「詩集や本の紹介・感想」カテゴリーアーカイブ

活躍した郷土の人々『大田市人物伝』紹介

2009年9月(11月に改訂版)『大田市人物伝』が発行されました。発行所は聴聲会(大田町大田イ44-2)。37人の大田市出身の有名な人物を取り上げてその生涯や活躍の様子を分かりやすくまとめています。よく調べかたよることなく、分かりやすい簡潔な文章で書かれています。その人物の全体像をつかむためには格好の本です。小学生から大人まで幅広い層を対象にしていますが、大人が読んでもとても参考になります。読み物、朗読、集団討議にも最適ですが、人物百科事典として利用するのにも便利です。

選ばれた人物は37人ですがみな立派な業績を残している人たちです。大田の人たちでも名前を知らない人がかなりあると思いますが、その道の第一線を歩いた人たちや、独自の個性的な生き方をした人、地域に大きな貢献をした人たちだということがわかります。目次を紹介してみましょう。

 

 人物を取りあげる際に市内で片寄らないように人選されています。また物故者に限定されていますから作詞家の岩谷時子さんやヴァレーの石田種夫さんなどは日本のトップクラスの人ですが載っていません。たくさんの候補をリストアップされ、厳選して37人にしぼり込まれたそうです。続編が欲しいところです。

文学の分野では詩人の木島俊太郎氏(山陰中央新報連載中の「人物しまね文学館」でも取り上げた)が載っています。偏りがなくその業績を客観的に紹介されていて感心しました。テレビや歌謡の世界で活躍された林 春生氏(昭和12~平成7年)は大田市大屋町の出身だとは知りませんでした。作曲は400以上、その中にはたくさんのヒット曲があります。「思い出のカフェテラス」(淺田美代子)、「雨の御堂筋」(欧陽菲菲)、「白いギター」(チェリッシ)、あげたらきりがありません。「サザエサン」の主題歌も林さんです。廃校になった大屋小学校や久利町の久屋小学校の校歌も作詩しておられます。

編集委員は白石政登、松本宗一郎、郷原実朗、児島光明、山内俊雄、和田秀夫のみなさん。長い間小、中学校で教育に関わってこられたベテランの教育者です。

編集委員長の山内俊雄先生は「あとがき」で次のように期待を書いておられます。
「~ この人物伝が、幅広い年齢層で活用され、なおその上に、子どもとと大人の共通の話題、学習の場になることを願い、なかんずく若者の将来への生き方に役立ちことを期待します。~」

ぜひ活用してほしいものです。市内の人に限らず日本中のどこに住んでいる人たちにも大きなものを心に残してくれる本です。

 

(購入したのは発行直後でしたが、紹介が遅くなりました。この中の人物についていつか紹介してみたいものです。郷土を知ってもらういい教材になります。「人の生き方」に触れるこは最高の教育です)

 

島根 津和野の詩人 中村満子

山陰中央新報では目下、「続人物しまね文学館」を週1回(金)文化欄で連載中です。2012年2月3日に、57番目の人物として津和野在住の詩人・中村満子さんが掲載されました。文章を少し追加し詩集の写真なども加えて紹介します。

孤高の歩み詩集に結実       洲浜昌三

伝説の詩人である。奔放に詩を書き若い異色の詩人として注目されたが、忽然(こつぜん)と益田から消え鹿児島にいた。詩人としての存在が忘れられたころ、津和野にいて8冊の感性豊かな詩集を立て続けに出した。

中村満子(なかむら・みつこ)は1926(大正15)年2月、益田市益田徳原で生まれた。父には9人の弟妹がいて大家族。本宅と弟妹たちの住居が広い地所に連なっていた。祖母は病気、祖父は古神道「神理教」の神主。満子の父とはいさかいが絶えなかった。3人の子供を抱えた母の「息づまる血みどろの家業」を見て長女の満子は育った。県立益田高女から津和野高女補習科へ進み、43(昭和18)年卒業。当時の東仙道小学校で教職に就いた。

数年後、相次ぐ不幸が彼女を直撃した。耐え切れず母が家を捨て実家へ帰った。そこで子宮がんを患い「納屋を借りて身を細くしていた母」を妹と看病した。満子は自分のタンスから着物を出し金に何度も替えたという。

「座ったままで事切れていた母を見て/詫びるより先に/姉妹は手を取り合ってよろこんだ/このよろこびとは何だろう/つぎの瞬間/姉妹は言い合わせたように身震った」「愛の裏腹にある罪/逃げ果たせない闇/それは若い娘とおさげ髪の少女にとっては/あまりにも早すぎた問いであった/やがてよろこびは/妹の自決を生む引き金となり/私の母になる夢を殺していった」(「ときに激しく」)

母の死に続き祖父母の死、58年妹の自死と父の死、離婚(久保姓から中村へ)。「母の悲惨な人生と最期。姓と生は私に深い衝撃をもたらした。生きる不安と抵抗。それは生そのものへの疑惑、反逆に発展したこともあった」。10年後、とどめを刺すように本人の子宮筋腫全摘出。

詩はキムラ・フジオとの出会いから書きはじめた。『詩歴』(54年創刊)や『石見詩人』の同人になりカットや表紙も描いた。「奔騰湧出する詩篇をなぐり書きして持ち込み」、ある時は発行遅延に業を煮やして「積み重ねた詩稿を掴んで河原で焼きすてた」という。

キムラは脳神経障害で苦しんでいたが、満子の多数の詩篇から24編を選び詩集『赫い日々』を出した。奔放な詩と母の悲惨な死を直視し、女の実存的な痛みから生まれた詩は赤裸々で強烈だった。「私の詩の原点は母にある」という。3年後に妹にささげた詩集『花の種を播く』を出版。この時期、東京の『潮流詩派』や岡山の『黄薔薇』にも所属していた。この第2詩集の詩は『潮流詩派』に書いたものを中心にして出版した。『黄薔薇』には短期間しかいなかった。

62年春、満子は「忽然と姿を消し」「数年後一通の便りがあった」(キムラ)。手紙は鹿児島からだった。彼女は阿久根市、出水市の小学校で「まともに子供たちと向き合う」充実した17年を過ごした。詩は突発的に2度『石見詩人』へ送っただけだった。

78年に定年退職。弟がいた津和野に住んだ。頼まれて絵や寸感を色紙に書き、店頭でもよく売れた。しかし欺瞞(ぎまん)も感じ、90年に自ら短期間『山陰詩人』に加入、堰(せき)を切ったように再び詩を書き10年で8冊の詩集を出した。92(平4)年『花もよう』『夕映えて』、93年『卵のゆくへ』。94年日本現代詩人会入会。『水滴』『天の風』『ウォーキング』、詩画集『落書き三昧』。2002年に『苦笑の頷き』を出し再び詩から離れた。現代詩人会もそのうち退会した。

「あの頃のように/傷を裂き ひろげ/血の鮮烈な美しさに/酔うことは/もう決してありません/狂奔する時を衝き/粉砕して/その痛みを/存在の証とする/雄々しさも/すでに/どこかに消えております∥楓の葉が/風と戯れております/その姿をなつかしみ/いとおしみながら/わが来し方/人生は/空に漂い/流れる/一片の浮雲に/似て」(「浮雲」)

激しい情念で拒否し、潔癖な知性で守ろうとした孤独な魂の風景はここにはない。静かな港へ入ってきた船乗りの目に映る穏やかな風景である。その帰港地、津和野で次の詩集『夕やけ』を準備中という。

(島根県詩人連合理事長、「石見詩人」同人 日本詩人クラブ会員)

 

掲載された新聞を紹介させていただきます。読みたい人は図書館か新聞を買って読んでください。5月初旬には本になる予定です。何のコウカもありませんが、今から宣伝しておきます。欲しい人はどうぞ申し込んでください。まだ決定していませんが定価は1600くらいです。山陰中央新報社でも洲浜でもOKです。2月17日には浜田の詩人・閤田真太郎が掲載される予定です。これが最後の掲載になると思います。

紹介した詩集の中に第1詩集『赫い日々』だけありません。どこを捜してもないのです。だれかある場所や持っている人を発見したら教えてください。中村さんの次の詩集『夕やけ』はこの春には出版されます。3月か4月か5月か…。期待してください。

『高森 章 脚本集』紹介

2011年11月11日、岡山県の高森 章先生が脚本集を出版されました。高森先生は長い間、高校演劇の顧問として活躍され、特に創作脚本を退職までに29本書かれました。その中から6本が掲載されています。また高校の演劇部時代から顧問になってからの各校での思い出や記録も載っています。貴重な本を拝受しましたので紹介します。

高森先生は昭和40年、岡山県立津山高校の1年の時から演劇部員だったそうです。最初の8ページには高校時代や顧問になってからの各高校での写真がカラーで掲載されています。津山工業高校と津山東高校勤務が長かったのですね。風景として紹介します。

参考までに各高校で創作された脚本を紹介してみます。ぼくは中国大会へ出場されたときの劇を何本か観ています。その土地の風土が滲み出てくる舞台でした。流行に乗らず、自分たちの分を心得て地道にそして素朴に劇を創っていくという印象が当初から残っています。いつも落ち着いて話され重厚さや風格もあり、ぼくより先輩だとずーっと思っていました。

 本には次の脚本が掲載されています。「黒土にうたう」「冴えかえりつつ」「高原の花嫁」「夢の中で」「麻衣子へ」「まゆみのマーチ」(津山東高校が全国大会へ出場したときの作品)

「最後に」という欄で、創作劇について書かれています。参考になるのでポイントを書いてみます。

・反省の40年:「振り返ってみると、ただ反省、反省、ばかり」ではじまり、「プロットの作成や組み立ては2ヶ月くらい頭の中で行う」とあります。「大きな幹を立て、枝葉を切り取って行く作業。話し言葉で書くこと」「伝えたいテーマを一本に絞り込む。書きたいことはいろいろあっても、それを残しておくと、本当に伝えたいテーマがぼやけてしまう」「読み返してみてはずかしくなった。今多ったら絶対に書かない、書けないといクサイ台詞が各所に見える」「満足のいく脚本は29本のうち4本くらいか」

同じくらいの本数の脚本を書いてきた者として、まったく同じ思いです。年月や経験の篩い(ふるい)を経なければ見えて来ないものがあるんですね。その時は見えているつもりなんだけど・・・・。本物を見るためには、見ている自分を見る第三者の目が必要なのでしょう。

中国地区の高校演劇で脚本集が出ているのは広島の伊藤隆弘先生(門土社)島根の洲浜昌三くん、広島の(門土社)藤田 卓先生、岡山の高森 章先生(私家版)。現在中国地区5県で有力な書き手が活躍していますので何らかの形にして記録として残し、必要に応じて読めるようになればいいですね。高森先生、おつかれさまでした。

藤田 卓 戯曲集『豊島屋物語』 出版

平成23年7月、藤田 卓 戯曲集『豊島屋物語』が横浜市の門土社から 出版されました。「戯曲満開坐」シリーズの第1巻です。藤田さんは広島県の高校で演劇部の顧問をされ、数多くの個性的な脚本を書いてこrかれました。本の中で伊藤隆弘先生が「時空を越えて紡ぐ人」として詳しく紹介しておられます。

      6編の脚本が載っています。
『半鐘の村』『むかしを今に』『波の都』『豊島屋物語』『港はいつも春なれや』『移民船安寧丸』。それぞれの脚本が高校演劇のレベルを突き抜けたしっかりした脚本です。高校生が上演しても感動的な劇になると思いますが、社会人が上演すると更に迫力のある劇になるでしょう。卓先生の劇は何本か見ていますが、高校演劇特有の甘っちょろさがないことです。会話もストリーも歴史的なまた社会的なフィルターを通過して生まれたものです。初期の作品は高校生の群像を描いたものが多いのですが、高校生だけの世界ではなく歴史や社会の中で生きている高校生が描かれていました。それがとても印象に残っています。
卓先生に平成23年度の広島県高校演劇大会で久しぶりにお会いしました。元気でした。脚本を贈っていただいたのでお礼を言い感想などを話しました。夜の顧問研修会にも出席されました。

本の「あとがき」を紹介しましょう。卓先生が洲本高校、三和高校、廿日市西高校、観音高校の演劇部の皆さんと共に汗と涙を流して創った劇への思いがよく伝わってきます。

本の価格は1200円。しっかりした装幀の本です。本の出版には経費がかかりますが、長年の仕事の結果をこうして本という形にして残されたことは貴重なことだと思います。おつかれさまでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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詩人 高塚かず子のふるさと 島根川本

ー詩人 高塚かず子ー
水の詩人のふるさと、島根川本

洲 浜 昌 三

第44回H氏賞を受賞したとき、高塚かず子は「島根県生まれ」と報道された。しかしその名前は思い当たらなかった。
『島根の詩人たち』(田村のり子著、島根県詩人連合発行)を読むと次のように書いてあった。「川本生まれだが、幼いとき母方の地九州へ移った。祖父が川本で俳句誌『霧の海」を出していたような、文学の血があるようだ。」 続きを読む 詩人 高塚かず子のふるさと 島根川本

書評 水野ひかる詩集『未明の寒い町で』

2010年11月、香川県善通寺の水野ひかるさんが詩集『未明の寒い町で』(土曜美術出版)を出された。贈呈を受け率直な感想を書いて礼状をお送りした。後日「詩誌そばえ」へ書評を頼まれました。「そばえ」(「戯」)は徳島県板野郡板野町の扶川 茂さんが発行されている詩誌。2012年1月にⅢ4号が発行され書評が載りました。長い文章ですが紹介します。 続きを読む 書評 水野ひかる詩集『未明の寒い町で』

H23 島根県民文化祭文芸作品入賞者表彰式

2010年12月11日、平成23年度の島根県民文化祭文芸作品入賞者の表彰式が松江で行われました。表彰式のあとには例年のように各部門で入賞者との懇談会が開かれました。

 各部門の応募作品数は次の通りです。短歌・一般の部413首 ジュニアの部96首  俳句・一般部611句 ジュニアの部89句  川柳・一般部521句 ジュニアの部582句  詩・一般部55編 ジュニアの部77編 散文・17編 ジュニアの部の応募作品はなし。

今年の大きな傾向はジュニア-の部(中学生まで)で多くの応募者があったことです。これは小・中学校の先生などで熱心な方が生徒に書かせた作品を応募されたからだと考えられます。詩では77編も作品が集まり、びっくりしました。これも熱心な先生の指導の賜です。文芸でも高齢化が進み、若い人たちを育てて行く必要性を文芸フェスタの運営委員会でも何度も話し会いました。その結果ジュニア-の部を設けたわけです。ますます応募者が増えることを期待しています。

入賞者の作品は毎年本になっています。「島根文芸」44号です。図書館などにはあると思います。島根県の国際文化課に問い合わせると購入もできます。

詩の分科会では入賞者に作品を朗読していただき参加者で感想等を述べあい貴重な2時間を過ごしました。島根県詩人連合で出席したのは、撰者の田村のり子さん、閤田真太郎さん、事務局長の川辺真さん、理事長の洲浜昌三の3人でした。

今年の入賞者の大きな特徴は高校生たちが上位に入ったということです。今までもそういうことはありましたが、銀賞や銅賞にたまーに1名か2名に過ぎませんでした。金賞の『僕』を書いた竹下奈緒子さんは出雲商業高校生、銀賞『ハロウイン』の中島千尋さんは松江高専の学生、同じく銀賞『純』の青木茂美さんは出雲商業高校、銅賞『おばあさん』の勝部椋子さんも出雲商業高校。

高齢者の作品はどうしても過去の回想になったり、記録だったり、若々しい感性は欠けています。しかし上記の若い人たちの作品には脆いところはあっても新鮮な感性が息づいています。確かに魅力的です。

小林さんの『としをとると』、持田俶子さんの『まあちゃんの自転車』は若い人にはかけない分厚い時間の堆積から滲み出てくるような哀感がありました。本来なら優劣をつけることはできません。

みなさん、おつかれさまでした。来年もまた参加してください。

 

 

島根の詩人 原 敏(田原敏郎)

詩人 原 敏  石見方言で3詩集刊行         【続人物しまね文学館】                                                                                                                                洲浜 昌三
日本が壊滅的な打撃を受け混沌としていた敗戦直後、益田で詩の同人誌『鶯笛』、松江では『自由詩』が創刊された。『戦後詩誌の系譜』(志賀英夫)によれば1945年に創刊、復刊された詩誌は全国で22誌しかない。島根の戦後詩の始動は全国的にも先駆けであった。

『鶯笛』の中心は原 敏(田原敏郎)だった。原は27年(昭和2)益田に生まれ、45年3月、松江工業高校機械科を卒業し、大和紡績で製図書きを担当していた。仲間と詩を語り作り、得意な技を生かしてガリ版を切り、白想社のキムラ フジオへ印刷を頼んだ。同人は若者5人、後に佐藤繁次が加わった。彼は妻の実家へ疎開していたが市の職員で文化活動の立役者であり、原が尊敬する才能のある詩人でもあった。

同人の相次ぐ離郷で47年秋『鶯笛』は3年で終わった。原も進学を決意して上京したが、カリキュラムの違いで目指した大学の手続ができず、荒涼とした東京生活を離れて帰郷、代用教員なども勤めたが、再び志を貫くために京都へ行き高校時代の友人がいた花園大学へ入学、2年時に編入試験を受け立命館の日本文学科へ移った。生活費を得るために映画の看板や紙芝居の絵を描いたり様々な仕事をした。大学4年の年に第一詩集『都会のかたつむり』を出した。佐藤繁次がそれを聞きつけ祝いに来た。「二人で痛飲した。胸にこみ上げてくる涙をおさえて飲んだ。」再会した佐藤は詩や演劇で活躍していたがその後命を絶ち、これが永遠の別れとなった。

大学を卒業すると大阪府立中学校の教員になった。北園克衛の『VOU』や『静眉』に詩を書き、新大阪新聞詩壇へ投稿し、その仲間と「日本児童詩の会」を結成して児童詩誌『詩の手帳』を刊行した。教科書編集委員に任命され詩の教材選考にも関わった。しかし生活も夢も軌道に乗りはじめた矢先、父が他界。涙をのんで62年(昭和37)益田へ帰った。『石見詩人』の主宰者・キムラは書いている。「10数年後、原敏は益田工高の教諭となって突如ぼくらの前へ出現した。ベレー帽に口ひげをたくわえ、詩の会合では軽快なジョークを飛ばし呵々大笑して席上を独占的に賑わした。」繊細だが快活、豪快だった。  74年(昭和49)には子供たちの情操を育てることを目指して小学校の先生を中心に「蟻の会」を作り、児童詩『蟻』を創刊した。毎号小学生の詩を80編以上載せて寸評を書いた。優れた作品を詩集にしたり、児童詩の指導指針の冊子を何度も作り、手書きの会報を毎月発行、217号まで出した。『蟻』は2011年に81号を出して27年の活動に終止符を打ったが、、子供たちの未来に心を寄せ、大阪時代の経験を生かした献身的な活動であった。

 

72年に島根県詩人連合が結成されると初代理事長になった。詩集は『しめった花火』『日々』、さらに石見方言で書いた詩集、『ひゃこる』『続ひゃこる』『裸虫の歌』がある。  「あんた なにょう そがあに 大声で ひゃこりんさるかな そこの氏やぁ とおの昔 おってじゃなあに 山も田地もな そのままいな 今頃らあ まちばで ええ生活しとりんさるげな わしらもなあ おりんさらんことを つい忘れてなあ 時々 ひゃこることがあるでや」(詩「ひゃこる」の冒頭)

「耕地が少なく荒々しい地形と荒波を受ける磯部で生活を確立してきた石見人の言葉には、赤裸々な人間本質の心の叫びがある」と原はいう。

 詩や著作から、形式主義や因循を嫌い自己の信念を貫き真実の声を聞こうとする石見人・原 敏の一徹な姿が浮かぶ。そこには、軍靴で青春や自由や尊厳が踏みにじられた時代を生きた世代の強靱さもあるのかも知れない                                       (島根県詩人連合理事長 「石見詩人」同人)

 上記の文章は2011年12月2日の山陰中央新報の「人物しまね文学館」に掲載されたものに写真を追加しています。ぼくが昭和40年3月に早稲田を卒業して島根へ帰り最初に赴任したのが県立益田工業高校でした。昭和38年に新設された立派な学校でした。そこに国語の田原敏郎先生や矢富厳夫先生がおられて石見詩人の同人でした。ぼくは詩ではなく「日本海文学」へ小説を書いていましたが、誘われて同僚の数学教師・岩石忠臣さんと加入しました。

 田原先生は実に豪快で竹を割ったような人でした。小学生の2人の息子へ英語を教えてくれ、と頼まれ教えたあと2人で飲みながら文学談義を遅くまでやったものです。飲むために教えたようなものです。先生は早稲田の文学部を受験に行かれたそうですがカリキュラムの違いから手続きができなかったそうです。益田工業高校では詩作同好会を作って同人誌を発行され、卒業時にはまとめて詩集『卒業』を作られました。何しろ機械科卒業で製図など

お手のものですから手書きの字など実にきれいなものでそれを輪転機で印刷して会報などは作っておられました。考えの違いから「石見詩人」はやめて、一時「山陰詩人」に詩を書いておられたこともあります。正義感にあふれ一徹なところがありました。ぼくも「蟻」の会の会員でしたが、毎月の会報発行と郵送、100編近い児童の作品に一つ一つ批評を書かれたことなど誰にもできることではないと思っていました。終刊後に会員がお礼の志を集めて感謝しました。

 この時期には石見詩人の高田賴昌さんも朝日新聞地方版で児童詩の選をして毎週掲載していましたし、浜田では石見詩人の熊谷泰二先生、閤田真太郎、山城健さんたちを中心に児童詩を募集し「石見のうた」を毎年発行していました。全国的にも珍しいことです。田原先生は大阪での経験や児童詩にたいする信念からもその意地を通されたのでしょう。『蟻』は全国的に活動していた詩人たちにも送られ寄稿文も寄せられています。

 『詩歴』創刊が昭和20年の秋か、21年の秋かは重要な意味があります。田村のり子さんの「出雲石見地方詩史50年」の年表には20年とでています。しかし後にでた「島根の詩人たち」では「敗戦の翌年ガリ版の鶯笛を創刊」と書いてあります。田原先生自身も『鶯笛』は手元にないとのこと。どこの図書館にもありませんし、矢富先生もないとのこと。実に困りました。いろいろ状況証拠を集めて昭和20年秋としました。本人の記憶も明確ではありませんでした。『詩歴』や『鶯笛』を持っている人がいたら是非見せてください。田原先生が戦後いち早く詩活動をはじめたのは松江工業高校時代の軍政下でもそれを越える自由な思想を持っていたからでしょう。そは重要なことですが、少ないスペースでは書きませんでした。

 文中の佐藤繁次について紹介しておきます。「戦後文化樹立の中枢となった「益田町文化懇話会」を神原正三、篠原信、大谷垣、土田伊平などと結成し、その運営活動の軸として活躍した他に『緑野』同人、『石見洋画界』、「農民組合文化情報部」など益田の文化のために枚挙のいとまがないほど貢献した人であった。市役所職員のサラリーを文化に投資して静子夫人とケンカ別れをし昭和24年故郷の大阪へ帰り府庁に勤めていたが、昭和29年4月20日自ら命を絶った」(石見詩人38号)

 『鶯笛』の同人はつぎのとおりです。「原 敏、岡崎のぼる、浅井昭二、大畑富美子、福原和子など若者グループに途中から佐藤繁次も加わって、早春になく鶯の笛声のような、初々しい誌文学の創造をめざした」

 最後に山陰中央新報の紙面を紹介させていただきます。来年には『続・人物しまね文学館』(想像)として出版される可能性が大でうからPRも兼ねて。

 山陰中央新報での週1回(金曜日)の連載は1月末前後まで続く予定です。すでに詩人の高塚かず子さんの原稿は新聞社へ送っています。ぼくの担当はあと2人です。中村満子さんの原稿は仕上がりました。詩集を10冊読み、敗戦前後の資料を集め、年表を作っていくうちにやっと「書くべき核芯」に至りました。ぼくの内的な文学精神を揺さぶる動機が生まれないと書けません。これが難しいですね。あと閤田真太郎さんが1人残っています。資料は集めていますので年表をつくりじっくり書いていきます。年末も近づいたのにいつものように宿題山積未提出人生です。

 

川本町で発行の俳句誌『霧の海』

島根県邑智郡川本町で俳句雑誌『霧の海』が発行されていました。奥付を見ると編集発行人は品川誠太郎、発行所は観光新報社、主幹は品川河秋となっています。創刊は昭和9年12月15日です。どこを捜しても見つからなかったのですが、島根県立図書館に13冊だけ保存してあります。創刊号(27ページ)と翌年1月(2巻1号)から2巻12号まで(8月号は欠番)あります。昭和10年12月以降はどうなったか不明です。

昭和25年12月3日にに発行した復刊第4巻第2号、26年1月3日発行の第5巻1号が県立図書館にはあります。次の写真は昭和26年3月3日発行の第5巻第3号です。(巻はどういう使いかたなんでしょう?だれか教えてください)インターネットで捜したら福岡市の古本やにあるのがわかり注文しました。

 編集主幹の品川河秋さんについては詳しいことはわかりません。『霧の海』を読んでいくと、33歳の時創刊し、30年間大阪へ出ていた、という文章が出てきます。具体的なことは書いてありませんが、大阪へ出られて実業家として活躍されたのではないかと思います。復刊号を出された昭和25年には74歳かと思われます。他界されたのは78歳です。昭和29年7月の江川の大洪水です。葬儀のとき、俳句仲間の法隆寺住職・岩 義香氏が次の一句を献詠されたそうです。「江川に吹かれ落ちけり合歓の花」。そのあたりにはネムの花がたくさん咲くそうです。

次の写真は川本の木路原方面を江川の対岸から写したものです。詩人・高塚かず子さんが生誕された集落です。近くに竜安寺があり、竜安寺川が流れています。

 川本は水量豊かな江川があるために昼頃ままで一面に霧が立ちこめることがよくあります。まさに霧の海です。多分そういうところから『霧の海』と名前を付けられたのでしょう。

品川河秋さんのことを知っている人がまだおられるでしょうか。『霧の海』に参加された同人は50名以上あったと思われます。とても発展的な展望を持って発行しておられたのが誌面からよく分かります。俳句の選をして載せるだけではなく、各地区に俳句会を結成しています。自ら観光名所の歴史を解説して観光資源開発も目指しておられたようです。五島にいる5歳の孫娘を詠んだ俳句も一句見つけましたが、体がしばらく震えました。

河秋さんや『霧の海』のことを知っておられる人がありましたら、ぜひ話しを聞きたいものです。

くりす さほ 詩集『いつか また』

2011年6月、浜田市のくりすさほさんが詩集を出されました。『いつか また』は100ページの詩集で31編の詩が載っています。どの作品も平易で難解な言葉はありませんが、若々しい感性にあふれ、省略された空間が大きいので単純に分かりやすい詩とは言えません。「感じる」ことがたくさんある魅力的な詩がたくさんあります。詩に感心がない人で楽しめる詩集です。

 タイトルにもなっている冒頭の詩「いつか また」を紹介します。

いつか また

一読すると女学生が書いたかとも思われるような詩です。しかしよく読むと感性だけではない深いものが感じられます。「風は/誘っていない」とか「いつか また…」には引き戻されます。風が誘っていないのに花びらは落ちるのです。普通の「いつか また」には夢や希望があります。特に若い人なら未来に開かれた言葉です。くりすさんは高齢な方です。「いつか また」の「いつか」はどの時点をイメージしてつくられたのでしょう。そう思えば、不安や恐怖も滲み出てきます。長い人生と経験の末にサクラを見ているのです。女学生の感性で書かれていることも不思議な魅力ですが、どこかにさらっと人生の深い谷を見た目が生きて来ます。それが立ち止まらせ考えさせます。

くりすさんは石見詩人の同人で島根県詩人連合会員です。この詩集は第一詩集。何かの時の贈り物として送ったらきっと喜ばれると思います。希望があれば取り寄せてお送りします。

ではもう一編紹介します。

詩集は石見文芸懇話会から発行されています。浜田市黒川町251-12 山城様方です。印刷は弘文印刷(0855-22-3171 浜田市片庭町254-6)。

「石見詩人」は11月ごろ127号を発行しますが、この詩集の感想特集を載せます。