ぼくは山陰詩人の同人ではないが、編集者の田村さんから頼まれて表題のような文を書いた。島根出身で現代詩の第一線で活躍中の入沢康夫氏の難解な詩に朗読の面から魅力を感じたという誰も書いていない視点からの一文。山陰詩人の紹介も兼ねてここに載せてみた。
詩集「わが出雲・わが鎮魂」と音楽・朗読
洲 浜 昌 三
この詩集が世に出たのは、ついこの前だった気がするのは何故だろう。計算すると三十六年もたっているのに…
ぼくが大学を卒業して三年目。「石見詩人」に誘われ、鎧兜を身につけ槍を構えて、詩を書き始めた頃である。
当時、この「わが出雲・わが鎮魂」を何かの本で読んだ時、こんなことを思った。「優しさや悲しみを何故ここまで知的操作で覆い隠すのか。ぼくには現代詩を理解する力はないのかもしれない。」
難解な詩集という評判だったし、引用された一部しか読まなかったがとても難解な詩に思えた。
入沢さんが来られるので松江へ来ないか、と六月のある日、田村さんから誘いがあった。いい機会だと思い、その他の詩集、詩論や「わが出雲」も再読した。
この時、「わが出雲」は思いがけない姿で、ぼくの目と心に飛び込んできた。「これは朗読に最高の詩集だ」と実感したのである。「高等なドラマだ」とも思った。
そこにはぼく自身の三十六年の経緯があったからである。その間、ぼくは演劇部顧問として劇作りに苦闘し、脚本を三十本近く書いて、「舞台の言葉」と格闘してきた。
舞台では言葉は「物」に負ける。脚本段階で懸命に言葉を書いても、舞台では、「無言で遠くを眺めベンチに座る老人」には勝てない。またドラマには「導きの糸」が必要だし、「同時進行性」と共に、常に「周到な仕掛け」が必要である。
「擬物語性」の装置で進行する「わが出雲」には総てドラマの要素が組み込んであると思った。「詩人と発話者は別である」のは脚本では当然のことである。
地元の演劇集団「劇研空」で朗読にも取り組んでいた。四月からは「出雲風土記」の朗読もやっていた。字面だけでは考えられないことだが、実に朗読に適している。口誦を文字にしたものだから当然だともいえる。「国譲り」の口調やリズム、反復は正にこれを証明している。
朗読では無限の組み合わせができる。ピッチ、テンション、明暗、高低、音色、間、長短、感情、暖寒、大小……。無数の組み合わせを微妙に駆使すれば思わぬものが聞き手の心に響くだろう。この詩集の最後の言葉・「意惠!」なんか最高だ。
七月十日の昼食会で、入沢さんに、朗読すれば最高ですね、と言った。入沢さんは、「音楽で言えば交響曲ですね。実際に諸井誠が作曲して放送されたことがあるんですよ。私が外国へ行っていた間だけどね。」と言われた。
この詩集には基底音があり、魅力的な破調に満ちている。 最近ぼくは不思議なことに、入沢さんの詩にも詩論にさえも、その基底に朗読のリズムを感じ取るのである。
(山陰詩人162号より)