島根の文学運動 詩 (下)

(上)では大正から昭和19年までを紹介しましたが、つづいて戦後から現在までの同人誌活動を中心に紹介します。現在の同人誌や詩人連合などの活動状況についてはそのうち書く予定です。

(斐川町の高田正七氏が個人で出版した昭和40年版の島根年刊詩集。中身も和紙。高田氏は7冊個人で年刊詩集を発行した。その後は島根県詩人連合に受け継がれ最新版は平成22年版で39集になる)

島根の文学運動 詩(下)
戦後に短期黄金時代 ー〈洲浜昌三〉

島根の詩活動は、日本が戦争への道を進む中で衰退していった。1939(昭和14)年に吉儀幸吉、門脇真愛の『風土記』創刊があるだけで、翌年春安部宙之介が大社を去ると詩誌の火は消えた。国策宣伝普及が求められ、42年には30数名の詩人が集まり島根県翼賛詩人会を結成した。戦地へ行ったり、公田豊治郎のように詩才を戦場で散らした者もあった。

敗戦後は若い詩人たちが各地で動き始め、雨後の竹の子のように詩誌が誕生した。しかしなぜか6年以内に消え昭和30年代以降は3詩誌寡占時代になった。

敗戦の年の11月、早くも松江で詩誌『自由詩』が創刊された。20歳をでたばかりの帆村荘児と本庄稔民が中心で、岡より子、雲田謙吉、甲山まさるを客員に、一時会員が130人もいた。文化活動も活発におこなったが51年に30号を出して終わった。46年1月には石村禎久を中心に『詩祭』が誕生、市民を啓蒙する文化活動も展開し8月までに6号を出したが、石村は大田へ転勤、大田で『司祭』を2号まで出した。22年春には安食久雄が『ポエジー』、9月には三島秀夫が『人間詩』を創刊し5号まで出した。

出雲では大社中学で安部宙之介の薫陶を受けた松田勇を中心に『幌馬車』で活躍した野尻維三男たちが46年5月出雲文芸社を結成。安部と岡を顧問に『詩文学』を12号まで発行した。「荒涼とした郷土の街に文化の灯をともす」ことを掲げ、100人近い会員を擁し2年間エネルギッシュに文化活動も展開した。大東では48年大東高校職員中心に錦織芳夫、星野早苗、後藤正美らが『山脈』を創刊、栗間、中尾、甲山、宮田、吉儀、布野、細貝真紀子(後の別所)など多くの県内有力詩人も寄稿した。

大田では46年春、吾郷次頼、中井律郎らが『たんぽぽ』(後に『詩世紀』と改名)を創刊、大田高校の中尾清が指導的役割を果たし23号まで出した。市内の石村、和田雨星、石田暁生、松尾清や県内の甲山、三島、吉儀、岡、帆村、本庄なども詩を寄せた。

益田では敗戦の秋、20代の田原敏郎を中心に佐藤繁次なども参加して『鶯笛』を創刊した。同人の離郷で47年秋には廃刊になったが、印刷を頼まれてガリ版を切ったキムラフジオは54年に内海泰、中村幸夫などと『詩歴』を創刊し、55年末までつづいた。

56年1月キムラは岡崎澄衛、内海泰などと石見詩人社を設立し6月に『石見詩人』を出した。31号からは高田賴昌が編集者となり現在(126号)に至っている。同じ年に出雲では光年の会が誕生、20代の喜多行二、原宏一、田中瑩一らが7月に『光年』を発行し、現在は松江の坂口簾(田中瑩一)が編集を担当し138号になる。松江では61年11月松田勇と帆村荘児が往年の詩人へ呼びかけて木嶋俊太郎、安部宙之介を顧問に山陰詩人クラブを結成した。『山陰詩人』準備号を含め2号まで帆村が編集、13号まで岡より子( 松田、宮田隆、栂瀬大三郎が編集同人)、67年からは前年入会した田村のり子が編集を担当し現在(189号)に至っている。田村には6冊の優れた詩集があるが、73年に第6回日本詩クラブ賞を受賞した『出雲石見地方詩史50年』は評価が高い著作で、著者の慧眼と共に批評や記録も重視してきた執筆方針の成果である。

昭和40年代には出雲の琴川輝正らの文芸誌『清流』、隠岐では小室賢治、斉藤弘、河野智恵子らの『潮鳴』、島大生・伊藤里子らの詩誌『擬態』、浜田では石見文芸懇話会が結成され文芸誌『山椒魚』を7号まで発行した。また個人詩誌では高田正七が『二十五年』を151号まで出し、帆村荘児は『貝』(後に『典』)を32号、キムラは『雑木林』を120号まで発行した。個人誌では肥後敏雄が『狼派同盟』をこの春60号を出した。

現在の島根の詩誌の詳細や島根県詩人連合の活動などについては後日に譲りたい。         参考文献 田村のり子著『出雲石見地方詩史50年』、同『島根の詩人たち』、島根県詩人連合刊『島根年刊詩集』各号、『石見詩人』『山陰詩人』『光年』『二十五年』など。  (島根県詩人連合理事長 石見詩人同人)

  (田村のり子著、島根県詩人連合発行の『しまねの詩人たち』島根県文化ファンドの助成と詩人連合連合の積み立て金で発行しました。手元に残部が数冊あり。頒価1200円。希望があればお送りします。)

島根の文学運動 詩 (上)

平成23年1月21日、旧島根県立博物館の文化国際化分室で、第32回島根県文学館推進協議会が開かれました。出席者は10名でしたが、「続・島根文学館」の山陰中央新報連載について、また県議会での福田議員の文化行政に関する質問と知事の答弁内容について報告があり、話し会いました。その席で島根の文芸5分野の活動の歴史を書いて新聞に掲載してもらうことを提案し承認されました。

「人物しまね文学館」は人物中心の点です。線(歴史)としての文学者の位置づけが必要で、当然取り上げられるべき人物が出てこないという問題(執筆等の関係者)を幾分でも解消するためにも歴史的な活動を示す必要があります。すでに5分野の文学運動が山陰中央新報に掲載されました。紙幅が限られていて要点を箇条書きしたような評論になったのはやむを得ないことですが、調べたい人の参考になればと考え、整理の意味も兼ねて紹介します。

島根県の文学運動 詩(上)
大正末に第一次黄金時代 〈洲浜昌三〉

島根で発行された詩の同人誌にスポットを当て、県内の詩の歩みを概観してみたい。

日本の近代詩は、それまでの漢詩から新体詩と呼ばれる文語定型詩ではじまった。明治15年に出た西洋の訳詩集『新体詩抄』を源流とし、森鴎外を中心にした訳詩集『於母影』で成熟し、藤村の『若菜集』(明治30)で新体詩は完成したといわれる。更に白秋、露風の文語自由詩を経て、大正の口語自由詩へと発展していった。島根では中央に少し遅れて大正末期から昭和初期にかけて、多くの同人詩誌が誕生し黄金時代を迎えた。プロレタリア作家への弾圧が激化する昭和6,7年以降は創刊も減り、昭和15年から敗戦にかけては詩誌の誕生はなかった。

田村のり子著『出雲石見地方詩史50年』では、島根で最初の詩誌は、大正7年出雲今市で旧制杵築中学の日野よしゆき、錦織秀二、岸野生花らが創刊した『草原』だろうと推定している。彼らはその後文芸誌『森の中』や『塑像』を創刊した。

古くから短歌が盛んだった大社では大正10年に錦織天秋、上野一郎など多くの文学青年が集まり郷土草社(後に山陰詩人社と改名)を結成し、『ふるさと』『水明』(後に『日本海詩人』、廃刊後は文芸誌『出雲』)を創刊して活発な活動をした。安部宙之介や温泉津の木嶋俊太郎も『水明』の同人だった。

大社にいて島根詩壇に長期にわたり大きな影響を与えたのは安部宙之介であった。後に日本詩人クラブ会長にもなった安部は、昭和4年から15年まで旧制大社中学で教え、『木犀』『森』『詩・研究』を発行した。多くの詩人が励まされ、教え子が詩誌を興し活躍した。大谷従二、音羽融、中沢四郎らは詩誌『なぎさ』、桑原文二郎『白い花』、中塚博夫『山陰詩人』(現行の詩誌とは同名異誌)、松田勇は戦後に『詩文学』『山陰詩人』を創刊した。安部夫人も昭和4年に『あけみ』(後に『女人文化』)を中心になって創刊した。

松江では大正9年に金沢芳雄、山部茂の詩誌『ひよどり』が誕生した。1号雑誌だったがそれを母体に青壺詩社が結成され雑誌『青壺』を発行し活発に活動した。解散後の大正13年、松江詩話会が生まれ『松江詩人』を発行、4年間華々しい活動をした。長谷川芳夫、坂本精一、貴谷昌市、佐々木春城など優れた詩人や詩論家が揃っていた。栗間久、宍道達なども途中で参加した。昭和3年に島根師範学校へ赴任した木島俊太郎は『十字架』などの詩誌を発行し校友会誌『阿羅波比』に詩を書き吉儀幸吉、音羽融など多くの学生に影響を与えた。昭和3年に旧制松江高校で森脇善夫を中心に結成された淞高詩話会も活発に活動し多くの文学者や詩人を輩出した。布野謙爾、花森安治、田所太郎、宍道達、藤原治、宗寂照、田村清三郎、山本清、小原幹雄など多士済々である。

石見では大正11年、大国小学校の松村勇が月刊誌『心閃』を創刊、粕淵へ転任してからは『詩巡礼』を発行した。大田には山田竹哉などの『群像』、温泉津では木嶋俊太郎や渡利節男らの文芸誌『赤裸』もあった。昭和5年には中島雷太郎や中島資喜らが静窟社を結成して『静窟』を創刊(後に『山陰詩脈』と改名)した。時は日本が軍国主義を強めていった頃で昭和9年に警察からの不当な介入もあったが5年間で49輯は長命であった。同人だった和田快五郎は『島根詩人』を創刊し7輯まで発行した。

出雲の知井宮では昭和10年に野尻維三男、山本善二、木村富士夫などが『幌馬車』を創刊。岡より子を選者に迎え多数の会員を擁して3年間活発に活動した。その他に安来では大正11年に佐々木春城などの『曼荼羅』が4号まで発行され、大東では大正13年ごろ土谷幸助らが発行した『炎上』があった。当時の山陰新聞、松陽新聞は入選した詩を競って掲載した。これは若い詩人を刺激し詩の大衆化に大きな役割を果たした。          ( 島根県詩人連合理事長 石見詩人同人 )

 

詩 桜前線みちのく北上

   桜前線みちのく北上

人々の嘆きみちみつるみちのくを
心してゆけ桜前線 ※

沖縄から九州へ渡りぼくらの街を通って
北上して行った桜前線は
心してみちのくの街や村を通ってくれただろうか

長い冬が終わり木の芽がふくらみはじめる早春
いつものように派手な姿で陽気に
卒業式や入学式を祝って
はしゃいで通りはしなかっただろうか

街や村が一瞬にして消え
人の姿もなく
広大な廃墟に
瓦礫だけが山裾までつづいている

荒涼とした風景は
原爆が投下され焼け野原となった
広島と重なる

何万という人たちの最後の言葉や叫びを
一つ一つしっかりと受け止めただろうか

つらい中でも慎ましい笑顔を忘れず
心の底に涙を貯めていく人たち

痛恨の涙をはらはらと流し
その清楚な姿で陸奥の人たちを励ましながら
桜前線は北へ向かっただろうか
※ 短歌は長谷川櫂『震災歌集』より

四万十大会成功裏に終了

2011年10月1日(土)四万十市の新ロイヤルホテルで第11回中四国詩人会が開かれ、会員は約50名、講演時には80名近い参加があり成功裏に終了しました。田中四万十市長も来られて歓迎の挨拶をしていただきました。 (上の写真は講師の鈴木漠先生を紹介する高知の小松弘愛さん。高知詩の会代表として事務局長の林嗣夫さん共々お世話になりました。)

 大会のプログラムを載せておきます。

 詩の朗読は地元の高知から山本衛さん、大森ちさとさん、香川の宮本光さん、徳島の宮田小夜子さん、岡山から山田朝子さん、摩耶甲介さん、広島の川野圭子さん、山口のスヤマユージさん、鳥取の井上嘉明さん、島根kらは唯一の参加者・洲浜昌三くんが『流人のように草を抜く』を朗読しました。それぞれの詩は事務局長の川辺さんが冊子に編集し、当日参加者に配布しました。

 第11回中四国詩人賞は岡山県瀬戸内市在住の小野田 潮さんの詩集『いつの日か鳥の影のように』に贈られました。小野田さんは詩集を私家版としてつくられましたが、編集するときに先入観をもたれないように表紙は題字だけにしたことや、発表順ではなく一つの世界観が出てくるように整理し配列したと話され、2編の詩を朗読されました。詩と同様に謙虚なジェントルマンだというのがぼくの印象です。

 講演は鈴木漠先生。前夜の歓迎会から一緒だったのですが、知的エネルギーの固まりで実に博学な人です。広い知識だけではなくその深さは徹底しています。講演の内容は多岐にわたるので紹介はここではできませんが、中国の漢武帝や李賀など、日本では古事記や万葉集からはじまる連句の歴史や時代の中で占めた働きなど資料を基にして熱心に話されました。明智光秀が信長を討つ前の天正10年5月25日に愛宕山の威徳院で開いた連歌会は、人という字を伏せるということで読まれました。光秀は「ときは今天が下しる五月哉」と読みました。伏せられた「人」を表に出すと、「天下人」となります。この席には当代随一の連歌師も参加していたという。彼らが光秀の句を秀吉側の武将に教えていたかもしれないーというのは証拠はありませんが可能性はありそうです。裏面史に通じ、想像力も抜群に豊かな鈴木先生でした。

 アトラクションでは高知の永野美智子さんが幸徳秋水の生涯を紙芝居にして語られました。また幸徳秋水の絶句などを2名の現地の方が朗詠、一條太鼓演奏では小学1年生から大人まで出演して力強い響きを奏でていただき四万十市の文化の一端に触れることができました。

 懇親会も楽しく過ごし、翌日は市内視察。まずホテルのすぐそばにある幸徳秋水の墓へ行き手を合わせて黙祷しました。どんなに無念だったか、そして家族や親族が如何に長い間偏見の中で国賊扱いをされてきたか、また中村市自身も負の遺産として背負ってきたかーそのことに胸が痛みました。しかし今は、自由、平等、博愛を説いた秋水は、平成12年12月、中村市議会で「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で承認、公に秋水を表にだして顕彰しPRしています。ある時代には罪人とされた人間が時代が変われば時代をリードする先駆的な思想家になるのです。時代こそ罪人です。実に不合理です。今生きて両面を知ることができるぼくらは幸せかも知れません。

 汽車の都合で秋水の墓へ参った後に1人で市内を歩き9時過ぎの汽車に乗って帰ったのでこの後の市内観光には参加できませんでした。山本衛さんはじめ高知のみなさん、お世話になりました。

くりす さほ 詩集『いつか また』

2011年6月、浜田市のくりすさほさんが詩集を出されました。『いつか また』は100ページの詩集で31編の詩が載っています。どの作品も平易で難解な言葉はありませんが、若々しい感性にあふれ、省略された空間が大きいので単純に分かりやすい詩とは言えません。「感じる」ことがたくさんある魅力的な詩がたくさんあります。詩に感心がない人で楽しめる詩集です。

 タイトルにもなっている冒頭の詩「いつか また」を紹介します。

いつか また

一読すると女学生が書いたかとも思われるような詩です。しかしよく読むと感性だけではない深いものが感じられます。「風は/誘っていない」とか「いつか また…」には引き戻されます。風が誘っていないのに花びらは落ちるのです。普通の「いつか また」には夢や希望があります。特に若い人なら未来に開かれた言葉です。くりすさんは高齢な方です。「いつか また」の「いつか」はどの時点をイメージしてつくられたのでしょう。そう思えば、不安や恐怖も滲み出てきます。長い人生と経験の末にサクラを見ているのです。女学生の感性で書かれていることも不思議な魅力ですが、どこかにさらっと人生の深い谷を見た目が生きて来ます。それが立ち止まらせ考えさせます。

くりすさんは石見詩人の同人で島根県詩人連合会員です。この詩集は第一詩集。何かの時の贈り物として送ったらきっと喜ばれると思います。希望があれば取り寄せてお送りします。

ではもう一編紹介します。

詩集は石見文芸懇話会から発行されています。浜田市黒川町251-12 山城様方です。印刷は弘文印刷(0855-22-3171 浜田市片庭町254-6)。

「石見詩人」は11月ごろ127号を発行しますが、この詩集の感想特集を載せます。

島根の現代詩の状況

日本詩人クラブが発行している雑誌『詩学』の編集部から依頼されて平成16年に島根県の現代詩の状況を書きました。整理のため、そして何かの役に立つこともあるかもしれないと考え紹介します。   

 

地域別現代詩の状況
           島 根 県
洲 浜 昌 三
島根県は東西に長い。山口県境にある西の津和野から鳥取県境にある安来市まで約200キロ。汽車で4時間はかかる。
島根県民歌の中に、「九十万の県民の…」とあるが、これは昭和30年代のことで、いまは75万余、65歳以上の老年人口比率は26%で全国一。代表的な過疎県である。貧しい暮らしの中で子供を立派に教育して都会へ送り出し、自ら疲弊していく人材供給県である。
中国山脈を背にして、日本海沿いに伸びるこの細長い県は地理的文化的に、出雲、石見、隠岐と三つに分けられる。

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文芸フェスタで作家・阿刀田高氏講演

2011/09/18、松江で島根県民文化祭・「文芸フェスタ2011」が開催されました。前日本ペンクラブ会長の阿刀田高さんが「神話と文学~古事記とギリシャ神話」と題して講演されました。とてもスケールの大きなそして示唆に富む話で感銘を受けました。

 1時間半に渡る講演は見事に構成された世界観で成り立っていますので簡単に概要を書くのは困難ですが、2,3断片を紹介してみます。

古代ギリシャ文明は現代にも通じる素晴らしい文明である。それは人間中心、自由を基本にしていたからだ。ギリシャ神話も豊かなストーリーを持っていて一級品である。それは古代ギリシャが多神教だったので神話も豊かなストリー性が生まれたのである。日本の神話も多神教から生まれた神話である。ギリシャ生まれのラフカディオ・ハーンが日本に興味を持ったのもその点にあった。

神話はどうして生まれたか(物語はどうして生まれたか)。人はどこから来てどこへ行くのか。この疑問を常に抱えている。いとしい人が死んだとき、その人に生きていて欲しかったと願うとき、その人の伝記を書いたり、生きていたらこんなこともしただろう、などと想像力を生かして物語をつくる。そこから物語が生まれたという説もある。

神話には権力者の正当性を訴えるためにできたものが多い。古事記や日本書紀などもそう側面が強い。しかしその中で出雲神話にはストリー性があり豊かさがある。これはギリシャ神話と同じ多神教だからだ。多くの神々が登場し神話特有の寓意性をもっているので、現代にも通じるものがある。出雲神話がもっとたくさん収録されていたら、ギリシャ神話と同様に一級品となっただろう。

小説『闇彦』はギリシャ神話のゼウス、ポセイドン、ハデスが、陸、海、闇(死)の世界を支配したように、コノハナサクヤの三人の子(ホデリ、ホスセリ、ホオリ)→山彦、海彦、闇(死)が世界を支配することを想像して書いた。日本神話には3人の子供が出てくるが、3番目の子のことがほとんど書かれていないので、ギリシャ神話との共通性を考え闇の世界を支配する神として想像した。「死は物語の世界」でもある。

こんな挿話も印象に残りました。「小説を書くのは剣道の試合に似ている。剣道は相手の呼吸を読みながら打ち込む。作家は読者の呼吸を計りながら書く」。

とても刺激になる話しで充実した時間でした。阿刀田さんは良く通る落ち着いた声で淡々と語られるのですが、小説と同じで観客の呼吸を計りながら語られるのでしょう最後まで引きつけられて聞きました。聴衆は約400人くらいでしたが、こんなチャンスは滅多にないのでもったいない気がしました。

17日の夜は「サンラポーむらくも」で歓迎会がありました。早稲田の仏文科出身ということで、昭和30年代の早稲田大学の話しなどをしました。なつかしい人にもたくさん会い、貴重な話しも聞きました。俳句のツキモリさんが大田出身なので、タカキさんとサンニンで和江出身のツキモリサンがやっておられるサンサンへ行きました。

18日の午後は詩の分科会で、自作詩の朗読をしてお互いに感想を述べ合い充実した時間を過ごしました。川辺、閤田、柳楽、栗栖、錦織、田村、有原、肥後さん、それに4人の方、久しぶりに原さん、後半には高橋さんも来られました。みなさまおつかれさまでした。

吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む

2011,3,9倉敷市の詩人吉田博子さんが『聖火を翳して』(せいかをかざして)をコールサック社から出版されました。第11詩集になります。依頼があって『COALSACK』70号へ詩集評を書きました。紹介します。

吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む
自己凝視から弱者への優しい眼差し
洲 浜 昌 三
詩集を手にした時、しばらく表紙に見入った。質素だがどこか華さと豊かさがある。長方形の枠の中の絵は幼児が描いたように素朴で素人っぽいが色彩豊かで鮮やかだ。計算や技巧のない大らかさが、現代が失った豊かさを語っている。
詩を読み終わって改めて表紙を眺めていると、新たな角度から作品の底流が見えてくるような気がした。
この詩集は三つの章から成る。Ⅰ章、Ⅱ章は詩、第Ⅲ章は絵画で、40数ページにわたり作者の絵と9枚の「たっくん」(作者の孫)の絵が載っている。


作者は日常生活で触れ合う自然や人、風物などを素材にして読者を詩の世界へ誘っていく。虚構や技法や高度な抽象で表現しようとはしない。思いや洞察を素直に記述していく。言葉は抵抗なく読者の心に入っていく。しかし作者の感慨の域を越えない場合は何も触発しない場合もある。詩には、素材に言葉が埋没せず、それをジャンプ台にして飛翔していくものが必要である。
ここ10年くらいの間に吉田さんの詩集は『詩選集150篇』を含め5冊読ませてもらった。第8詩集の『立つ』から『咲かせたい』『いのち』そして今回の詩画集である。それらの詩集には共通した基盤がある。それは「自己への執拗な視線」、「背負わされた自責」、「痛点の敏感さ」であり、同時に「姿勢の低さ」、「弱者への優しい眼差しと思いやり」である。その強さや深さは普通の何倍もあるのではないかと想像する。そこから生まれてくる痛みや怒り葛藤などのマグマに自ら傷を負いながら、内蔵し、凝視し、詩という文学の世界へ昇華させてきた。
今回の詩集にも執拗な自己凝視や痛切な自責、非合理への怒りがある。


「嵐の海は愛のかたみを流す以外になかったわたしを/激しく包んで抱きしめてくれた」(「あの夜の港」)「業の深いわたしという女/片方の手を/空のむこうへ伸ばしてみても/つかめない希望/そんな欲深い心に/夜の灯台の灯は/静かに心のドアをトントンとたたくのだ/じっと自らを見つめてごらん、と」(灯台)「時が わたしの積みあげた愛が/溺愛でしかないことを知る」(「疲れた耳に届く声」)「わたしは死ぬまで/美しい心はもてない/そう思う/いつも心がけてはいても/たちはだかる業に身動きできぬ程/摑まれている」(「愛しい左半身」)
同時に今回の詩集では大自然や生命への慈しみの気持や感謝から生まれた詩も多い。落ち葉の視点や死の視点、死後の未来からの視点、更に普遍的な時間認識から生まれた詩が多いのも特徴である。
「娘や孫が愛しんだ命が/わたしの内の野原に/ろうそくの灯をともす/一つ二つ三つ/でも決してゆるがない愛する芯を/聖火のように翳して」(表題の詩)「愛することは/生きる時間を芯から共有すること/生まれる 逝くこと/それは永遠に紡ぎ続けること」(「自らを織る」)「まんまるの月がぽっかりと/空にうかんでいて/思わず手をあわせる/命を守っていただいている/なぜか知らぬまに心がうるむ」(「はてなの木」)
高機能自閉症だという「たっくん」の絵は、仏さまや魚などの色や形の自由さが魅力的。また4頭の虎の絵は、虎の内面がよく表情に出ていて楽しい。
「おばあちゃんは遠くへ行ってしまっても、いつまでもたっくんといっしょだよ」という思いを作者の吉田さんは具体的な形にして残したかったのだろう。

コールサック社は東京都板橋区板橋2-63-4 (03-5944-3258)この詩集は2千円です。吉田さんは詩画展「折り折りの想い 希い」を2011年10月8日~16日まで開かれます。10時~17時まで。場所はいかしの舎(岡山県都窪郡早島町早島1466)見に行ってください。感じるものがたくさんあると思います。

小寺雄造詩集『説法』

鳥取市の詩人・小寺雄造さんが第13詩集『説法』を出版されたのは平成22年でした。島根県詩人連合会報に「最近読んだ詩集から」という欄があり、事務局から依頼されて感想を書きました。その後小寺さんは平成23年1月に和光出版から中四国詩人文庫7として「小寺雄造詩集」を出版されました。小寺さんは同人誌『菱』の発行者です。『菱』は昭和43年(1968)に創刊され2010年10月には171号をだしている伝統のある詩誌です。

最近読んだ詩集から
小寺雄造詩集『説法』

洲 浜 昌 三
積み重ねた本を数えると、昨年の晩秋から新年までに読んだ詩集は三十冊くらいになる。
それぞれの詩集のタイトルを眺めると作者の心的風景や文学への姿勢や思想が雰囲気となって立ち上がってくる。半年たっても作者の精神風景がはっきり浮かんでくる詩集もあるし、中には何も浮かんでこない詩集もある。ぼくの記憶力の問題もあるが、その詩とぼくの趣向や思想、好みとの共振性の強弱の問題もあるだろう。
印象に残る詩集は多いが、その中で小寺さんの『説法』について感想を書いてみる。
小寺さんは1936年鳥取市の生まれ。今回の詩集は第十三詩集になる。随筆集も五冊ある。
多くの詩集の中から、『靴を脱ぐ』『挽木橋にて』とこの二月に出版された『説法』しか読んでいないが、どの詩集の作品も書く動機が深く明確で、思考や詩句が濃縮され個性的である。今回の詩集の作品二十一編も詩誌『菱』に掲載された作品が中心であるが、四、五年前に『菱』を読ませてもらっていた時の作品に出会うと、はっきり記憶が蘇ってきた。これは明らかに僕の記憶力ためではなく作品が持つ力だと断言できる。
冒頭の詩を紹介する。
ホタル
孵化して/成虫となったホタルは/死滅するまで/水しか/飲まない//カワニナの甲羅に/覆いかぶさって/食い殺し尽くした/ゴムのようにグロテスクな幼虫は/いま 宿業の痛みに耐えながら/ひたすら清浄な水を求めて/明滅している が/明滅しているの/はホタルではない/あれは/カワニナの精霊だ/宿るカワニナの精を/己れの虚体を通して/放っているのだ/放たねば/空に浮くことが/出来ないのだ/あらゆる食を絶ち/葉先のわずかな露をすすり/闇のなかに/腫らした贖罪の眼を/見開いている/己が性を御しかねて/露滴のような涙を/ひとしれず放りながら
典型的な隠喩法で書かれていて、表現に無駄がなく的確で、作者の深い哲学や思考が丸薬のように言葉に凝縮されている。奥行きはとても深いが難解ではなく、力量に応じて理解し納得できる。見えない思想や思いをカワニナやホタルなどの具体で象徴し、視覚的にも鮮やかに記憶に刻まれる。
人生を求めて小説や詩を読んだ僕らの世代には、文学の醍醐味を味わえるとてもいい作品だ。
同時に古典的で詩の教科書の枠に見事に収まっている印象も残る。それは、枠が溶解し自由奔放な世界へ放たれた現代詩に、ぼくらが完全に埋没しまったからだろう。そういう意味でもこの詩集は最近では出会わなかった懐かしい詩集だった。
『説法』という詩集のタイトルを見たときには思わず微笑んだ。背後で高踏な風刺が踊っているのが見える。それも僕には素敵な詩だ。

 

10/1 中四国詩人会・四万十大会

2011年10月1日(土)四国の四万十市で第11回中四国詩人会・四万十大会が開かれます。場所は市内中村小姓町26番地新ロイヤルホテル四万十(0880-35-1000)。13時30分開会で最初は総会と詩人賞の授与式です。2時50分から講師・鈴木漠氏の講演があります。演題は「連句裏面史から」。総会以外は誰でも参加できます。参加費は資料代を含めて1000円です。次ぎにプログラムを紹介します。

 宿泊の申し込みは新ロイヤルホテルです。「中四国詩人会大会の参加者です」と言えば割引があります。一泊朝食付き6800円。翌日の2日には希望者による市内の視察観光があります。幸徳秋水の墓地などを巡ります。9/6時点で40数名の申し込みがありますが、まだ日にちがありますのでもっと増えることでしょう。会員には返信ハガキ同封で事務局から案内が行っています。まだの人は急いで申し込んでください。

今年の中四国詩人賞は小野田潮さん(岡山県瀬戸内市長船町)の『いつの日か鳥の影のように』に決まりました。表現に無駄のない端正な詩ですが、ふと深みや遠いところへ誘い込むよな思索的な深い表現があり魅力的です。キャリアのある詩人です。詩集は私家版として出版されました。