2/13(日)温泉津公民館祭りで福波小学校が劇を上演

 13日は温泉津公民館祭りです。9時過ぎから吉川経家について話があります。鳥取や岩国から経家の専門家がそれぞれ話しをされます。10時30分ごろから福波小学校全員26人による創作音楽劇「経家 最後の手紙ー不言城の子供たちへ-」が上演されます。

 温泉津公民館のホールです。一応照明器具なども設置されています。第2ボーダーもあり照明器具もあったそうですが、撤去されたそうです。ボーダーだけでも残しておけばいろいろ器具をつったり、スクリーンや展示のパネルなどをつることができるのにもったいない話しです。今の公民館長は河原先生です。久しぶりにお会いしました。10にはリハーサルが行われたので行きました。

 公民館のホールを紹介します。ちょっとした劇や朗読、演奏会などにはとてもよさそうなホールです。温泉津の町からかなり離れているのは残念ですが、温泉津は土地が狭いから仕方がないか。

 秋には25人でしたが転校生があったので26人になったそうです。みんなセリフを間違えることもとちることもなくしっかり覚えていて感心しました。演技などで新しくなっているところもありました。先生が、「子供たちが提案して変えたのですがいいですか」といわれました。「もちろんいいですよ。子供たちの考えをどんどん出させて変えてください。それがみんなで劇を創る面白さですから」とアイ セッド。

 朗読は声もよく聞こえました。1,2年生が一生懸命語るのは感動的でした。朗読には感情の表現はあまり必要ないけど、劇のセリフには喜怒哀楽の表現が伴っていないと、どんな気持ちでその言葉を言っているのかわからず、お客さんには何も伝わらない、という話をしました。その役の気持ちになることは劇には最低限必要な条件です。こんご練習するとすればこの点ですね。

 今日は雪交じりの嵐が吹きまくっています。三瓶のイベントも中止されたとか。あしたはどうでしょうか。少しでも穏やかな天気になってほしいものです。26人の皆さん、伸び伸びと楽しみながら演じてください。

2/10(木)「琴の鳴る浜」練習報告です

 当日いなかった人たちにお知らせする報告です。基本的に木曜日は子供とお琴さん、善作さんの場面を中心に稽古をつづけています。市民会館の第一会議室でセリフを徹底して繰りかえし身につけました。

(これはどこでしょう。そうです。無人駅の馬路駅です。琴が浜を見下ろせる高台にさびしく建っています。電車が来ましたが止まらずにさーと過ぎ去って行きました。)

 10日はハルさんとアヤさんが都合で欠席、ゆいさんは残業でしたので踊りの練習は次ぎにして、癖のあるセリフを徹底的に修正し、自然な表現を繰り返しました。山本善作さんも来ましたので一緒にやりました。

 子供たちのセリフはどうしても棒読みになりがちです。言葉や発声や呼吸法や表現法をあまり訓練していませんから意識的に表現するのは無理なところがあります。そして一人一人が言葉や声の大きさや口の開け方などに独特の個性(というより癖)を持っていますから、「新しいことを発見したうれしい気持ちになってこのセリフは喋って」と行ってもすぐにはできません。癖のない子は速くマスターしますが、独特の癖がある子はなかなかその癖という個性から出られません。じゃ、どうするか。ここが難しいところです。

 繰りかえし同じことを大声で言って自然に身体に覚えさせるーこれは一つの解決法です。この日はそうするために不自然なセリフを修正し、自然な言い回しを大きな声で5回その場で言わせました。ぼくは部屋の遠くへいて、「ここまで声が届くように大きな声で5回!はいどうぞ!」全部のセリフを読ませながら、おかしい所は5回言わせました。

 うれしかったり、発見をしたり、いいことを提案するときには、思わず言葉に勢いがあり早口になるのが人間の心理ですが、そうならずに平板な朗読口調になる場合が一番多い。セリフを言っている、という意識が抜けないのでしょうね。

 2場のお琴さんとの場面では何故か修正して5回言わせるセリフが1場よりも遙かに少なかったのは不思議な気がしました。劇のその場面が子供たちの気持ちに自然なのでしょうかね。無理に作らなくても自然な気持ちで言えるからでしょう。昨年の本番でもこの場面はとても自然でしたからね。

(平成22年の公演で馬路盆踊り保存会のみなさん4人に指導していただき本番にも参加していただきました。本番前の中ホールでお琴さん、3人の子供たちと一緒に記念写真をパチリンコン!2月16日の夜には市民会館の舞台で盆踊りの場面を中心に稽古をします。よろしくお願いいたします。…とかいてもこのなかでこれをよむひとはオンリワン!わかっています。)

次回は12日(土)19時からステージを使って練習します。大雪が降るとテレビは言っています。今日は大阪や東京で雪が降っているそうですが、この大田は曇ってはいますがやや温かく雪がふりそうなけはいはかんじられませんけどね。どうなるんでしょう。

2/8(火)「琴が鳴る浜」立ち稽古の報告です

 2月に入ってから晴れの日もあり、温かくなりました。奥部の道路の雪も消えて、昨夜は久しぶりにレイコさんの笑顔を見ることができました。風花の小島さんへお願いしていた高校生二人も初参加!楽しく勢いのある立ち稽古ができました。三場については連日頭を悩ましていましたが、やっと4ぺージ分を書き印刷して持参。説明して読み合わせをしました。次回までには最後まで印刷して持っていきます。

 (昨年の11月に写した馬路の琴ヶ浜の風景。このブログで大田の松井整司先生の新刊「鳴り砂放浪記」を紹介しましたが、琴ヶ浜のことや何故砂がなるのかという実証的な研究成果がかかれています)

 8日はお種さん、お豊さん、ハナさん、サトさん、尼僧、善作、正吉、秋、地頭、熊八、源五郎、それにニューフェイスのカンダさんコジマさんと多くの参加者がありましたので何となく華やかで充実した空気に溢れていました。一場、二場の立ち稽古を中心に練習しました。

(左は馬路の高山で499㍍あります。琴が浜から約3キロ離れたところにあります。車で登れますが途中から通行禁止になっているそうです。右の山は城上山。大森にある城上山はその昔はこの山頂にありました。1424に大内氏が大森の愛宕山へ移し、1577年に毛利氏が現在の場所へ移したそうです。大物主命(大国主命)を祭っています。「琴の鳴る浜」では歌にもでてきます。

むかしむかしのそのむかし                                              出雲の杵築 おおやしろ                                               大国主の命さま                                                     海から浜をはるかに眺め                                               うましところと のり給う                                                 うましうるわし 馬路の里                                                うましうるわし 馬路の浜

善作「お琴さん、こりゃ打歌山(たかやま)の神社のお守りじゃ。きっと守ってくださる。きっと守って…」

クライマックスの重要なセリフですが、「こりゃ城上山の神社のお守りじゃ~」に変更したほうがいいですね。たかやまの方が分かりやすいからと思ったのですが、伝統ある「きがみじんじゃ」を生かすことにしましょう。な、ヤマモト君。

次回は12日(土)19時から今年初めてですがステージで稽古をします。

今週はいろいろありまする。                                              9日は午後から温泉津公民館で福波小学校の劇「経家 最後の手紙ー不言城の子供たちへ-」の練習とリハ。夜は子供中心の稽古。                                              12日は四十九日の法要。夜はステージを使って稽古。                               13日は9時30分から温泉津で経家のシンポジュウ-ム、10時30分から福波小学校の劇上演。     15日(火)大人中心の劇稽古                                             16日(木)仁摩の盆踊りの人や子供たち9人が初めて参加してステージ練習。                17日(木)子供場面練習                                                18日(金)映画「靖国の檻」18時~あすてらす                                   19日(土)13時~19時ステージで稽古                                            20日(日)9時30~12時ステージで劇の稽古。13時~16時は合唱、演奏と劇の合同練習

台本も完全版にしてプリントせねばなりませぬ。20日までにはパンフレットの原稿を書かねばなりませぬ。詩の〆切も直前。チラシを郵送して劇へ来てもらう呼びかけもせねばだれもきてくれませぬ。

上記の稽古の日程については効率良くやるために事前に欠席者調査をし具体的に練習計画を組まねばなりません。どの日が都合が悪いかとか、何時からなら参加できるかとか、お知らせください。

なんかまたカンパ、かんぱ、寒波がくるそうですね。12日を狙ってくるそうです。たいへんです。れんしゅうもだけど、法要のため遠くから車で帰ってくる者が大雪にまた閉じ込められるかもしれませぬ。

春よこい 早くこい おうちの前の 桃の木も はよはる来いと 待っている

 むかししょうがっこういちねんのとききいたうた。

吉川経家と石見福光不言城の音楽劇のこと

 福波小学校が平成22年秋の発表会で創作音楽劇「経家 最後の手紙ー不言城の子供たちへ-」を発表し地域の人達に感動を与えたことは紹介しましたが、その後のことを紹介します。

 2月13日には温泉津公民館祭りで上演し、3月6日には鳥取の中ノ郷小学校、3月20日には福波小学校の閉校記念行事で上演する予定です。関心がある人はどうぞお越し下さい。

 次の小新聞は福波小学校が発表した後である保護者が作成されたものです。簡潔によくまとめられていますので紹介します。

 こういう小新聞を作ってくださる保護者がおられるとは最高です。普通はやりっ放しで終わるものです。このような新聞があれば記録として残り、それを見た人がまた刺激を受けて何かやろうとするでしょう。

 次の文章は「石見詩人」126号へ書いた随筆です。多少手を加えていますが、掲載してみます。石見詩人を読む人は残念ながら県内で40人くらいしかいませんが、全国の詩誌や詩の雑誌、詩人、県内の図書館、主要新聞社などに送っています。(同人になりませんか)少し長くなりますが、適当に適当な写真を入れたりして掲載します。

 「吉川広家の手紙、福光不言城の子供たちへの手紙は大田市の宝です」という鳥取の詩人の言葉が最後に出てきますが、それはぜひ記憶しておいてほしいものです。見える目を持っている人には見えないものが見えるのです。下の写真は経家と福光小次郎の墓がある墓地。大木はタブの木とか。地元の人たちが大切に守っておられます。この日は経家の430回忌記念法要の日でしたので、地元の人たちがテントを張り飲み物や食事などの接待をしておられました。左側の山は鳥取城がある山の裏側です。

            吉川経家と石見福光不言城の音楽劇   (「石見詩人」への随筆より)

 物不言城(ものいわずじよう)(今は不言城(ふげんじよう)という奇妙な言葉に本で出会ったのはずいぶん前のことだが、いつも気になっていた。何か面白い歴史があるにちがいないと思った。あるとき、古事記の神話に由来がある と石村勝郎さんが書いているのを読んで、ますます興味をそそられた。
                                                                  信長の命を受けて、秀吉が西日本へ攻めて来たとき、鳥取城を「喝え殺し作戦」で落としたことは知っていた。そのときの城主(城番)が吉川経家だと知ったのは後のことだった。経家が福光不言城の城主だったことも、その後になって知った。
                                                               7年前のある日、鳥取市歴史博物館が「天正九年鳥取城をめぐる戦い」という本を発行した記事を新聞で目にした。何かの役に立つだろうと考えて、その資料集を注文した。経家の手紙や遺書なども載っている貴重な本だった。

 昨年の五月、福波小学校のある保護者がぼくに会いたいというので、劇研「空」の会合へきてもらった。山本さんという若い夫妻が部屋に入ってこられた。「さとみさんじゃない!」奥さんは高校の時の演劇部員。昭和61年に書いた脚本「母のおくりもの」を倉敷市民会館で上演した時の主役である。
 「福波小学校が来春閉校になり、その記念に不言城の劇を全校で上演したいので、脚本を書いてほしい。」という依頼だった。地元に吉川経家の城跡があるのにほとんどの人が知らない。郷土のことを少しでも知ってもらいたい。教育的な効果も考え劇にして発表したいという。
 ぼくは不思議な感覚に襲われた。この日のために資料を集めさせられていたのではないか、という気がしたからだ。

(経家の墓地にある案内版です。このあたりは以前は田んぼでしたが、いまは住宅が建っています)
 

更に資料を集め、実地見学もして、「経家最後の手紙ー不言城の子どもたちへー」という三十ページ近い脚本を書いた。1年生を含め全校25人が楽しく参加できるように劇と群読と合唱から成る創作音楽朗読劇である。歌詞は二つ作り、作曲は仁摩の菅森容子さんと大田の長坂行博さんに頼んだ。

 経家は切腹の前日に七通の遺書を書いている。切腹直前には福光不言城にいる4人の子供たちへ書いている。子供が読めるようにひらがな書きである。鳥取城内には逃げ込んだ農民を含め四千人がいた。城山の周囲は三万の兵で取り囲まれ、城内ではあらゆる物を食べ尽くし、人肉も食べたと「信長公記」にある。経家は自分に責任があると切腹を秀吉に申し出て開城を求めた。

 9月23日に中四国詩人会大会が鳥取市で開かれ、いい機会だったので資料に出てくる地名や地理を確認した。風景が浮かばないとセリフも深まらない。井上嘉明さん、手皮小四郎さんなど現地の詩人にも詳しい話を聞くことができてうれしかった。9月23日に鳥取から不言城見学へ30人の人が来られた。24日の夜には温泉津で懇親会がありぼくも出席した。10月4日には大田からも30人近くの人が経家の430回忌記念法要が鳥取市の真教寺で行われ、参加した。

 大人が演じてもいいほどかなり高度な脚本だったが子供たちは先生や保護者の支援や指導を受け、セリフを短期間で覚え、立派に演じ、二百人の地域の人や保護者に大きな感動を与えた。小学生だから、という既成概念を持たなければ、子供たちは無限の力を発揮する。2月13日には温泉津公民館祭りで上演し、3月6日には鳥取の中ノ郷小学校で上演、3月20日には福波小学校の閉校記念行事でも上演するという。

 鳥取や岩国では吉川経家を知らない者はほとんどいない。経家は鳥取の恩人だと鳥取の人は言う。しかし大田では知る者はわずかである。脚本をお送りした鳥取の詩人、手皮小四郎さんは手紙の中で次のようなことを書いておられた。
 「脚本はすはまさんの誠実さが溢れたお仕事と拝察いました。(略)いつの間にか吉川経家は岩国中心になっているように映り、妙な感じでいました。その意味でもこのシナリオは意義深いものがあります。(略)学生時代経家の墓は田んぼの中にぽつんとありました。樹と墓は昔のままです。二基あり、一つは福光のものと記憶しています。(略)今後とも御地で経家を発信され広めてください。吉川広家の手紙、とりわけ子供たちへの手紙は御地の宝だと思います。」
 

不言城は家康が関ヶ原で勝ち天下を取ると廃城にした。人の手が加わっていないので発掘すれば貴重な山城として保存価値があるにちがいない。吉川関係の一族は全国に住んでいるので不言城へ来てみたいという人も多いにちがいない。今回は小学生用の脚本として書いたが、大人用に書いて上演したらさらに迫力がある。何よりも経家の心情は現代にも十分通じる普遍性を持っていることが強い。

 経家や不言城のことは思わぬ形で発展して行きそうな予感がする。  (以上です)

 温泉津公民館では昨年5月から今年の1月まで、温泉津いろは楽校公開講座「不言城と吉川氏に関わる歴史浪漫」を月1回の割合で開催してこられました。講師は石見銀山世界遺産センターの目次健一先生で、実地見学なども数回ありました。館長の今田善行先生をはじめ元大田高校教師の明楽文教先生など錚錚たる歴史の研究者がおられ、質問でも相当深いものが飛び出してきました。ぼくは3回しか参加できませんでしたが、それでも貴重な話を聞き資料をいただきました。

     (鳥取城址から鳥取市内を眺める。画面の右側を遠望すれば日本海が見える)

 この経家の講座と福波小学校の劇は元々関係ありませんが、まるで関係しているような結果になったのも不思議なことです。2月13日(日)の公民館祭りでは、9時30分から鳥取や岩国の専門家の話があり、10時30分から福波小学校の劇が上演されます。10日の14時から準備やリハがありますので手伝いに行こうと思いますが、このような形で公民館で一般の人たちを対象にして発表することになったのも不思議な気がします。

 この脚本が欲しい人があればお送りします。 自家印刷自家製本ですが読んでいただけるとうれしくおもいます。経家のPRになりますので。キボウサットウ!ということになれば製本だけでもたのまねばなりませんがありえないもうそうをいだくとしではありません。ちいさないんさつかいしゃをおこしたいのがむかしからのゆめですがもうあきらめています。

1/27,1/31,2/1 「琴の鳴る浜」練習報告です

遅くなりましたが、報告をします。連日寒い日でした。山間部は50㌢~1メートルくらい積もっているのではないでしょうか。27日は発声練習をして子供たちと善作さんの場面を台本を持って練習しました。ゆいさんがきてからは踊りの振り付けをしてもらいました。都合がわるくミヤさんは欠席でした。

1/31(月)は練習日ではありませんが、音楽の長坂先生と伊藤さん、事務局長、それにすはまくんで音楽と舞台進行とのすりあわせをしました。二場の終わりに新しく2分弱で演奏をいれることになりました。ここは時間の経過もありますので、それを表すこともありますが、たっぷり演奏を聞いてもらおうということです。長坂先生が新たに作曲されます。

 3場については最初の歌「うましところ」を「いろはにほへと」の曲でアカペラで歌う事になりました。仕事をしながら歌うという設定です。また人麿の歌は5,6人の子供たちが舞台の袖の中で歌う事にしました。歌の二番ではお琴さんの声も入ることにします。実際はどうなるか若干検討の余地もあります。

2/1(火)は3場と2場のを台本は持たずにやりました。地頭、琴さんは仕事で欠席、サトハナさんはインフルエンザ、豊さんは雪、種さんはカジなどのため代役でやりました。ラストシーンは若干セリフの追加変更を残していますがミカンさんがしっかりと気持ちを込めて表現し、緊迫感がでました。

次の日は舞台を使ってやる予定です。変更もあり得るのでいつも注意しておいてください。

12日19時~                                                         16日19時 仁摩から子供たちも来ますので盆踊り場面第一です                        19日13時~17時                                                    20日9時30分~16時

 どの場面を集中して練習するかについては詳細をその内プリントします。17日の夜のステージも使えるそうです。各人の都合によっては、特定場面の集中稽古も可能ですが、話しあって決めましょう。

 新年おめでとうございます。天気がよくて昨日までの天気が嘘みたいです。                                               今日は2月3日。夜は子供場面の稽古です。今日は旧正月です。

2/6大田で佐藤洋二郎さんの文章講座と講演

 大田市文化協会主催で佐藤洋二郎さんの文章講座と「沈黙する大田の神々」と題して講演があります。昨年はテノール歌手で大田市出身の田中公道さんを招いてワークショップを開いています。大田市文化協会が大田市から委託されて昨年から行っている文化事業です。興味のある人は参加してください。

 佐藤さんは今までの数回大田で講演をしておられます。一番最初は大田高校の文化祭での講演です。前の晩に歓迎会を仁万屋で開きました。しまね文芸フェスタの講演を大田で開いたときにも講演していただき前夜祭を仁万屋で開き同級生だった竹越市長にも出席していただきました。

 静間公民館での講演は神話についてでしたが、とても詳しいので驚きました。日本人のルーツを求めて全国の神社や離島をかなり訪ねたと言っておられました。それは「沈黙の神々」という本になって出版されています。大田の静間や五十猛に伝わる神話も出てきます。

 日大芸術学部の教授でもある佐藤さんには「実践小説の作法」という本もあります。これらの本は手軽に読めてとても参考になります。その他にたくさん小説があります。大田や温泉津を舞台にした小説もあり大田市にとって貴重な作家です。

 都合がつく人はぜひ参加してください。受講料は無料です。普通こういう講演や講座で無料ということは滅多にありません。ありがたいことに大田市が全面的にバックアップしているから可能なのです。あれこれといそがしいけどかかりもあるのでしゅっせきします。おおだでもしょうせつをかくひとがでてくればおもしろいですね。

大田市民会館耐震補強計画説明会2/2(水)19時~

 「第2回大田市民会館耐震補強計画説明会」への参加案内が新聞のチラシに入っていました。2月2日19時から市民会館2階の第一会議室です。誰でも参加できます。教育委員会生涯学習課ではこの機会に市民会館のあり方や大田の文化活動について大いに意見を聞きたいという姿勢です。出席できない場合は、事前にFAXなどで意見を寄せてほしいとチラシに書いてあります。どうぞ送ってください。

 このチラシを見る限り、立て替え案については触れられていません。最新情報がないので、すでに内部ではほぼ決定しているのかも知れませんし、「市民会館の中長期的なあり方」のなかに含まれているのかもしれません。

 1月21日付けの山陰中央新報では具体的な数字をあげて報道しています。従来おおざっぱに立て替えなら40億円と説明され、もっと数字の内容を具体的にだしてほしいと説明会でも要望していましたが、この数字は市議会全員協議会で説明されたときのものです。これによると新築建て替えの場合、市の実質負担額は17億4千万円だそうです。

 建て替えか補強か。財政問題がからむので単純ではありません。しかしお金の問題だけで決定するのは愚の骨頂です。お金なら安いほうがいいに決まっています。何もせず解体すれば解体費だけですみます。その後の経費も不要です。しかしそのうち出雲へ家を建て出雲の学校へ子供を通わせる住民が増えるでしょう。医者や教育者や文化人は逃げて行くでしょうし大田へ来ないでしょう(現に兆候進行中)

 教育や歴史、文化、芸術が充実していないところに人は集まりません。子供や人を育てるためには教育や歴史、文化、芸術の豊かな土壌が必要なのです。

 音楽や演劇や各種団体の責任者として大田市民会館を使用し全国大会や中国大会、県大会など大きな催し物を開いた人はよく分かっています。「広い駐車場があり充実した施設設備を備えていれば大きな大会が開催でき大きな効果が派生する」と。長期ヴィジョンを建て、うまく利用すれば今の大田市民会館は最も有利な条件を備えています。耐震にしろ建て替えにしろこの長期ヴィジョンがないとやることなすこと中途半端に終わります。

 市議会議員でこの問題を文化の問題としてとらえている人は数人です。ほとんどの人は財政上の問題としてとらえています。ほとんどの市民もほぼ同様でしょう。

 写真の右端の茶色い3階建ての建物は勤労青少年ホームで、市内の多くの文化団体が利用していますが平成24年4月以降は使用禁止になり解体されます。さて文化団体はどこで活動するのやら。左の建物は消防署です。報道によるとそのうち9号線近くへ移るそうです。跡はどうなるのやら。

 さて、さて、さて、そうすると、市内のど真ん中に広い空地が生まれます。約9000平方メートルあるそうです。さて、どうするのか。文化ゾーンとして長期計画を立てて欲しいと質問した議員もいました。こういう人が増えると大田の未来には夢が生まれます。子供が利用する教育施設や市民会館などを含む文化施設のゾーンができないものか。福祉や健康のために邑智にあるようなプールや健康施設が一緒になってもいいんじゃない。と金も責任も先もない者は好き勝手なことを書いていますがなんとなくむなしくなってきたのでここらへんでやめます。

 

「琴の鳴る浜」練習報告です1/24,1/25

 寒さは依然として続いています。大田市内では雪はすぐ溶けますし連続して降らないので路上に積もることはありませんが、2度前後の寒い日が続いています。山間部では積もっているでしょう。

(写真は馬路の琴が浜です。曇っていたので関係のない近景の植物ばかり目立って街や浜辺は煙がかかったような写真になりました。電柱は引き抜きたいけどそんな力も罰金を払う金もありません)

 25日(木)は2場の立ち稽古を第一会議室でやりました。インフエンザ罹患中のハナさんや雪に閉じ込められている豊さんやカジで手が抜けないお種さんの役はオコトサンが代役で務めました。地頭と家来と村人の場面を2,3回やりました。ヤッサンは衣装を着けてきました。さーすが。台本も持たずに気合いをいれてやりました。ヤマネさんが元気のいいお茶目な百姓女を面白く表現して演じてくれました。面白くなりそうです。

 台本を手放さないと身体の表現はでてきませんし目線による表現ができませんので、劇として一番大切な練習ができないということになりますが、もう少し台本を持って立ち稽古をつづけましょう。

 1/24(月)はスタッフとの会議がありました。修平さんも出席してくれて助かりました。キンチャンはじめ二人の女性スタッフ、ハヤシタムラサンです。やっさんが作成してくれた舞台の模型図を見ながら台本を確認し検討していきました。

 昨年の12月の空の会議では上手に小屋の一部をつくり、下手に船をつくろうと話し合いました。吊り物の飾りではなく実際の立体的な船と小屋です。それを受けてやっさんが考えて、模型をつくってきてくれたのです。しかしSSが使えない。上手の袖から出入りができない。上手の観客には小屋が見えない。と反対が出て、賛成する声もなく、最後には引っ込めました。しかし舞台の道具は飾りではなく使うものだという基本的な考えは劇を演じ創り演出する者には譲れないところがあります。難しいところですね。空だけでやっている訳じゃないので。

 ステージを使って練習する日にちも話し合いました。次を予定しています。

2/12(土)19時~、                              2/16(水)19時~、                              2/19(土)13時~17時、                              2/20(日)9時30分~16時(これは渡した予定表に記入済みです)

 

画期的な前進ー第32回島根県文学館推進協議会の報告

 平成23年1月21日、松江の旧県立博物館にある県文化国際課分室で標題の会議が開かれました。島根県に文学館をつくろうという運動は12年前からはじまり今日に至っています。この日の会議では大きな前進が報告されました。それは3月までに、文学資料の収集と保存を検討する検討委員会を立ち上げることが決定したことです。

 平成22年10月19日に文学館推進協議会の役員7名が溝口島根県知事に面会し要望書を提出しました。その主な内容は次の通りです。①審議委員会の設置 ②専任職員の配置 ③開設場所の確保

 これらの要望に対して溝口知事は①の審議委員会の設置に対して、「検討協議会」の設置を約束されました。その後県の生活環境部長から池野誠代表に「検討協議会」の立ち上げについて相談したいと連絡があり、役員4名が生活環境部長や担当職員と協議しました。

 その席で環境部長から平成23年3月までに検討協議会の構成を決定して、来年度から具体的に「収集、保存、展示」の活動について協議を開始したいという見解が示されました。

 12月2日の島根県議会本会議で松江市選出の福田正明県議会議員がこの件で質問しておられます。それに対して溝口知事は次のように答弁されました。「島根の歴史・美術・芸能の分野と同様に、島根の文学文芸は大きな地域の財産であり、官民一体となった文学文芸の振興に取り組んでいきたいと考えている。年度内には、検討内容や構成メンバーを決定した上で、官民一体となった検討組織を立ち上げるよう準備を進めていく。」(山陰中央新報12月26日 しまね県議会だより)

 (何で急に松江の風景が飛び込んでくるんだ!気分転換?ノーノー。松江大橋の向こうに島根県文学推進協議会が行われた旧県立博物館があるのです。しかしそれは見えません。見えないのに何故だすのだ )

 トップが決意を言葉にすると決定的ですね。すぐ具体的に動きはじめます。しかしここに至るまでに12年かかっています。その間、実績を積み上げてPRし県民の理解をえるためにいろいろな活動をしてきました。山陰中央新報の理解と協力で「人物しまね文学館」を長期に連載してもらい本にして出版。現在は「続・人物しまね文学館」を週1回連載中です。今年の11月中旬までに50数名の文学者や文人を取り上げます。資料や作品の展示、入沢康夫氏を招いての講演やシンポジュームも大好評でした。溝口知事も展示を見て回られ講演会にも出席されました。

 平成21年2月2日には溝口知事を囲む会が開かれました。「溝口善兵衛島根県知事を囲む島根県文学館構想を考える会拡大例会」(ながーい) 島根の俳句、短歌、川柳、詩、散文、それに学識経験者も参加して知事に県内の文学の様子や要望を話しました。知事はいつものように穏やかな笑顔で聞いておられました。(推進協議会側の出席者は池野、芦田、寺本、石原、高橋、加藤、富田、洲浜、松本、長谷川、高田、小川、寺井、竹谷のみなさんでした)溝口知事は挨拶のなかで要約すれば次のように話されました。「文学館構想は就任早々から聞いている。財政上難しいが支援はしたい。文学館構想は粘り強く進め、県民に関心をもってもらうことが大事である。県立の他の施設のように関心が強くなっていくとうまくいくだろう。」

 この運動のスタートは12年前でした。故澄田知事に陳情した時の様子が新聞にでましたので紹介しておきます。

 これからどのように発展していくか楽しみです。県内の同人誌や古い文献、貴重な本などをこつこつと収集していけば貴重な文化資源になります。文学全集や専門書たくさんそろえていて家では迷惑がられている人も多いはずです。どのように収集していくかはこれからの問題ですが年月をかけてこつこつと積み上げていくことが大切だと思います。池野さんは、民間の協力が重要になるので文芸協会としても話し合っていきたいといっておられました。

 今までほとんどの人がこの財政難の中で実現は不可能だと思っていたはずです。そういうなかで池野会長は夢を実現するために粘り強く先頭に立って引っ張って来られました。また役員の皆さんも何度も会議を開き議論しながら進めてこられました。改めて敬意を表したいと思います。

 島根文学館のことがどうなっているのか気にかけている人はたくさんいます。そういう人たちのために近況をまとめてみました。12年で一歩前進しました。その一歩は画期的な一歩です。 

山城さん、寒さの中どこを歩いていますか

 昨年の12月から寒い日がつづいています。今夜は零度以下です。この寒さの中で山城賢治さんはどこを歩いておられるのでしょう。寒々とした外の景色を見ながら、いつも山城さんのことを思います。

上の写真は平成22年11月17日に五十猛で修平さんが写したものです。山城さんはこんなスタイルで大田を出発されました。山口、九州と歩いて行かれたのでしょうけど、今どこでしょうか。九州でしょうか。もう沖縄のどこかを歩いておられるのでしょうか。

山城さんはインドへ三年半おられました。ヨガを習得されたそうです。7月に日本へ帰り、茨城からリヤカーを曳いて歩いて大田へ帰って来られました。11月の始めに電話があり、久しぶりにお会いしました。お世話になった山本くんや修平さんにも連絡して、ナゴヤで楽しく語り酒を酌み交わしました。その数日後に大田を出発されたのです。

数年前、劇研空で演劇の基礎訓練をしていただいたこともありますし、石見銀山の民話を音楽劇にした「鶴」では、演出もしていただきました大田高校の演劇部員だったそうですし、東京では演劇で役者や演出家として活躍しておられました。独特の感性や深い思考力を持っておられたので、インドへ行かれたということを聞いた時には、やっぱり、という気がしたのを覚えています。

リヤカーを曳いて野宿をしながら歩いておられるのですが、いろいろな出会いがあり楽しいことがたくさんあると言っておられました。上の写真は了解を得てここへ載せています。

次の記事は同じ日に「しまにちタイムス」の記者がインタビューして掲載したものです。うまくまとめてありますのでここで紹介させていただきます。この新聞は月刊ですが大田市の公共施設に置いてあります。とてもいい情報を載せていますのでぜひ手にとって読んでみてください。

やましろさーん!毎日毎日寒いけど大丈夫ですか?気をつけて旅をつづけてくださいね。体調に気をつけるのはもちろんのこと、交通事故などにも気をつけてくださいよ。また話を聞かせてください。

https://stagebox.sakura.ne.jp/wp/?p=1979 「おつかれさまでした、山城賢治さん」