小笠原白也は島根県邑智郡邑南町(合併前は瑞穂町)田所の生まれで、明治39年に大阪毎日新聞主催の懸賞小説で一等になり新聞に掲載されて本になると8版を重ねるベストセラーにもなり、劇や映画になり人気を博した作家です。しかし現在その名前を知っている人はほとんどいません。このままでは完全に過去の歴史に中に埋没してしまいます。
幸いなことに、山陰中央新報が続「人物しまね文学館」を平成22年10月1日から毎週金曜日に連載中です。今回、同じ田所生まれという縁もあり、白也を担当していろいろ調べました。郷土の人たちにとっては白也の小説や業績は文化的な宝ですが資料がほとんどありません。新たなことが分かれば最高です。白也を研究したという人、大阪の小学校校長時代のことを知っている人、大阪毎日新聞記者時代の記録、本や劇の台本を持っている人、白也の映画をみたという人、白也が書いた随筆等々、新たなことをぜひ知りたいものです。次の文章は「人物しまね文学館」に多少手を加えています。そのうちNO.2を書きます。ではNO.1です。
(写真は田所公民館が復刻版を出したときに掲載されたものです。漢文や漢詩に通じ、毛筆は力強く普通の書道家の域を超えています。田所に「不老泉」という銘酒がありますが、その字は白也が書いたものです。)
小笠原白也 『嫁ヶ淵』で人気作家に 洲 浜 昌 三
邑南町井原に国の名勝に指定された断魚溪がある。両岸にそそり立つ断崖絶壁の谷底に清流が流れ、広い岩盤や奇岩、滝、淵など渓谷の景観は峻厳な山水画の世界である。
30代後半で大阪の小学校校長だった小笠原白也は、故郷の断魚溪を背景にして小説『嫁ヶ淵』を書き、大阪毎日新聞の懸賞小説で一等に入選、明治40年(1907)1月から3ヶ月間連載され評判を呼んだ。東京の金尾文淵堂から単行本になって出版されると重版を重ね、後編の執筆を依頼されると、これも好評で大正3年には8版に達した。
ちなみに、津和野出身の中村春雨(吉蔵)も明治34年に小説『無花果』で大阪毎日で一等になっている。当時は新聞社が競って小説家を社員に抱えた。連載小説が当たると新聞の部数も飛躍的に伸びたからである。
(上の写真は「嫁の飯銅」(よめのはんどう)飯銅というのは水などを蓄えておく大きなかめのことで、石見地方では井戸水などを汲んでその中に入れ台所の隅などに置いていた。淵をよく見ると表面はすべすべしていて深く、まさに飯銅の一部のように見える。「断魚溪はもともと魚切とよばれ、嫁ヶ淵は嫁の飯銅と呼ばれていた」と白也は山陰新聞の随筆に書いている。)
嫁ヶ淵はもと「嫁の飯銅」と呼ばれていた。「嫁のはんどう」では題として変なので「嫁ヶ淵」と白也は名付けた。正義感の強い主人公の矢上政八は妹の梨花と二人暮らし。大地主の井原猛夫は東京から子爵を招き梨花に接待させる。梨花は子を宿すはめになり嫁ヶ淵へ身を投げようとして助けられ京都で子爵の別邸に囲われる。村の指導者定吉の妻は井原の伏魔殿で同じ目にあい嫁ヶ淵へ身を投げる。定吉は小作人の暴動で井原を斬りつける。井原は矢上に財産を任すと言って息絶える。矢上は井原の娘・弓子と結婚。小作人との土地問題を解決していく。
この小説は各地で劇になり、明治43年には吉沢商店制作、昭和7年には新興キネマ制作で8巻の映画になった。
小笠原白也(本名は語咲)は明治6年6月10日、邑南町田所上、堂所谷の梅田屋に生まれた。小学校の代用教員をしていたが20歳ごろ志を立てて大阪へ出て関西法律学校(現関西大学)で学び、念願の教職についた。此花区上福島北に住み、啓発小学校などの校長を務めたが、小説入選を機縁に大阪毎日新聞へ入社、後に校正課長なども務めた。昭和10年(1935)62歳で退職すると顧問になり同社下請け会社の青年学校校長として新聞人育成に力を注いだ。
白也には10冊の本がある。『嫁ヶ淵』は田所公民館が昭和60年に復刻版を出しているが他の本は図書館にもない貴重本である。
『女教師』『見果てぬ夢』『妹』『三人の母』『此の一票』。以上は長編小説。
『此の一票』は長編小説。『三人の母』は明治45年に新聞に連載され帝国キネマの制作、曽根純三監督、歌川八重子主演で映画化。劇にもなり京都の明治座で『初時雨』と二本立てで上演、好評だったので延長して1ヶ月間公演された。(『嫁ヶ淵』は明治43年に吉沢商店が映画化、昭和7年には新興キネマが山路ふみ子主演で映画化。明治44年には『濡れ衣』が福宝堂の制作で映画になっている。)
『いそがぬ旅』『南朝山河の秋』は史跡を訪ねて綴った歴史随筆。『その夜』は次の三篇から成る。「僕等十人の兄妹」は各地で活躍する10人の兄妹が優しい母に来て欲しくて取り合うユーモラスな小説。故郷の地名や風景も出てきて実話を思わせる。「櫻姫」は時代劇脚本。「ハンザケ村」は鈍重不遜な山椒魚の姿を故郷の村人や父の実直な生き方に重ねてエールを送った文明論的な随筆。87歳で逝った父・語七郎への回想もある。
大正15年に『南朝時雨の跡』の近刊広告を出したが未刊に終わった。。昭和に入ってなぜ書かなかったのか。健康問題か。戦争に向かう時代との確執があったのか、文学的に行き詰まったのか。白也の著作は、山陰新聞へ寄稿した昭和15年の随筆「春窓閑話」しか確認できない。
当時の新聞連載小説は家庭小説と呼ばれ、『金色夜叉」のように女性の悲劇を描いて読者の感涙を誘い、ベストセラーになると映画や劇にもなって大衆に迎えられた。しかし自然主義やプロレタリア文学全盛時代になると通俗的で文学性がないと切って捨てられた。 感動的な力作を残し作家として名を成しながら、小笠原白也を知る人がほとんどいないのは、ここに原因の一つがある。雑誌や新聞での評論もなく、白也の時間は何十年も停止したままなのである。
(写真は旧瑞穂町が閉町記念として平成16年に発行した『みどりの山河を抱きしめて 環翠 写真で見るみずほの50年』より。白也の父は村のために大いに尽くした。とても歴史が好きで詳しかったらしく、白也はその影響を大いに受けている。父の記念碑ですが、白也の記念碑もほしいですね。その価値は十分ありますよ。)
白也は度々故郷へ帰った。昭和13年春には伯耆、出雲、石見の史跡を巡って帰郷し、婦人会や戸主会に頼まれて民家で百人を前に講話をしている。
石州軍が毛利軍に敗れたのは指揮者不在で団結力がなかったからだ、と得意な歴史をひもといて解説し、石州人特有の「負け嫌い」を越えて一致団結しないと村の発展はない、と語った。
昭和20年(1945)大阪で戦火にあい、敗戦間際に故郷の堂所谷へ帰ってきたが、翌年6月4日、73歳で帰らぬ人となった。
死に臨んで白也は所有していたすべての蔵書類を土に埋めさせて「文塚」を築かせたという。白也は何を示そうとしたのか。自己否定か。敗戦への悲憤か。占領政策への抗議か。日本の伝統文化喪失への落胆か。今になっては作品から推測するしかない。( 日本劇作家協会会員 )
田所の日高勝明さんは田所分校(今はない!)で一級下でした。高校時代から文化や文芸、演劇活動にも熱心で、町会議委員になっても文化芸術への理解が深く、今回の小笠原白也についても大いにバックアップされました。『嫁ヶ淵』の復刻版編集者の一人でもあります。田所のどこからか白也の本や、演じた台本などが出てこないかと彼も力を尽くしています。
次は、白也の著作物についてちょっと詳しく紹介してみます。
山陰中央新報に掲載された紙面です。風景とし紹介しましたので字は読めません。読みたい人は購入して読むか図書館でどうぞ。