島根県音研大会で仁摩小中学 『琴の鳴る浜』上演

2012年11月9日、大田市で第30回島根県音楽教育研究大会が開かれます。大田小学校では午前中研究授業、午後から市内の学校の「研究演奏」があり、そのあと大田市出身の田中公道先生の講演があります。この研究演奏は「ふるさと大田 今昔物語」というタイトルで北三瓶小・中学校の太鼓演奏や池田小学校の「田植え囃子」、大田一中吹奏楽部の演奏、3年生の合唱、そして仁摩小6年生と仁摩中2年生が短縮版の朗読と音楽による『琴の鳴る浜』(20分)を上演します。 昨日、10月30日、仁摩中体育館で合同練習をするという案内があり行ってきました。仁摩小は32人、仁摩中は42人。「鶴」を上演したときにも出演していただいた段先生が指導されました。実に感動的な指導で、生徒たちが上達していくのを目の当たりにしました。2時間近くの練習でしたが、学ぶことが大いにありました。生徒たちもよくがんばっていたのも印象的でした。ミヤケ先生の話だと、語りや朗読はまだ2回しかやっていないとか。これからの様子でした。福波小学校が上演した「経家最後の手紙」(劇研「空」も関わった)に出演した生徒もいるとのことでした。最後の1分をもらい、言葉による表現について話し、実際に一部を朗読しました。
 「琴の鳴る浜」を県音研究大会で発表することになったいきさつですが、平成22年にぼくらが大田市民会館で初演したあと、一中の竹下先生から、この音楽劇を生徒たちに県音研で上演させたいので短縮版を作ってほしい、という依頼がありました。昨年末から作曲の長坂先生とぼくと一中へ数回行き、どのように上演するか話し会いました。4月以降、何回か会議にも呼ばれて参加しました。舞台つくりと照明、音響は市民会館のスタッフが担当します。ぼくは脚本と当日の進行用ナレーションを頼まれて作成しました。中学生が二人で司会を務めます。11月7日には合同リハーサルが行われ、参加します。
 数年前、仁摩中学校にヨシヤ先生がおられたとき、必修クラブが文化祭で劇を発表するために脚本を依頼され、数回指導に行ったこともあります。昨日行くと、体育館は新しく建て替わっていました。以前は上の写真で駐車場になっている場所にありました。

帰りに邇摩高校の前を通り、大国から大森へでましたが、途中で写真をパチリ!建設中の山陰道です。いつ完成するんでしょうね。左の山の山頂はなぜ掘り返されているんでしょうね。どういう山なんかな。

11月9日の仁摩小、中学校の発表を楽しみにしています。がんばって下さーい。

 

 

投稿者:

suhama

1940年、島根県邑智郡邑南町下亀谷生まれ・現在、大田市久利町行恒397在住・早稲田大学教育学部英語英文科卒・邇摩高校、川本高校、大田高校で演劇部を担当、ほぼ毎年創作脚本を執筆。県大会20回、中国大会10回出場(創作脚本賞3度受賞)主な作品「廃校式まで」「それぞれの夏」「母のおくりもの」「星空の卒業式」「僕たちの戦争」「峠の食堂」「また夏がきて」「琴の鳴る浜」「石見銀山旅日記」「吉川経家最後の手紙」「父の宝もの」など。 著作:「洲浜昌三脚本集」(門土社)、「劇作百花」(2,3巻門土社) 詩集「キャンパスの木陰へ」「ひばりよ大地で休め」など。 「邇摩高校60年誌」「川本高校70年誌」「人物しまね文学館」など共著 所属・役職など: 「石見詩人」同人、「島根文藝」会員、大田市演劇サークル劇研「空」代表、島根県文芸協会理事、大田市体育・公園・文化事業団理事、 全国高校演劇協議会顧問、日本劇作家協会会員、季刊「高校演劇」同人、日本詩人クラブ会員、中四国詩人会理事、島根県詩人連合理事長、大田市文化協会理事

「島根県音研大会で仁摩小中学 『琴の鳴る浜』上演」への2件のフィードバック

  1. 琴の鳴る浜・・・他でも上演されるのはうれしいですね。見に行きたいところですが、そうもいきません。銀山テレビで放映されるといいのですが、部分的でしょうね・・・。

    左の山は庵寺古墳群ですね。
    仁万の湿地を見下ろし、遠くに韓島を望む、石見地方最大級の前期古墳群です。http://www.pref.shimane.lg.jp/maizobunkazai/maibuninformationboard/gensetujyouhou/23gensetu.data/23andera.pdf
    高速の建設予定地にもなっています。

  2. 庵寺古墳ですか。以前聞いたことはありましたが、あんな高い所にあるんですね。サンドミュウジアムの近くにも小高い丘の上に坂灘遺跡があります。邇摩には奈良時代に国庁があったと言われていますが、発掘や研究は進んでいません。今後貴重な発掘がありそうですね。

    11月15日の新聞では、「大田の庵寺古墳群 『刳抜式木棺』埋蔵の跡 古墳時代前ー後期 石見地方初の発見」という見出しで発掘の様子を報道しています。丸太の内部をくりぬいて作った木棺で、石見地方では初めてたとか。弥生時代(一世紀)の高知性集落も見つかっていて「高所に住居を構えねばならなかった事情があったのだろう」と県埋蔵文化財調査センター企画員深田氏の推測談話も載せています。

    大きな道路工事が進む度に、島根では眠っていた貴重な遺跡が出てきます。当時は海岸端や沼地は洪水や津波など自然災害に襲われるので、一段と高い山の斜面などに住居を構えていたのでしょう。日本海側は大陸からの玄関口としていろいろなものが入ってきたことでしょう。仁摩には潮川、天河内が流れていて上陸するにはいい場所だったのかも知れません。

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