2014年12月6日、世界一小さなオペラハウス「大森座」が誕生しました。6日に完成内覧会があり劇研空のみなさんと行って来ました。
(オペラハウスという名称は新聞記事に書かれているので使用しましたが、オペラ上演用に作られたという意味ではありません。ヨーロッパの町にあるオペラハウスのように文化の拠点として使用してほしいという願いから生まれたシンボリックな名前です)
(熊谷邸の前にあり、旧郵便局舎を改装してできました。キャパは一階、二階席合わせて約100人。椅子は特注で、とても座り心地がいいと大好評です。この建物は江戸後期の建築だそうです。歴史と伝統を感じさせる品格のある建物に改装されました。)
新聞報道によると、大森座は1915年(大正4年)に銀山経営者によって竣工し、枡席や二階席を合わせて300人くらいのキャパあり、芝居上演や小学校、地元の人たちの発表会場として賑わいましたが、1964年(昭和39年)に取り壊されました。
(写真はステージです。奥行きが約1間半、間口が2間半くらいで、上手のドアを開けると控え室、下手にも控え室兼楽屋があります。12月13日には、大田市出身のオペラ歌手・田中公道さんたちのこけら落としがありました。)
中村ブレイスの社長・中村俊郎さんのお父さんは当時の大森町収入役で、大森座の保存に尽力されたそうです。中村さんにとっては再興は夢だったのです。「若い人たちにも大いに利用してほしい。大森の文化に役立てればうれしい」と語っておられました。当日はお祝いの言葉を述べ、会報17号と井戸平左衛門の詩の朗読台本を渡しました。完成したらいつか利用させてください、と以前話していたからです。
完成するまでに、春と夏と秋、3回、大森に出かけたとき下見に行きました。その時にまだ着工前で、どんなものになるか分かりませんでした。裏から中を覗くと、普通の部屋が3部屋くらい見えました。どのように改装されるのだろう、と夢がふくらみました。ぼくの一番の関心は、舞台がどこになり、どのような大きさで、照明などはどの程度設置されるのか、ということでした。いろいろ勝手に想像しました。例えば:
裏庭の一部を使って舞台をつくれば客席とは向き合いになりベストです。舞台の裏には見事な竹林があり、これを背景にすれば、仲代達也さんが監修されて出来た石川県の能登演劇堂の小型版になり、すごいだろうな、と思いました。普段は戸を閉めておき、ちょっとした公演などのとき開ければ、すばらしい竹林が背後に見えそこへ夕陽が当たったりすれば最高!などと勝手に妄想が広がりました。
舞台をどの位置にするか、一番苦労されたことでしょう。奥行きと間口が狭いので劇には無理かもしれませんが、会議や研究発表などはもちろん、朗読や語り、小演奏などには使えます。
文化発展には「場」が必要です。いろいろな人が集まり個性がぶつかり触発され、刺激や勇気を与えられ、エネルギーになり更に新しいものに発展していく。少しでもそういう「場」になればいいですね。
大森座について:
「久利風土記」(95ページ)によれば、昭和4年ごろ、松代の石膏鉱山が盛んな頃、村の有志が芝居小屋建設を計画し、当時大森町にあった大森座の建物を購入して久利小学校北門の出口、赤波道路沿いに移転建設し、昭和5年盛大に初興業が行われた、と書いてあります。この共楽座は昭和30年、三瓶浮き布池湖畔の三瓶グリーンランドに売却され解体移築された、とも書かれています。
とすると、大正4年にできた大森座が解体されて昭和4年頃久利の共栄座になり最後は三瓶へ移築されたのでしょうか。そうすると、大森座はまた新築され、昭和39年に解体されたのでしょうか。どこかに資料はありませんかね。詳しい人はありませんか。大田の相生座と共に調べておく必要がありますね。相生座には島村抱月や松井須磨子もきて公演したのですから。芝居小屋は当時の文化の拠点です。