大田市民会館で9月12日に計画していた劇研「空」主催、第11回「朗読を楽しむ」は、中止します。検討した結果、新型コロナの予測できない広がりや、影響を考え、残念ですが思い切って決断しました。その代わりに、島根文化振興課が企画している映像をによる発表に参加する予定です。創作朗読劇『海を越えてサヒメの山へ』を朗読と作画で録画します。三瓶山の伝説です。
この写真、何だかわかりますか。車?ノー、大田高校前にある記念碑です。「学校が原爆病院になった日から45年」と書かれています。臨時看護婦として、原爆被爆者を看護された皆さんが、忘れてはいけないと考え記念樹を植え、この小さな碑を建てられたのです。75年前の8月、校舎に大勢の被爆者が運ばれ、地元の人たちが世話をしました。当時の記録や手記を集め、9月12日に朗読や映像で発表する予定でした。中止しましたので、ここにその一部を紹介します。当時の体験者がほとんどおられなくなり、どんなことがあったのか知らない人が大多数です。
昭和20年4月10日、旧制大田中学校、大田高等女学校は広島第一陸軍病院の分院に指定され、7月末までに約1200人の軽症者がいました。8月6日原爆投下、広島の第一陸軍病院では、軍医や看護婦、下士官兵、軍属など564人いましたが、475人が死亡しました。8月9日大田へ軍人負傷者約300人が運ばれ、11日には更に重傷者約300人が運ばれてきました。大田の婦人会、警防団員、一般市民、女学校生は臨時看護婦として世話をしました。汽車で大田駅に着いた被爆者は、「軍衣はボロボロか全裸、全員ハダシ、血まみれの者、顔面が黒く脹れた者、目玉が飛び出た者、皮膚がズルズルとむけて両腕を前に垂らした者、全身火傷でウミが流れている者、それにハエが群がっている姿」を見た地元民は度肝を抜かした、と記録にあります。女学生や中学生はほとんど学徒動員で学校にいませんでしたが、25名の女学生は臨時看護婦として働きました。その一人だった勝部さんに体験記を書いて頂きました。『星空の卒業式ーあの日学校は原爆病院だったー」を大田で上演した時のパンフレットと会報6号に掲載しました貴重な文章です。PDFで紹介します。興味がある人はどうぞ。
R2. 「命の尊さと平和」勝部信子 (劇研「空」会報第6号より転載)
いつか発表したい希望はあります。関係資料や手記など、ご存じの方はお知らいただくと幸いです。ご存命の方もいらっしゃると思います。またお父さん、お爺さんが直接体験しておられる方もいらっしゃることでしょう。迎えに大田まで来られた人たちもたくさんおられるはずです。日記や文集などに書いておられる人もあるかもしれません。貴重な記録は、受け継ぎ、次の人たちへ手渡していきたいものです。
(ブログ 劇研「空」 お知らせ 演劇だより 20200812 劇研「空」洲浜 )