北浦正信さん地域開発社会賞受賞

2011年10月8日の山陰中央新報で今年の山陰中央新報社地域社会賞受賞者5名を発表しています。20日には受賞式が行われました。ちょっと紹介させていただきます。実物を読みたい人は10月20号を買ってください。

 それぞれ長い間地域社会へ貢献してこられた尊敬すべき人たちです。その中に45回社会賞を受賞した北浦正信くんが載っています。むかし益田に県立益田工業高校という高校がありました。その時の機械科3期生3年3組の卒業生の一人が北浦くん。なんんと担任がすはましょうぞうくんでした。しょうしんくんおめでとう!

卒業して東京の大手企業に勤めていましたが、好きな写真はずーっと続けていました。会社をやめて写真専門家に。帰郷して写真館を開業するとき、名前をどうするかとくんちゃんと一緒に我が家へ来て相談しながらおおいに語りのみました。写真の腕も立派ですが、今回の受賞は30年近く益田市で少年剣道クラブを指導し、子供たちとヴォランティア活動をしてきたことに対して贈られたものです。

自分の仕事をし家族を養うだけでも立派なことです。その上に30年も子供たちのために尽してきたのですから頭があがりません。都会にでている同級生でこれを読む人がいたらお祝いの手紙でも書いてください。あのクラスは元気が良くとてもまとまった活発なクラスでした。学期毎に文集をだしたり、クラス内駅伝大会やスポーツ大会を開いたり・・・県工の校舎はいまどうなってるんだろう。

2003年には浜田尚くんが48回スポーツ賞を受賞しました。邇摩高校時代も水泳で大活躍しましたが、社会人になってもほぼ毎日水泳の指導をしてきました。先日も会いましたが、毎日指導しているそうです。すごいことです。たかしくんを邇摩高ではたんにんしました。これぞまさに「出藍の誉れ」ですね。

「好きなことをして、人の役に立てて、食えれば最高の人生」といいます。「食える」のは無理にしても、「人の役に立つ」ことは最高の人生です。

斐川の農民詩人 高田正七

山陰中央新報が2010年10月1日から毎週金曜日に文化欄で続「人物しまね文学館」を連載しています。前期は終わり本になって出版されています。「続」で、詩人高田正七さんを担当することになり、2ヶ月近くかけて高田さんのあらゆる著作を捜し、読んで年表を作成、151号まで出ている個人詩誌『二十五年』(約半数は所有、石見詩人の高田さんからも借用、欠番は県立図書館で閲覧)を読んで重要なことは書き抜いてノートを作り、やっと5月末に脱稿しました。

(『二十五年』の第一号、貴重な詩誌です。近所の小学校の美術の先生だった周藤吉宏氏がガリ版で切って印刷。小さな字でもとてもきれいに書いてあります。しかし昭和40年代の印刷物は号によってはめくると紙が砕けそうになります。それだけに貴重です)

斐川のスダさんと一緒に故高田正七さんの家を訪ね長女の早苗さんから貴重な話しも聞くことができました。斐川の図書館に問い合わせても高田さんの詩集や寄贈書はないとのこと。島根の有名な詩人であり、詩集や残された蔵書は貴重な文化財産ですが、高田さんを詩以外の分野では知る人はほとんどなく、蔵書も行方不明です。とても残念なことです。そういうこともあり、ここで紹介します。ほとんどの人には関係ない記事ですが、正七さんのことを調べたいという人もきっとあるでしょう。そういう人の参考になれば幸いです。新聞には字数の制限があり細かいことはほとんど書けませんので、そのうち「島根年刊詩集」か「石見詩人」にでも書いて記録として残しておきたいと思います。次の文章は新聞掲載原稿前のもので、少し詳しく書いた部分も残っています。

 

高田正七  夢追い続けた農民詩人 洲 浜 昌 三
高田正七は築地松に囲まれた斐川の農家に生まれ、生涯、詩に夢を追い求め続けた農民詩人である。
50歳までは島根の詩活動にはほとんど関わらず、中央の高名な詩人が主宰する詩誌へ投稿して詩を書く「一匹狼」であった。
晩年には県内の活動も重視し詩人連合の理事も務めた。修行僧のように一日一作を課して詩を書き、個人詩誌『二十五年』を毎月発行、詩集を3冊、『島根年刊詩集』を7集まで発行したり、高田敏子、郷原宏、荒川洋治など有名詩人を呼んで「島根の詩祭」を敢行するなど詩の普及と向上にも意志的に貢献した。同時に、その裏では多大な出費や借財という犠牲や詩人、詩人団体との軋轢などもあり心労も大きかった。

長身で蓬髪、剣道5段。肝っ玉が太く行動力に富む豪毅な性格であったが、同時に人一倍繊細で気弱な一面も同居していた。詩人で評論家の松永伍一は、高田の生き様を「詩の鬼」という言葉を使い、「一念貫徹の姿勢は今の若い人には時代錯誤だと受けとられがちだが、日本を見まわしてもこういう愚直な詩人の姿は見出せない」と評した。

1913年(大正2)高田正七は現在の斐川町美南で父・忠四郎、母センの長男として生まれた。父は幼い正七を背負って村々の神社で朝まで舞われる秋祭りの出雲神舞にいつも連れて行った。そういう刺激が音楽や絵、芸能を好み立川文庫をあさる少年に育てた、と高田は書いている。読書好きで早熟な文学少年であった。当時人気があった『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』『日本少年』などで佐藤紅禄や吉川英治など著名な作家の小説や、大人向けの小説なども読みふけった。小学校4年のとき野口雨情に刺激されて詩を書き先生からほめられた。鴎外や漱石、蘆花、啄木、芥川、トルストイ等の文学作品も意欲的に読んだ。軍国主義の風潮が強まっていく中で、高田は学校で疎外感を味わっていたが、詩への期待や希望は失わなかった。

大正の終わり頃から昭和の初期にかけて白秋、八十、雨情などを中心に新民謡という創作民謡が盛んだった。高田もこの影響を受けて新民謡を書いた。 イタリアのヴァイオリン名器・ストラデバリゥスを購入するほど音楽好きだった高田は昭和6年、兵庫の同人誌『詩と音楽』に加入したり、大関五郎の『新日本民謡』や西条八十の『蝋人形』、前田鐵之助の『詩洋』へ高田秀子などのペンネームで詩を投稿した。島根では宮田隆、吉儀幸吉、甲山まさる、岡より子も詩の投稿者であった。
(正七さんは音楽や劇などがとても好きで、長女の早苗さんは度々松江の公会堂へ連れて行ってもらったという。カルメンなどのオペラは今でも覚えているという。また近くの斐川西小学校で劇や音楽会などを開き、連れて行ってもらったという。高校の時にはヴァイオリンも習っていて島根大学の音楽の先生に指導してもらったら、「あなたはあまり上手じゃないけどこのヴィオリンはとても立派なものですね」と言われたという。中にはイタリア語でちゃんとストラデヴァリウスと書いてある)

旧制中学を経て農学校を18歳で卒業すると「文学で食ってやろう」と考え大阪へ飛び出した。大阪には叔母がいた「人は『わがまま者』と言ったが、その頃誰にも依存する精神を持たなかった。」(『二十五年』7号)。「勝先生に歌謡指導を受けていておほめにあずかり自信満々、中央に希望をつないでいた」(99号)。
1936年に大阪の女学校を卒業したばかりの意中の女性と結婚した。「泥ひとつ付けたことのない人がその後泥まみれになって苦労した」と母のことを長女の早苗さんは語っている。秋山清を知って現実に立脚した農民詩を書き始めたのもこの頃であった。

日本が戦争に突入すると、島根にも翼賛詩人会が結成され、松江放送局では詩の朗読を流し高田も参加した。朗読に参加した石村勝郎は次のように書き残している。「ひげを立てた和服姿の詩人が来た。高田という人で婦人名で詩を書いている奇人だった。」高田は戦争の詩を朗読する気にならず、無関係な百姓の詩を朗読した。
昭和18年9月、高田にも招集令状が来た。勝承夫に遺言状に近い手紙を送り、満州の興安北省のハイラルへ行った。砂漠に近い極寒の地であった。父と妻あてに詩を書いたハガキを出した。22年5月に復員してそのハガキを手に取ると、ほとんどの字が墨汁で消されていた。防諜暗号だと思われたのであった。
敗戦を迎えて、「精神は颱風の目のように悶えつづけ」「残ったのは不信と孤独と哲学だった」(19号)いっきに空白を埋めるかのように詩の本を探して読んだ。翌年に詩誌『文学集団』が発行された。選者者は憧れの村野四郎。渇を求めるように詩を書いて送り、毎回入選した。 ペンネームは高田無。精神が無だったからつけた。『若草』や『詩洋』、秋山清の『コスモス』にも詩を書いた。昭和27年には村野四郎の推薦で北川冬彦の『時間』の同人になった。東京の村野や北川の家を訪問したのもこの頃である。米や干し柿を持参したのも百姓として精一杯の礼節だったにちがいない。

満51歳の誕生日を期して個人詩発行を決意した。余命を25年と想定し『二十五年』と命名。美術教師・周藤吉宏がガリ版で切りわら半紙で約百部印刷した。月刊を厳守、151号まで発行した。創刊号には秋山と勝の詩を載せた。高田は「拡暁」という詩を載せた。

「濃い霧が地上からうすらぐ/そよとも動かない水面/かわいい苗が葉の先を出し//苗代で/あえいでひしめきあったくつろぎを/一本立ちした生命に/小さな自信をみなぎらせている//苗を目の前でかぞえ/寝ころびを直してやる/水を引いて飲ましてやると/もう新緑でうずまった森の中で/かっこうの声を聞く//晴切った高い天/すっかり生きかえった今日の朝/冷え切った腹の底へ/竹藪の筍の味噌汁を流しこもう」

(家の前から甘南備山方面を望む。左側の建物がもと牛小屋で、書斎に改造した4畳半くだいの部屋(窓があるところ)。今は農機具置き場になっている。当時は家の回りは築地松で囲まれていた。また鉄道線路との間に建物はなかったという)

牛小屋を改造し、図書館のように本が積まれた板敷きの部屋で毎晩詩を書いた。
豪華な詩集『風土記』上、中、下巻を立て続けに出版した。表紙は民芸紙に手織り木綿張り、中身は手すき和紙、A5変形縦長版という類を見ない凝った詩集であった。

高田の詩は叙情や主観、観念を排除し言葉を即物的に置いていく独特のスタイルである。作者の主張や思想は排されているから詩を読む面白さには欠けるが、冷静に読めば言葉と言葉のすき間からにじみ出てくる風土の滋味や気配が立ち上がってくる。

黒田三郎は、「決して安易に自分の感情を表に出そうとしない」「謙虚に風土自身、生活自身をして語らせている」と新聞で評した。 山本太郎は、「見え隠れする地霊の気配、アニミズム~情念が観念語をまじえずに思惟を宿すというデリケートな詩精神が独立した個性にまで育とうとしている」と序に書いた。

上巻は農民文学賞次点、中巻も候補になったが、力を持ちながら詩の世界で光りを浴びることなく、1977年(昭52)11月23日、斐川の病院で他界した。64歳だった。予定した75歳と夢はまだ先にあったが、幼い時に抱いた夢を追い、独立した個性を我がままに貫き通した生涯だった。

10月に病床を見舞った帆村荘児は、高田が「念願の詩誌発行」について目を輝かして語ったという。同年配の県内の詩人たちと「水の詩人の会」を準備中であった。

※水の詩人の会についてはほとんど知られていない。高田正七さんは、帆村、宍道、杉谷、甲山、田原氏などと新しい同人誌を作るために会合を開いていた。それは新しい夢だった。

次の新聞は当時きり抜いて保存しておいたものです。膨大な書物があったのですが、それを奥様が寄贈されたときの報道です。それが今はどこにも見あたらないとはどういうことなのでしょう。どこからかでてくることを祈りましょう。

次ぎに新聞へ載ったものを紹介しておきます。読みたい人は山陰中央新報の2011、6,10の文化欄でどうぞ。ここでは字は小さくて読めません。

続「人物しまね文学館」は11月ころまでつづきます。ぼくが担当する人は次の通りです。終わるまでにあと30人くらい島根に関わる文人が登場します。読みたい人はどうぞ山陰中央新報を買ってよんでください。(引用したので気が引けてPR?)

邑南町田所出身の小説家・小笠原白也。近日中に掲載されるはずです。益田の詩人田原敏郎(原 敏)さん、邑智郡川本の生まれで3歳の時に長崎へお母さんと移住、詩人として活躍され44回H氏賞を受賞された高塚かず子さん。一度お会いしました。思わぬことをたくさん聞くことができました。津和野に在住の詩人中村満子さん。たくさんのすばらしい詩集があります。昨年土井晩翠賞を「十三番目の男」で受賞した浜田の詩人閤田真太郎さん。

高塚かず子さんや中村満子さんについてはまだまだ知らなければいけないことがたくさんあります。参考になることがあれば教えてください。

 

5/22(日) 島根県詩人連合総会です

平成23年度の理事会と39回総会が大田市パストラルで開催されます。理事会は10時30分から、総会は13時から14時30分です。

その後は「島根年刊詩集」39集の合評会を開きます。39集の詩を朗読して、お互いに感想などを語り合います。自分の詩がどのように受け止められているか知ることができ勉強になります。昨年は広島から岩さんがひょっこり参加してみんなを驚かせました。合評会は誰でも参加できます。

議題は行事報告、決算報告、今年度の行事予定、予算などです。今回は特別な議題として、続「島根の風物詩」の発行計画について話し合います。

島根県詩人連合は「山陰詩人」「石見詩人」の会員と個人会員で成り立っています。年間会費は一人2千円です。若い人で詩を書く人がほとんどいませんので、これが大きな課題です。詩を書きたい人はいませんかね。

コーラス「ここは石見、琴が浜」の楽譜PR2

 創作音楽劇 「琴の鳴る浜」で歌われる楽譜を紹介します。本番でのコーラスはフレンズ彩、サウンドコラージュ、大田少年少女合唱団、大田高校合唱部、60人以上のみなさんです。

 ここでコーラスが聞こえてくるといいですね。作曲は長坂行博先生。格調高い絶唱です。楽譜が読める人は歌ってみてください。

 ついでに「しまにちタイムス」に掲載されたゆいさんの記事を紹介します。この新聞は月刊タブロイド判ですが、大田市では公共機関に置いてあり、自由に読むことができます。無料ですから、すごい。

画期的な前進ー第32回島根県文学館推進協議会の報告

 平成23年1月21日、松江の旧県立博物館にある県文化国際課分室で標題の会議が開かれました。島根県に文学館をつくろうという運動は12年前からはじまり今日に至っています。この日の会議では大きな前進が報告されました。それは3月までに、文学資料の収集と保存を検討する検討委員会を立ち上げることが決定したことです。

 平成22年10月19日に文学館推進協議会の役員7名が溝口島根県知事に面会し要望書を提出しました。その主な内容は次の通りです。①審議委員会の設置 ②専任職員の配置 ③開設場所の確保

 これらの要望に対して溝口知事は①の審議委員会の設置に対して、「検討協議会」の設置を約束されました。その後県の生活環境部長から池野誠代表に「検討協議会」の立ち上げについて相談したいと連絡があり、役員4名が生活環境部長や担当職員と協議しました。

 その席で環境部長から平成23年3月までに検討協議会の構成を決定して、来年度から具体的に「収集、保存、展示」の活動について協議を開始したいという見解が示されました。

 12月2日の島根県議会本会議で松江市選出の福田正明県議会議員がこの件で質問しておられます。それに対して溝口知事は次のように答弁されました。「島根の歴史・美術・芸能の分野と同様に、島根の文学文芸は大きな地域の財産であり、官民一体となった文学文芸の振興に取り組んでいきたいと考えている。年度内には、検討内容や構成メンバーを決定した上で、官民一体となった検討組織を立ち上げるよう準備を進めていく。」(山陰中央新報12月26日 しまね県議会だより)

 (何で急に松江の風景が飛び込んでくるんだ!気分転換?ノーノー。松江大橋の向こうに島根県文学推進協議会が行われた旧県立博物館があるのです。しかしそれは見えません。見えないのに何故だすのだ )

 トップが決意を言葉にすると決定的ですね。すぐ具体的に動きはじめます。しかしここに至るまでに12年かかっています。その間、実績を積み上げてPRし県民の理解をえるためにいろいろな活動をしてきました。山陰中央新報の理解と協力で「人物しまね文学館」を長期に連載してもらい本にして出版。現在は「続・人物しまね文学館」を週1回連載中です。今年の11月中旬までに50数名の文学者や文人を取り上げます。資料や作品の展示、入沢康夫氏を招いての講演やシンポジュームも大好評でした。溝口知事も展示を見て回られ講演会にも出席されました。

 平成21年2月2日には溝口知事を囲む会が開かれました。「溝口善兵衛島根県知事を囲む島根県文学館構想を考える会拡大例会」(ながーい) 島根の俳句、短歌、川柳、詩、散文、それに学識経験者も参加して知事に県内の文学の様子や要望を話しました。知事はいつものように穏やかな笑顔で聞いておられました。(推進協議会側の出席者は池野、芦田、寺本、石原、高橋、加藤、富田、洲浜、松本、長谷川、高田、小川、寺井、竹谷のみなさんでした)溝口知事は挨拶のなかで要約すれば次のように話されました。「文学館構想は就任早々から聞いている。財政上難しいが支援はしたい。文学館構想は粘り強く進め、県民に関心をもってもらうことが大事である。県立の他の施設のように関心が強くなっていくとうまくいくだろう。」

 この運動のスタートは12年前でした。故澄田知事に陳情した時の様子が新聞にでましたので紹介しておきます。

 これからどのように発展していくか楽しみです。県内の同人誌や古い文献、貴重な本などをこつこつと収集していけば貴重な文化資源になります。文学全集や専門書たくさんそろえていて家では迷惑がられている人も多いはずです。どのように収集していくかはこれからの問題ですが年月をかけてこつこつと積み上げていくことが大切だと思います。池野さんは、民間の協力が重要になるので文芸協会としても話し合っていきたいといっておられました。

 今までほとんどの人がこの財政難の中で実現は不可能だと思っていたはずです。そういうなかで池野会長は夢を実現するために粘り強く先頭に立って引っ張って来られました。また役員の皆さんも何度も会議を開き議論しながら進めてこられました。改めて敬意を表したいと思います。

 島根文学館のことがどうなっているのか気にかけている人はたくさんいます。そういう人たちのために近況をまとめてみました。12年で一歩前進しました。その一歩は画期的な一歩です。 

12/12「島根文芸」入選者表彰式 松江で開催

 平成22年度の第8回島根県民文化祭の一環で文芸作品を公募していましたが入選者がすでに決定しています。22日13:30から松江の島根県職員会館で表彰式が行われます。表彰式では、今年は詩部門が担当なので島根県文芸協会会長として挨拶しなけれ                          ばなりません。そのあと、詩、散文、俳句、短歌、川柳の5部門に分かれて撰者による入選作品の講評や参加者による合評会があります。「島根文芸」にすべての入選者の作品が掲載されます。一冊千円ですが、上の写真は昨年の表紙です。

 今年度も発行されます。希望者は購入できますので申し出てください。今年の5部門の入選者を紹介します。

 詩では知事賞に江津の有原一三五さん、金賞に雲南市の小林延子さん、銀賞に大分県の川上鴨さんと出雲の金築雨学さん、銅賞に邑南町の大山博子さん、佐田光子さん、出雲市の佐野正芳さんでした。佳作も発表されますが今は手元に資料がありません。またいつか紹介しましょう。川上さんは松江の生まれで、詩集もあるベテランです。有原さんも特異な詩を書かれるベテランで、今年の春に詩集の贈呈を受けました。今は山陰詩人同人です。大山さんと佐田さんは我がふるさと田所で活躍中の歌人であり詩人です。いつも田所を代表して地域色のあるいい詩を書かれるので毎年楽しみです。

 参考までに昨年度の入賞者を紹介します。

 島根の文芸の発展のためにますます頑張ってください。入賞おめでとうございます。入賞式が終われば今年度の様子を紹介しましょう。文芸のことなど紹介してくれるところがほとんどないので劇研空のブログで紹介しました。

 昨夜は市民会館で市民会館の耐震工事の説明会があり出席しました。利用者団体は立て替えを市長へ要望しています。12月1日にぼくも市長への要望の場に出席しました。今後まだ市民への説明会や検討会が開かれます。これまでの様子もそのうち紹介します。

 12月12日は9時から青少年ホームの大掃除です。来ることが出来る人は来てください。これないひとはこなくていいです。しまねぶんげいとかんけいない。

藤原俊彦先生の歌集「いのち輝く」紹介

 この歌集は平成22年10月1日の発行です。娘さん夫婦が自分たちで作成された手作りだそうです。5年前に第一歌集「春峡集」を出版されたとにもお贈りくださり人間性豊かな歌を味あわわせていただきました。

 藤原先生は浜原の出身ですが大田高校では演劇部員として活躍され、昭和28年3月に卒業しておられます。昭和36年3月に広島大学医学部を卒業、41年に大学院を修了博士号を取得、44年8月から大田国立病の産婦人科医師として長い間勤務され平成3年に辞職、広島市西保健所長に就任され、広島の人になられました。

 大田におられるときには、あそか幼稚園や大田高校のPTA会長もされました。次男ののりお君は理数科で教えました。チアキちゃんも我が娘と同級でした。のりお君が生徒会長のときぼくが演劇部のために書いた脚本「エメラルドグリーンーおれたちのふるさと-」の劇中歌を作曲してもらいました。いい曲でした。今もメロディーが流れてきます。

 藤原先生は高校を卒業した年の昭和28年6月に「山陰アララギ」に入会されたそうですから実に長いキャリアがあります。323首中の最後のページの短歌を紹介しましょう。

 長男のつぐお君が広島でフジハラレディースクリニックを開き先生は顧問として就任され今年7月にはそこで1000人目の命が誕生したとか。先生もこの春草津病院の副院長を退職されたそうです。浜原には100歳のお母さんがご健在です。

 歌の最後がそのお母さんの歌だというのもいいですね。広島に住んでも島根ナンバーの車で19年間走り回ったと言うのも先生のふるさとへの愛着が伝わってきてほのぼのとした余韻がと何とも言えないユーモアが伝わってきます。一冊の歌集を通して先生の一生が小説を読んだように一本のストーリーとなって浮かんできます。

 先生、長い間おつかれさまでした。我が娘も先生の手でこの世に誕生しました。いい歌集を読ませていただきありがとうございました。

 大田高校演劇部が島根県代表として中国地区大会へ行き、出来たての真新しい「アステールプラザ」で「星空の卒業式」を上演したとき、わざわざ楽屋へ差し入れと祝儀を持ってきてくださいました。いつまでも忘れません。

大田の佐々木寿信さん、詩集と歌集を出版

 平成22年1月に詩集「行雲流水」と歌集「春岬」が同時に川崎市の株式会社てらいんくから発行されました。詩集は221ページ歌集は128ページでページ数はありますが価格は歌集1200円+税、詩集1400円+税です。手に取り安い単行本です。

 佐々木さんは大田市五十猛町在住。長い間童謡や詩や短歌を書いてこられました。童謡では2004年に「きりん」で三木露風賞最優秀賞を受賞されています。童謡集も出版されています。

 2005年12月8日にはNHK教育テレビで感動的な番組が放送されました。「童謡が支えてくれた~統合失語症と歩んだ40年~」です。佐々木さんの純粋な心や周辺の人たちの思いやりが自然な姿でドキュメンタリーとして記録されています。インターネットで検索すればNHK ONLINEにそのときの記録がうまくまとめてあります。

 佐々木さんの童謡は島根出身の作曲家、吉岡政夫さんや大田市在住の竹下千歳さんなどの作曲や編曲で歌になり、CDにもなっています。インターネットで視聴することも出来ます。ぼくも持っていますが、購入当時はいつも車の中で聞きました。素直で技巧のない純粋な言葉とそれを引き立てる曲はとても素敵でした。竹下さん姉妹による歌や合唱も心をあらわれます。今でもメロディーが頭の中を一人歩きします。

 上の短歌は最後のページから転載したものですが、佐々木さんの情にあふれる純粋な想いが素直に伝わってきて読者の心の中に温もりや何となく切ない様な哀しさを残します。

 詩は様々な作品が載っていますが自分の内面を率直に語った詩がたくさんあります。佐々木さんをよく知っている人が読めばいろいろな感慨が湧いてくることでしょう。

 詩集や歌集は上記の発行所へ注文してもいいでしょうが、インターネットでは手軽に注文できます。大田の本屋さんには残念ながらなかったですね。

 佐々木さんと初めて会ったのは佐々木さんがまだ20代のころです。詩を書いたので読んで欲しいと言われ、一緒に詩について話したことがあります。その後詩集やCDを出されるといつも贈っていただいています。

 もっと早く紹介しようと思っていたのですが、半年遅くなってしまいました。佐々木さんは童謡や詩や短歌などを創作することで生きる力を内面に蓄えてこられたのですね。上の写真は短歌集から紹介させていただきました。笑顔がとっても素敵です。

 佐々木さん、ありがとうございました。これからもますます素敵な作品を創りだしてください。

多彩な作家81人を収録 『人物しまね文学館』刊行

 平成8年10月から約1年半にわたって山陰中央新報文化欄で毎週掲載されていた人物評伝が立派な本になって刊行されました。柿本人麻呂から現在活躍中の作家や文人など81人を収録しています。

 新聞では1200字前後、人物によっては⒉週掲載、されました。

 原稿用紙約3枚で偉大な業績を残している作家をまとめるのはとても大変な仕事です。評価が偏ったり、普遍性がなく個人的過ぎたら、その作家に泥を塗ることになりますし、あまりにも表面的、一般的過ぎる評伝ではおもしろくありません。事実関係で間違わず、正当な評価をし、新しい独自の視点からも評価し、いかにして生涯像を浮かび上がらせるか。みなさん苦労されたにちがいありません。

 執筆者は島根県内で活躍中の文学関係者35人です。新聞連載中から切り抜いて保存していますが、ほとんどの評伝が素晴らしいできばえです。コンパクトにしかも的確に人物を紹介してありますので読んでもおもしろいのですが、辞典として利用しても大いに役立ちます。

 県内の書店では販売していますし、山陰中央新報関係の販売店などでも販売しています。どうしても入手できないという人はご連絡ください。10冊くらいはいつでもお送りできます。

 

 5月1日には県民会館で文学作品や雑誌などの展示会があり多くの人が来られました。貴重な初版本などもあり大いに刺激になりました。

 午後1時からは「島根の文学風土と文人たち」と題してシンポジュームが行われました。会場はほぼ満員の盛況でした。詩人の入沢康夫さんの講演が先立って行われました。先生は作品を書くときの「距離のとり方」の重要性を話されました。とても示唆に富む話でした。ここでは書く暇がありませんので、いつかどこかで紹介します。

 シンポジュウムの写真だけをここでは紹介しておきます。

 シンポジュームでは溝口島根県知事も来られて挨拶をされました。シンポジュームでは最後までおられ、忙しい中4時間以上も聞いておられました。トップのこういう姿勢はありがたいことです。

 長いを時間かけて展示を準備され、シンポジュウムを成功させられた関係者のみなさんお疲れさまでした。毎月の話し合いや準備会があり直前には毎日準備されました。

 詩の代表としてお手伝いをしなければいけなかったのですが、毎回松江へ行くのは大変で、協力できませんでした。会を引っ張っていく池野会長のような存在や、地道にこつこつと仕事を進められた小川事務局長のような人たちがおられたからこそ実現したものです。

 夕方6時からは入沢康夫先生を囲んで県内の詩人6人で懇親会を開きました。以前も少人数でこういう会を開いたのですが、入沢先生はこの会をとても楽しみにしておられるようです。

 参加者は田村のりこさん、光年の田中螢一さん、川辺真さん、渡辺兼直さん、洲浜昌三さんと入沢先生でした。先生の詩集にサインをしていただきました。兼直さんが安来節を歌い、洲浜さんが石見銀山巻き上げ節を歌いました。

 またやりましょう、といって別れました。その夜は松江に泊まり、翌日は美術館で高句麗の壁画と浮世絵を見て帰りました。(実験中ブログ、いくぞ、えい!)

21/9/26 中四国詩人会 島根大田大会終わりました

中四国詩人会大田大会1
 大田市のさんべ荘で開催した第9回大会は無事に終了しました。大会参加者は約60名、四国や山陽の岡山、広島から沢山さんかしていただきました。

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