大田の相生橋のたもとに芝居小屋・「相生座」(あいおいざ)がありました。80代の人たちは実際に劇や踊りを観たことを懐かしく語られます。70代の人たちは、名前はよく覚えておられますが、記憶は霧の彼方です。相生座は、昔の山陰道に面していて、当時この一帯は大田の繁華街、文化の中心でした。記憶を再現し地域の輝きと誇りを取り戻すきっかけになることを願って、「一日限りの相生座」公演を行います。
主催は「相生座実行委員会」「大田文化プロデュースネットワーク」。劇研「空」も出演、協力します。チケットは一般1000円、小中学生500円です。欲しい人はご連絡ください。そのまま当時のことを再現するのは不可能ですから、似たような演目で再現し、相生座の歴史を振り返ります。
相生座のことはあまり分かっていません。記録がないのです。「大田市史」にも一行もありません。実行委員会のみなさんで調べていますが、具体的な資料が少ないのです。県立図書館の新聞や浜田市立図書館の新聞も調べましたが、大田の記事はほとんどない。以前、大田は島根の文化の谷間、とよく言われましたが、実感しました。島村抱月の「芸術座」が大正6年8月21、22日に松江座で松井須磨子主演の「復活」や「剃刀」を公演していることは「山陰新聞」に出ていましたが、大田の公演は書いてありません。出雲の偕楽座で公演し、実際に観劇したことを岡より子さんは「日本海文学」7号に書いておられます。そのあと、大田の相生座で上演したはずですが記録がありません。日記や文集などに誰か書き残しておられませんかね。(下の写真 相生橋の向こう側の大きい建物が相生座です。今は旧職業安定所の建物が眠っています)
戦後の記録はある程度残っています。慶応大学教授だった恒松安夫氏(のちの県知事)が一時期大田へ帰っておられて、石東文化協会を設立。その中に、音楽(村上碧先生指導)や文芸(「たんぽぽ」「詩世紀」「風鳥」など発行)、演劇(のちに三瓶座)などもあり、敗戦後、県下でも早い時期に先駆的な文化活動を繰り広げました。大田高の合唱や演劇が活発だったのも、その影響があります。プロの俳優、勝部義夫さんや、バレエの石田種生さんなどにも影響を与えました。亡くなられた白石昭臣先生は、「大田高校60年史」の中で、「大田のルネッサンス」というタイトルで書いておられます(惜しい人を失いました!)この時期の資料やパンフレット、写真など持っておられる人はありませんかね。貸していただければ最高!です。
相生座の内部です。当時は大森、久利、久手、鳥井などそれぞれの町村に芝居小屋があり、集会や娯楽、芸能発表などの中心でした。
相生座は明治の終わり頃に、杉岡興芸社を経営していた杉岡福三郎氏が建て、座元だったそうです。しかし、明治、大正、昭和初期の記録はほとんどありません。昭和32年頃になくなったと推測されますが、正確なことは不明です。実行委員会としては、できるだけ資料を集め、記録として残しておきたいと思っています。今回のイベントの目標の一つです。美しい花の種は過去の土の中に埋もれている かも、です。
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山陰中央新報社が出している「新聞に見る島根の100年」に抱月の公演について、大田で公演したと一文出てきます。
この公演は松陽新報社の興行によるもので、ライバルの山陰新聞は酷評した、とあります。
松陽新報は県立図書館にマイクロフィルムがありますから、何か記事があるかもしれません。
やはり一回は県立図書館にいかないと行けませんね。