51回全国高校演劇八戸大会のことは以前書きましたが、ここでは「演劇創造」105号(全国高校演劇協議会発行)の講評から、ニュース性はありませんが記録として参考になる場合もあるかと思って紹介します。
演劇創造には鴻上尚史、内山勉、オーハシ ヨースケ、三輪えり花、大久保寛、溝口勲、洲浜昌三の7名の講評が載っています。その中から僕のものを載せます。字数制限があり簡潔な講評です。他の審査員の講評が読みたい人は僕の手元に105号がありますのでコピーも可能です。いつものことながら多角的な見方が視野を広げてくれ、とても勉強になります。
審査員講評
演劇とは何だろう 洲浜昌三
八戸市は初めての町だった。土地の人達は少し控え目だが人を信じている大らかさと素朴さがあり故郷に帰ったような懐かしさがあった。三日間心配りが行き届いた温かい大会だった。
十一校の劇を観て様々なことを考えた。芸術は形式と内実(容器と中身)とのせめぎ合いである。内実は常に型を壊し新たな表現様式を獲得しようとする。
唯一意識的に型も追求した伊達緑丘高校の劇はとても貴重な挑戦だと思った。
一見不条理劇に見えながら割り切れない秩父農工科学高校の劇は、どんな容器にあの豊富な中身を盛ろうとしたのか。その不明確な技法にもわかりにくさの原因があったと思うが不思議な魅力にあふれた劇だった。
刈谷東高の発表は、素材を造型し小宇宙を舞台に創るのが劇だと思ってきた僕には衝撃的だった。演じる意識を排除し素材朗読だけに徹したパフォーマンスは、一人芝居や朗読劇とも違う。演劇の枠を意図的に排除し内実を見せようとしたのか。挑戦を受け「演劇とは何か」と考えつづけた。
高校演劇は観客もほぼ演劇部員の場合が多く、教育的な配慮もあるので、集団だけに通用する自己満足に陥りやすい。それは笑いを取るための底の浅い台詞や演技、安易でご都合主義的な葛藤の解決などになって表れる。
笑いも重視して観客を惹き付けようとした劇に江北高校、華陵高校、磯島・枚方西・枚方なぎさ高校、秩父農工科学高校、東根工業高校、青森中央高校があげられる。江北、華陵、秩父、青森中央の劇は「結果としての笑い」となりイヤミがなかった。青森中央の劇では更に人物の個性の違いによる色彩豊かな関係と会話が笑いを生み飽きなかった。
学園ものは六校。青森中央を除き五校の劇には程度の差はあるがどこかで甘さや安易さが顔を出した。現場に長い間いたので「そんなもんじゃない」とつい思ってしまう。
例えば高松工芸高校では、殴り込んで来て生徒に暴力を振るう他校生を若い女先生が簡単に間接技で黙らす。戯画化された劇ならいざ知らずこの劇の様式はリアリズムである。 友部高校の劇では男子不登校生が毎日自習している相談室で女子非行生を謹慎させ、先生は女生徒の事情聴取をし激しく言い合ったりする。異質な二人を閉じこめるという着想はこの劇の基盤となる重要な装置である。しかし劇とは言え僕にはこの女先生の無神経さはやりきれない。
戦争の狂気を迫力をもって舞台化した瓊浦高校、重い老人問題を軽妙なタッチと哀感で味のあるエッセイ風に仕立てた江北高校、馬を通して戦争の時代を生きた家族の悲劇を能のような手法で結晶した伊達緑丘高校、家族の問題を地域住民との広い世界に持ち込み遊び感覚を生かし笑いと涙で盛り上げた磯島…高校の劇、抽象的な世界へ引き込み自由な表現の魅力を楽しませてくれた秩父農工科学の劇等々、高校演劇の枠を越え一般の人への鑑賞も意識した作劇は貴重だと思う。
「馬を洗って…」(北海道伊達緑が丘高校)童話からの脚色で無駄がなく練られた脚本である。草原や川など多くの場面を布を使って巧みに表現したが肝心な馬のイメージ化が不十分だった。洗練された舞台だったが人物の苦悩や葛藤も詩的に抽象化された印象を与えた。コロスが説明的な台詞でドラマを進めすぎたのも一因だと思う。
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「老人ホーム ひまわり園」(東京都立江北高校)エピソードを並列したような弱さはあるがよく老人を観察しコメディタッチのエッセイに仕上げていて味があった。老人の個性をよく演じ分け違和感がなかった。高校生が老人問題へ向ける眼差しの温かさが自然に伝わってきた。
「挿話~エピソード~」(長崎県瓊浦高校)原住民を虐殺し敗戦を迎えた日本兵の苦悩をプロ(加藤道夫)が書いた濃密な劇。真正面から取り組み熱演だった。装置に南洋の島の雰囲気がよく出ていた。軽いテンポも欲しかった。冒頭とラストで回想する時点と場所が不明確だったのは惜しまれる。しかし高校生がここまでの舞台を創ったことに感銘を受けた。
「報道センター123」(山口県立華陵高校)新鮮な素材の切り口に感心した。テレビとビデオの枠と放送室を舞台に設置することで多様な表現や展開が可能になった。台詞や所作にテンポがあり心地よかった。洋食派、和食派の闘いで校内テレビを使って遊びすぎ後半の人権問題とテーマが分裂した。校内放送規定を厳しく設定し好き勝手な使用を制限すれば放送の重さが出てテーマも引き締まったと思う。
「トシドンの放課後」(茨城県立友部高校)狭い空間での三人の自然な演技には力みがなくリアリティがあった。あかねがトシドンの面を被り不登校の平野を叱責する山場では満身の思いをぶつけないと劇的な真実は生まれない。そうしたらこの劇は高質な愛の劇に異化する可能性さえあった。問題はあるがよく出来た脚本だと思う。
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「breakthrough~ガンバレ井上ひろし!~」(大阪府立磯島・枚方西・枚方なぎさ高校)地域の人がたくさん登場しその中で親子の心の交流を温かくユーモラスに描いた劇で、役者が遊びとスポーツ感覚で舞台を楽しみ観客も楽しく観た。多くの人物や場面をうまく処理していたが焦点が散漫になった面もあった。
「HRーホームルーム」(香川県立高松工芸高校)凄まじい学級崩壊の劇である。またかと思いながらここまでリアルで強烈に演じられると昇華し典型となる。明転の使い方が絶妙でクソリアリズムを戯画化し劇に高める効果があった。装置もよかった。ラストが安易な叙情に流れたのが惜しい。
「Making of 『赤い日々の記憶』」(愛知県立刈谷東高校)不登校生の手記等を淡々と交互に朗読した舞台に意表を衝かれた。脚本は複雑な仕組なのだが起承転結等の構造がないので感情抜きの朗読に埋没し立ち上がらなかった。あふれる内実が演劇の常識の型を破った…と受け止めたい。
「なにげ」(埼玉県立秩父農工科学高校)それぞれの場面が象徴的で印象に残る。装置の洞窟も暗示的。奇想天外な人物の登場も楽しく、みんな伸び伸びと演じ達者である。不登校生サッチャンの意識の世界を描いたのだと思うが、思わせぶりな抽象場面の連続で場面を貫く視点が掴めないので楽しく観ながらも消化不良が残った。
「ボクサー」(山形県立東根工業高校)ボクシングの試合で始まる冒頭は迫力もテンポもあり豊かな展開を暗示して最高だった。やがて何故か普通になった。人物間のキャッチボールより観客への意識が先行していたからだろう。特に笑わせる台詞のとき目立った。劇の素材や構成もよかったがそれを生かし切れなかった。
「修学旅行」(青森県立青森中央高校)脚本を読んだとき、人物がよく描き分けられていると思ったが普通の脚本に思えた。実際の舞台では観客を巻き込み「あっという間に終わる」すばらしい劇に仕上がったのは演出と役者の力である。「演劇とは観客と俳優とが同時に共存する場で起こるもの=作品」(鈴木忠志)そのためには何が必要かを心得て劇が創られ演出されていると思った。
生徒講評委員会の活動をの様子を担当の先生から聞いた。大会までの事前の指導が綿密に行われていて感心した。劇を観てお互いに議論し冊子にまとめるのも大変だったろうと思う。全国から集まった18人の委員の議論をまとめたためかも知れないが、講評文が抽象的な知に傾き過ぎたきらいがあると思ったが、事前に劇評の書き方の指導を受け、お互いに議論を交わす課程で自ら貴重なものを学んだに違いないと思った。(全国高演協顧問)
初めての土地でたくさんの人たちとの出会いがあり得難い経験をしました。長い間演劇に関わってきた賜です。
青森へ行くときには伊丹空港から飛行機で飛び立ちました。上空から見下ろす世界には開発され尽くした茶色い世界が広がっていました。人間はこんなに自然を痛め尽くしたのか、と思いました。しかし北へ行くほどみどりが広がっていきます。雲の上から眺める東北地方は深いみどりの海でした。人間は自然の中に住まわせてもらっているんだ、というのが実感でした。
18年は京都八幡大会。19年はいよいよ島根松江大会です。
島根の高校演劇のみなさんがんばってください。