平成25年の一月から始まったNHKの「八重の桜」は絶好調です。会津藩のことをこれだけじっくり描いたものを見たことがなかったので、新たな発見や感動にいつも出会います。
9月時点では八重は新島襄と結婚しました。西洋の文化をしっかり身につけた新島襄と会津の武士道の精神を受け継いだ八重との出会いも実に新鮮で面白い。信義を守って徳川の最後のたてとなり、朝敵という汚名を着せられ、明治、大正、昭和になっても「会津者」といわれたという無念な思いが伝わってきます。よく作られていて役者もみなそれぞれの役を立派に演じていて、いつも次が待ち遠しい。
さて、島根の大田と会津は遠く離れていて、何の関係もないように思えますが、それが大ありなのです。最近でこそ松本一直さんの研究が、松本さんの講演などで少しは知られるようになりましたが、知らない人のほうがはるかに多い。
この度大田市中央公民館が企画して「吉永藩」(41ページ、編集委員長 山内俊雄)が発行され、3回に分けて講演会が開かれました。ぼくは2回だけ参加しましたが、何かの参考になればと思い、紹介します。表紙の風景は大田市川合町で、その山裾に吉永藩がありました。
会津藩は蘆名氏、上杉氏、加藤氏、保科氏(保科正之は家光の異母弟、後に松平)と支配者は替わっていますが、加藤氏の時代にお家騒動が起こり、加藤明成は40万石を返上、長男・明友が一万石で石見大田の吉永へ来たのです。
会津から日本海を経て大田の大浦の港へ上陸しています。徳川の直轄地、石見銀山領のうち20ヶ村を加藤氏に与えていいます。吉永記には一緒に来た150人以上の武士の名前が記されています。物部神社にも残っています。
明成は大田で他界していますが、会津から農業、畜産、医学、土木などの専門家を連れてきましたので、大田の農業土木などに与えた影響は大きく、三瓶山の放牧は加藤氏の時代にはじまったといわれています。
加藤氏の治世は嘉永2年(1643)から天和2(1682)までの40年間でした。その年の6月19日、藩主・明友は五代将軍綱吉から滋賀県の水口藩2万石へ移封を命じられています。
加藤明成の父は加藤嘉明で秀吉の家来として活躍、四国の名城・松山城を作った武将で、築城の名士としてよく知られています。
「吉永藩」の本には大田での実績や記録がよく記されています。このような資料が発行されると、それを読んで更に調べたいという人が出てくるでしょう。また会津藩や水口藩のことを調べていて、加藤氏の時代を知りたい人には大いに参考になることでしょう。先人の研究はありがたいものです。小説や脚本を書く場合にも大いに役立ちます。
編集委員は次の方々です。岩根了達、山内俊雄、和田秀夫、伊藤静稔、田平隆司。発行所は大田市立中央公民館。神々の国しまね実行委員会の助成を受けた事業です。
会津から海路、石見に上陸したのは「大浦」でなく「波根」と聞いたことがあります。吉永に至るには波根の方が近いようにも思うのですが。
返信が遅くなりました(一年も過ぎているぞ!)すみません。歴史専門ではなく、歴史的素材を創作に生かすのが面白くて、講演も聞きに行きました。「会津から海路で五十猛の大浦へ上陸した」と講演で言われましたので、なーるほど、そういう道もあったのか、とそのまま受け止めました。
今、『”ハネコ”って知ってますか?』という大田市教育委員会が、文献や発掘調査からまとめた本を開いてみました。それによると、「16世紀の中ごろからおわりのころにかけて、中国で書かれた書物には、羽根と刺鹿が、浜田、温泉津、都野津、長浜、江津と並んで石見7港にあげられています」とあります。大浦港はありません。
続いて同じページには次のように書かれています。「羽根の大津、刺鹿は12世紀ころから開かれたとする説があります。その後16世紀の中頃には石見銀山が再び盛んになったこともあって、刺鹿は大田へ物を運ぶ窓口になる港として、また大津は出雲勢力と隣り合う軍事上の大切な港として重要さを増しました。しかし、16世紀の後半には陸の道が整備され、それからさびれていったようです。」
さびれた他の原因として、「砂州の切れ目にある水路が船の出入りの不自由になったり、泥がたまって湖が浅くなったり、船の大型化も考えられる」などを挙げています。1700年代には新田開発が急速にすすみ、石見銀山代官も積極的に羽根湖の干拓を進めています。
多分、会津から大田へ来た1600年代には、大型の船は入れないような状態だったのではないでしょうか。あくまでもぼくの推測です。
五十猛の大浦港は石見銀山の必要物資を運んだり、北陸から仕入れたりする北前船の寄港地として、1700年代半ばの記録にも残っていますので、吉永に近い港として使われた可能性は高いのではないかと思います。あくまで素人の推測です。いつか専門家にあった時、聞いてみます。
(追記です)
本棚をさがして、「大田吉永藩関係資料」を開いてみました。いろいろな本や資料をコピーしたファイルです。その中に「石東史叢」7号で松井範政氏が書かれた「加藤公 会津若松より石州吉永へ入部」というコピーが出てきました。
それによると、経路が具体的に書かれています。例えば、会津若松ー(陸路23里)-越後津川 - (川舟18里)-越後新潟ー(海上25里)-佐渡沢崎 ・・(略)・・・出雲宇龍ー(海上12里)石見大浦港。
旧暦6月末に大浦港へ大船団は全員無事到着し、大森銀山の役人へ届け出たそうです。先遣隊の菅平左衛門は、吉永村の地頭・岡松重右衛門や多数の住民を引き連れて出迎えた、とあります。
大田に吉永藩があったことは、最近少し一部の市民に知られるようになりましたが、多くの人は、ほとんど知りません。知っていても、「吉永藩があったらしい」くらいのことです。いつか朗読劇にして紹介してみたい、と思って資料を集めていました。なんといっても会津若松40万石の大大名が大田へ左遷されて来たのですからね。全国区の問題です。何故、石州の小さな吉永村へきたのか、どんな事件があったのか。今年は挑戦してみるかな。
会津若松40万石は賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明が伊予松山から転封になりましたが、その子の代に一旦改易になります。しかし、嘉明の関ヶ原の戦功を以て孫が1万石の大名として石見吉永に入封しました。
時はすでに銀山の採掘量が減少した頃で、人夫も減り、幕府としては米が余剰になっていた時期です。加藤氏が吉永1万石から近江水口2万石に転封後は安濃郡の米は廻米として長崎に送られています。幕府としては他の大名を減封する必要もなく、格好の場所だったのではないでしょうか。勝手な想像ですが・・。
先祖は吉永藩(川合藩?)で御典医をしていたと我が家の古い文献にあります。名前は今村友遷、明国から来た幕府の客人で陳元ピンが大森銀山に視察に来たとき、通訳をしたとの記載があります。(当時は漢方医が漢字を使って通訳)
この文献はどこで手に入れられるか或いは拝見できるか教えてください。
出身は邑智郡美郷町都賀本郷で、現在広島市に在住です。
拝読して一か月も過ぎていました。すみません。先祖の方が吉永藩の御典医だったという記録が家にあるんですね。もしかしたら、会津から一緒に来られたのかもしれない、と思い調べてみました。物部神社には、吉永藩の記録が残されていて、その一部は,島根県史や、郷土の研究誌に書かれています。会津から大田へ来たときの150人の名前も記載されています(男だけですが)、その中には、今村友遷という名前はありませんが、地元の医者だったのかもしれませんね。ぼくには知識や資料がないので、いつか専門の人に聞いてみます。
気楽に書いたブログから、こんな興味のある広がりが生まれるとは楽しいことです。ちゃんとした記録や資料があれば、いいですね。
初めまして、丸洋一と申します。当ブログに発信されている渡邊さんと州浜さんとそれぞれ別件で交流し始めましたことから、このブログで今村さんのお話に興味が湧き一筆します。
(1) 今村さんのご先祖の記録から、いつ頃の話かという見当がつく材料があるかどうか。
(2) 今村幸子というお名前にお心辺りがあるかどうか。
という2点について、お差し支えなければご教示いただけると幸いです。
私は松山市に住んで47年経ちますが、郷里は吉永藩のど真ん中である大田市川合町吉永の出身です。大田高校卒業まで住んでおりました。30年ほど前から家の古いことを調べ始め、友人からは’因縁教’というあだ名をもらっていますが、松山に来て松山城に行ったとき因縁を感じました。加藤家初代加藤嘉明が松山城を築城した場所に来て、出世して40万石になった会津には戦病死した父の次兄の遺族が会津に帰ったこと、2代明成の失政で3代明友が1万石の捨扶持で与えられたのが吉永であったことでした。近くになる善林寺というお寺の地に藩館があったと聞いていました。
(1) 吉永藩の藩医と言えば、記述されたものは岩谷碧順が挙げられ、岩谷九十老という石見の偉人の7代前の当主の弟がそれで、加藤家が近江水口藩に国替えになったときに一緒に移住したと伝えられています(江戸での子孫の巌谷小波が書いています:岩谷九十老伝記)
当時吉永村には土江家という医業を家業にしておられた家があり、中でも土江自仙は当時『吉永記』という書き物を残しています。(この家はずっと医業で続いており、私より4~5歳下の息子さんが最後でした。)州浜さんが触れておられる家臣団150人の名前もそこにあったと思います。また、医師土江自仙は医師でありながら、藩医については何も記述していなかったと思います。
そのような中で藩医は1人とは限りませんし、水口移住時期には岩谷碧順が藩医だったのかもしれません。今村さんのご先祖今村友遷さんは、水口にはついていかず地元石見で医業を続けられたのではないかと思います。
今村幸子さんは、私の母の父方従姉妹(邑智郡)になる方ですが、益田市で開業されていた今村という方に嫁がれました。今村さんの地元都賀村は同じ邑智郡ですのでひょっとしたらご関係があるかもしれないと思いましたのでお尋ねしています。都賀村には古い親戚の調査で伺ったこともありますし、吉永村を通過する国鉄の石見大田発のバスには「都賀行」とあるものがあり馴染みの名前です。
申し遅れましたが、私は昭和15年4月生まれの84才ですので、残日はあまり残っていないことを申し添えます。
丸洋一
渡邊さんと州浜さんとの最近の交流から、けがの功名でこのブログにぶち当たりました。今村さんのコメントに触発されてお尋ねしています。できれば、今村さんのお宅にある文書の写しを見せていただけると幸いです。理由は以下に記します。
キーワード;吉永、藩医、邑智郡、今村医師
1.吉永藩藩医
川合村(大田市川合町)にかつて石見の偉人とされている岩谷九十老という人がいましたが、彼の6代前の四郎左衛門義敬の弟吉左衛門碧順という人が医師として吉永藩の藩になり、水口移住にも追随し維新後は東京に在住、その子孫の巌谷小波および息子でで文芸評論家だった巌谷大四が出ているという記録が残っています。
四郎左衛門は1681年(元和9)に亡くなっていますから、加藤家が水口に移住した1682年ころにはかなりの老齢だったと考えられます。今村さんのご先祖が藩医になられたとすれば、加藤家が吉永に来た1644年時期には吉永村には土江家という医師がいましたから当初土江家が藩医になり、最後の1682年頃に藩医となった岩谷碧順までの間のことではないかと思われます。
今村友遷さんの没年や行年は判りませんか?
2.邑智郡都賀村
私も古い歴史を辿って都賀村あたりにも行ったことがありますが、あの辺りは国道375号線で江川沿いに浜原は近いですし、浜原の青杉城には後に大田城に移った佐和家もいたはずです。したがって、ご先祖は邑智郡、安濃郡、那賀郡など南朝方残党の居住した地域で偉業を行われたのではないかと推測しますがいかがですか。
3.今村医師
私の母は邑智郡出身ですが、従姉妹で今村という医師の方に嫁がれています。戦後、益田市で医師を會ぎょす荒れていた今村さんという方にお心当たりはありませんか。
お尋ねしたいことは以上ですが、何かでヒントがあるかもしれないのでお尋ねしています。私は松山市在住ですが、出身は吉永藩のど真ん中で、川合町吉永に高校卒業までいました。留守宅もまだあります。家から川合町寄りに300mも行けば、旧吉永藩の藩館があったと言われるお寺があります。子供の頃の遊びの範囲内にあります。
松山に来てから、松山城(加藤嘉明)-会津(加藤明成)-吉永(加藤明友)
と因縁を感じています。父の次兄が戦病死したため、昭和19年以来遺族は母方の福島県へ去られ、2男の家族は現在会津にいるというわけです。
さらに言うと、『吉永藩』の編集員の内、山内俊雄君は小中高も一緒で2年下でしたが、その俊足ぶりは今でも目に焼き付いています。また、田平隆司は私の甥で、昨年急逝しましたが、私の留守宅に住んでおりました。因縁の重畳です。
因縁が結び付くとよいのですが、よろしくお願いします。
丸洋一
今村様、今日は。丸洋一と申します。大田市川合町吉永で高校卒業まで過ごしました。古いことを調べていまして、偶々ブログを見つけましたが、渡邊さん、州浜さんともに最近それぞれ別件で交流があります。
ご先祖の今村友遷様が吉永藩の藩医であるとの投稿を見て、2,3調べてみました。
(1) 川合村の岩谷家から、藩医として吉左衛門碧順という人物が水口移封の際随行し、維新後は東京へ出て、子孫で、著名な童話作家である巌谷小波(さざなみ)が出ています。巌谷自身が調査と島根県教育会が出版した『岩谷九十老正伝』に基づいて『米安大明神』(子供向け)および『石見尊徳―岩谷九十老伝』を出しています。巌谷は系図により岩谷、岩舎などともあります。
(2) 甲賀市教育委員会によれば、
「加藤家若松在城諸臣人名石高并ニ石州随従者氏名_但卒以下付属ヲ除ク」(114頁上)に、吉永から水口に付き添った家臣の中に、岩谷、今村という姓がありますが、藩医かどうかは不明です。
また、幕末にまとめられた「分限帳」に、「岩谷立的」(巖谷小波の祖)、および「今村忠治」という名前が出ていますから、この両者は幕末まで存続していたことになります。
当面、この程度ですが、今村友遷さんの記録および「今村忠治」という人物の存在の有無を知りたいところです
丸洋一