました。

たまたまぼくは「経家最後の手紙ー不言城の子供たちへー」という脚本を書いていました。秀吉の「喝え殺し作戦」で鳥取城が包囲され4千の城内の者が人肉まで食べる餓死寸前状態。城番の吉川経家は切腹して場内の者を助けましたが切腹直前にひらがなで大田市福光不言城の子供たちへ遺書を書きました。鳥取城や周辺のことを調べていましたので実に時期を得たツアーでした。
その日の夜には鳥取市から不言城見学のため三十数名の「鳥取吉川経家会」の人たちが大田へ来られ、夜は歓迎会が計画されていましたので、ツアーは途中で切り上げて大田へ帰りました。
11回大会は平成23年10月に高知県の四万十市で開催されます。四万十市在住の山本衛さんが引き受けてくださり、この大会で声高らかに力強い挨拶をされました。7月にお願いしたとき、「高知詩の会」の会長、小松弘愛さんは会としても全面的にバックアップすると言われ、懇親会の席では「高知独立論」を述べながら楽しいジョウクと温かい歓迎の言葉で宴を閉められました。
(付記)中四国詩人会ではいつでも会員を募集しています。また会員の方には理事をお願いする場合もあるかと思いますが、そのときにはよろしくお願いいたします。

高知四万十大会は平成23年10月1日(土)「新ロイヤルホテル四万十」で行われます。翌日は市内見学ですが幸徳秋水の墓地や上林暁文学碑、佐田沈下橋、トンボ公園、大江満雄詩碑などを見学します。講師は鈴木 漠氏で「連句裏面史から」と題して講演されます。参加費は千円です。誰でも参加できます。

詩 7歳までは神のうちー石見銀山考ー

  

      7歳までは神のうち ー石見銀山考ー  Shouchan

ブレーキを踏んで車を止めると

子供たちは目の前を小走りに横断して歩道に立ち

声をそろえて頭を下げる

「ありがとうございました」

 

いつも見慣れている風景だが

大阪や東京から来た三人は

感動して小学生たちの姿を見送っている

「あんな子どもが日本にはまだいてるんやね」

 

ふと ある講師の言葉が頭をかすめた

「七歳までは神のうち」

石見銀山にはそんなことわざが残っているという

 

受け売りを得意になって紹介すると

ミキさん夫妻が言葉を重ねる

「子どもは神のように大切に育てられたんやね」

「さすが出雲石見は神の国やわ」

 

「逆じゃないのかな」

後に座っていたケンさんがつぶやいた

 

会話が途切れ 新緑の林が後ろへ流れていく

「飢饉のときその言葉は救いになったんだよ

……神の国へ返すのだからさ」

ケンさんが再び低い声でつぶやいた

 

フロントガラスに日本海が広がる

短いトンネルを通過する

 

「……生まれた子を間引くときにさ」

 

 

詩 暗いとこ通って広野原

暗いとこ通って広野原              shouchan
三菱の重役のお屋敷でね
わたしも 三つ指をつき
あそばせ言葉で話しとったんよ

ぼくにはまったく記憶がないが
母が東京で女中奉公をしたとき
二歳のぼくも連れて行ったという

いまはやまなか いまははま
いまはてっきょう わたるぞと

煙を上げて東海道線を走る汽車の中で
流れてくる風景に合わせて母は歌ったという

おもうまもなく とんねるの
やみをとおって ひろのはら

真っ暗闇の世界へ突入する度に歌い
光が満ちあふれる広い緑の世界へ出る度に
「ほら ひろのはらよ」と言って歌ったのだろう

そのうちぼくは
「やみじゃない くらいところだ」といって譲らず
負けた母は
「くらいとことおってひろのはら]                                  と変えて歌ったという

ベッドのそばに寝ころんで                                     遠い世界の童話を聞いているように
老いた母の言葉に耳を傾ける

何もかも溶けて遠くなっていく日
小石のように光る頑固さがなつかしい

閤田真太郎詩集「十三番目の男」を読んで

2010年1月、石見詩人同人の閤田さんが詩集「十三番目の男」を砂子屋書房から出版されました。浜田市久代町の海辺で農業を営みながら詩を書いてこられました。これは第6詩集になります。

これまでの詩集を表紙で紹介しましょう。『博物誌』は詩画集で池田一憲さんが独特の濃密な絵を描いてる個性的な詩集です。

次の文章は「石見詩人」125号へ書いた感想文です。

詩集『十三番目の男』を読んで 洲浜昌三
「1月21日にこの詩集を流し読みしたとき、次のようにメモしている。
「言葉が引きずっている存在の重さを感じた。言葉がつり下げているものの重さ」
5月22日に再読したあとで、次のようにメモしている。
「とてもいい詩が多い。大自然の土と格闘して生きてきた重厚な生が哀感とともに伝わって来る。その土着的で人間臭い泥臭さと同時に、高い志や知性、知識欲が作品の端々に感じられ、その知性を支えるエネルギーが熱となって伝わってくる。後者が作者の本質だったのかもしれない、とふと思った。
作者の父は戦後の経済的に苦しい時代の中で開拓農民という道を選んだ。朝鮮から引きあげると、作者は長男として父親と生を共にせざるをえなかった。もし学問の道を許されていたら高い知性の成果を残したかもしれない。しかし実際は過酷な開拓農民という現実の中でそれを飼い殺し状態にしなければならなかった。
この詩集を読み終わったとき、かけ離れた両極から生まれた作品が、ぼくの思考や想像を地から天まで運んでくれる楽しさを味わった。ユーモアがいままでになくあちこちで顔を出し、自虐的に斜に構えた姿勢が見えたり、孤独な横顔や空虚感、哀感が漂う作品が多いのも印象に残った。」
6月の15日頃から数日かけて丁寧に読んだときには次のようなメモを書いている。
「理には理で読むので詩の世界が狭くなる。知識や理屈で一つの詩の世界を創ろうとすると、その中に不合理な論理や偏狭な知識、作者の思い込みが入っていれば読者はつまずいたり反発したり自己葛藤が生じる。詩は論理や理を越えたところに生まれる世界。論理的に知識を積み上げてもそこに到達していなければ論文やエッセイで書いた方が説得力が生まれる。インタービュー形式や会話形式で書かれた詩の質問は応答者が予期し期待している範疇の作者合意のなれ合い質問。ペダンティックな詩に対するてらいや斜に構えた自虐敵発想から出てきた言葉が多く詩の緊張感や品位を下げているかもしれない。」
3回も読むと違った角度で読むからだろうか。これが同じ詩集に対する感想か、と我ながら疑いたくなるが、すべて「十三番目の男」に対する感想である。どこに比重を置いたて書いたかの違いに過ぎない。
四回目に読めばもっと掘り下げて詩とは何かという観点から書くかもしれない。

(石見詩人の合評会で撮影。右は、くりす さほさん。つい最近詩集『いつか また』を浜田の石見文芸懇話会から出版されました。感性豊かな詩がたくさん載っています。そのうち紹介しましょう。)
この詩集はⅠ、Ⅱ、Ⅲと三部に別れていて、ⅠとⅢは身辺の素材から生まれた詩が中心であり、共感できる詩がたくさんある。特に大きな存在だった作者の父、同じ月に2人の命を見送った母親と奥様を素材にした詩は胸を打たれる。
Ⅱは詩集の表題になった「十三番目の男」(続・又を含め同じ題の散文詩三作品がある)を中心に構成されている。ここを中心に読むとどうしても理屈や理論で対抗したくなるし、作者の意図や理解を問いただしたくなることに度々出会う。
作者はこのⅡを中心にして詩集の顔にした。なるほどと納得する点はあるが、一冊の詩集をつくるとき、どういう詩を載せるか、どうゆう配列にするか、どうゆうタイトルをつけて顔にするか、という点でもいろいろ考えさせられた。

『十三番目の男』というタイトルはダイナマイトのように強烈である。映画か本にあったような気もする。十三階段とも結びつく。何が書いてあるのだろう、という興味もそそる。その点では「やるもんだな」と感心する。しかし詩集を読み終わったとき、「十三番目の男」しか印象に残らない。ⅠとⅢのとてもナイーブなすばらしい詩が吹っ飛んでしまう。これはぼくだけの現象かもしれない。十三番目のような縄文時代から現代までの長い土地の歴史を論文調の散文詩で中心に据えるなら、そういう系統の詩で一冊を仕上げないと他の詩が可愛そうだ。他の詩がいいだけに余計そう思った。」

この詩集は平成22年に第21回富田砕花賞を、永井ますみさんの『愛のかたち』とともに受賞しました。上の写真は受賞式後の写真です。合評会のとき閤田さんが持参されたDVDをテレビに映してみんなで鑑賞しましたが、そのテレビの画面をカメラに写したました。古い古いテレビでしたので目が粗く顔は分かる人にしか分かりません。ちなみに永井さんは神戸市在住ですが米子の出身です。閤田さん、永井さん受賞おめでとうございます。

閤田さんは昭和9年生まれ、日本現代詩人会、中四国詩人会、島根県詩人連合(理事)、裏日本ポエムの会に所属。詩集は2500円、砂子屋書房か著者へどうぞ。〒697ー0004 浜田市久代町1655

 

詩 リラの花咲くころ

リラの花咲くころ 洲 浜 昌 三

高校生だったころ
ラジオで覚えた大好きな歌があった
「リラの花咲くころ」

リラ リラ リラ
なんというさわやかな響きなんだろう

ぼくの村にはどこにもなかったので
どんな花なのか見当がつかなかったが
花開いた美しい姿がふくらんでいった

リラはライラックともいう と知ったのは
何十年もたってからだった

ライラック ライラック ライラック
なんというきれいな響きなんだろう

何十年もたったある日
ふとしたことでその苗木が手に入った
関西以西では育たないと聞いたが
家の前に植えておいたら初夏に花が咲いた

あたりに漂う高貴な香り
品のある薄紫の豊かな花房
庭に浮かんだ華やかでつつましい白い雲

どこまでも沈んで行く悲しい日
青春の日のあこがれの少女のように
リラは軒下ですっくりと立っている

H21 9/26 中四国詩人会・大田三瓶大会終わる

2009年9月26日、中四国詩人会の大会を大田市の三瓶で開催しました。文章は島根県詩人連合の会報に書いたものです。下の写真は大田市の長久あたりから見た厳冬の三瓶山です。

中四国詩人会 島根大田大会を終えて 洲 浜 昌 三

第9会大会は大田市三瓶町のさんべ荘で9月26日(土)開催し、無事に終了しました。
会員が多い山陽側とは遠く、交通も不便なため、どれくらいの参加者があるか心配でしたが、大会には約60名、石見銀山観光は36人の参加者がありました。これは想定した数の上限で、参加者に心からお礼を申し上げたいと思います。下限だったら二度と顔を出せない事態になっていたでしょう。
島根からは宿泊が5名、大会のみの参加者が9名。いろいろな面でバックアップして大会を支えていただきました。岡山からは22名。大会成功の大きな力でした。
事前に講師の麻生直子さんのエッセイを山陰中央新報の文化欄へ掲載してもらいましたが、それを読んで浜田から参加された人がありその熱意に感銘を受けました。
総会では予算・決算、事業報告・計画の説明を受け原案通り承認されました。

(山口のスヤマユージ会長から中四国詩人賞を受ける岡山の沖長ルミコさん)

第9回中四国詩人賞は倉敷市の沖長ルミコさんの詩集「吹き上げ坂を上がると」に授与、選考委員長の北村均さんから選考経過が発表され、沖長さんの受賞の言葉、詩の朗読がありました。沖長さんは日本現代詩人会、日本詩人クラブ、詩人会議、岡山詩人協会会員。同人誌「道標」「どぅるかまら」「飛揚」所属。この詩集は、平明な日常語で書かれていますが、何気ない言葉の背後に、時代や社会と誠実に対峙して生きて来られたこの詩人の知性や感性が静かに息づいていています。

 

中四国詩人会特別功労賞が総社市の井奥行彦さんに贈られました。井奥さんは岡山の詩の重鎮で全国的にも活躍されていますが、中四国詩人会の初代会長、その後の顧問、『中四国詩人集第一集』の編集長など、その多大な貢献に会員が謝意を示したものです。
恒例の詩の朗読では次の人たちが自作詩を朗読しました。井上嘉明、重光はるみ、長谷川和美、森崎昭生、川野圭子、小野静枝、柳原省三、洲浜昌三。

(自作詩「家康っさんの綿入れはんてんー石見銀山考ー」を朗読したあと、翌日見学することになる徳川家康から安原備中が贈られた胴服について解説するスハマ。世界遺産センターに展示してあるのは模造品ですが、清水寺にあった本物(重要文化財)を着て大森小学校の児童が学芸会をしたという話を散文詩にしたものです。石見銀山考はいつか詩集にまとめてみたらおもしろそうです)

講演は麻生直子さん。「風土から生まれる言葉」と題して話されました。麻生さんは北海道の奧尻島の生まれ、現在は東京で活躍中。中央志向の均質化された詩ではなく、自分の足下を掘り起こして詩を作る大切さを数々の例から話されました。その例として閤田真太郎さんと長津功三良さんがその場で指名を受け自作詩を朗読。共に力のある詩でした。
講師の自由闊達な話しも佳境に入ったところでしたが、何しろ分刻みの超過密時程。麻生さんは思いを残しながら話しを閉められ、副会長・小野静枝さんの「根っこのある詩を大切にしたい」というお礼の言葉で講演は終了しました。
次回10回大会は鳥取の白兎会館で9月25日に開催したい、と副会長の井上嘉明さんから報告されました。

懇親会では土江こども神楽団の石見神楽を観賞。食事をしながら40分の予定が、食事をせず60分。係としては腹が「苦り」ましたが、初めて石見神楽を見る人がほとんどで、賞賛の言葉もいただき、腹のにがりも少し収まりました。
空と山と谷しかない三瓶で二次会を期待するのは常識外れですが、事前探査で唯一の場所を見つけ、懇親会の後でその志学へマイクロバスで出かけました。広くて素敵なパブでした。人前では絶対に歌わないという詩人のプロ並みの歌など聞けて至福の時を過ごしました。

翌日は希望者で石見銀山へ。世界遺産センターで展示を見て、徒歩約6キロコース、1キロコースに分かれてガイドさん(河村夫妻)の案内で見学。地元で生まれ戦前の大森もよく知っている人なので貴重な話しを聞くことができました。あんな山の中にも家が重なって建っていたとは!一軒一軒みな覚えておられるのですから国宝級です。
バスがないので岩田さんには駅まで車で迎えに行ってもらいました。短時間に殺到する各種の受付を狭い場所で田村さんと高田節子さんにはテキパキと裁いていただきました。連絡ミスで欠席扱いだった人が来られたり、名前から男性と判断して男部屋に割り振っていたり、数々のミスを川辺さんには臨機応変に処理してもらいました。
不便で手が加わっただけ、人間の温もりのある大会になったかもしれません。