9月4日大田高校文化祭で卒業生の日和聡子さんが「文学の風景」と題して50分講演。
その後、文芸部員4人の詩をホリゾントに投影して朗読。日和さんが感想を述べました。生徒会のいい企画でした。文化の高い大田高校ならではの催しでした。(写真は少し暈かしています。N0,暈けました。)
詩人ではなく一般の高校生(詩なんかにはほとんど興味はない)が対象なので、日和さんも何を話すか選択に困っただろうと想像します。そのあたりはよく考えて、高校時代のこと、自分の詩のことを浅くならず深くならず配慮して話されました。
ぼくが印象に残った言葉:
「私の詩はフィクションだけど嘘ではない。実感であり私の中の風景です」
「フィクションと嘘は違う。ここはこれしかないという責任のある言葉で書く」
「方言は大切にしてほしい。私にも支えになっている。故郷にいたときには当たり前だったことが、東京に住んでいると貴重な風景になってきた」
「どんなものを見てどんなことを感じるかを大切にして欲しい」
詩人としての日和さんには、田舎での色々な風景(景色だけではない)がとても強く刻印されていることが分かりました。
第2部では文芸部の和田、山田、岸、望月君(さん)がとても面白い詩を発表してくれました。散文詩やショートに近い詩ですが、受け止める感覚が新鮮で柔軟で自由なのがうらやましいほどでした。同人誌でもつくって高校生と一緒に合評会でも定期的にやりたくなったほどです。大田でも同人誌を作りたい願望は20年以前からありますが実現していませぬ。大賀敏郎校長先生(この4月より。英語が専門)からいただいたパンフレット。とても絵が素敵です。名前が書いてないのが残念。知的所有権を尊重する時代。名前はどこかに書いてほしいね。
講演が終わって市民会館の応接室で大賀校長先生、夏野教頭先生、錦織総務部長さんと日和さんと僕とで食事をしながら話しました。いろんなことを話しましたが、書ききれないので、2,3だけ書きます。
僕が大田高にいたとき、いつも島根文芸へ応募を勧めていました。日和さんが3年の時には募集案内を職員室の前の廊下に貼りました。日和さんはそれを見て、応募したそうです。この年には理数科2年に石田浩子さんがいて(上智大学の英語へ合格)とてもセンスの鋭い感性豊かな詩を書いていて、英語研究室にいたぼくのところへ来て見せてくれていました。英語の個人添削もしていましたがセンス抜群でした。彼女にも詩を応募するように勧めました。
1992年の「島根文芸25号」には日和さんの「サーカディアンリズム」が銀賞、石田さんの「砂丘」が入選に輝いています。詩部門で高校生が入選したのは初めてです。しかも大田高校から二人も。その一人日和さんはその後も詩を書き続けて第7回中原中也賞を受賞したのですから大田高にいた者として嬉しいことです。
その「びるま」は英訳されるはずでしたが、どうなったのか、とききましたら、英訳されたとのこと。どんな英語になるかと興味津々でしたが、日和さんによると英訳のとき白黒をはっきりさせなければいけないことだらけで、別の作品になったようなきがする、と言っていました。(さもありなん)
今小説も書いていますが、小説での苦労も語っていました。肉体的にも知的にもエネルギーのいる仕事ですから大変です。詩の自由さは彼女には合っていたのではないかと思います。小説は詩より自由に思えますが、実際は逆です。
「これから色々苦労がたくさんあると思うけど、体に気をつけて頑張ってください。どんな形でふるさとが作品のに出てくるかたのしみにしています」と別れました。
2006年7月31日に思潮社から出版された第4詩集(2200円)
本のデザインが面白い。開くと裁断を間違えたのではないかと錯覚する。天と左右の余白が7㎜しかない。普通は3㎝くらいある。活字が外から這い出してきて外へ這い
出して行く感覚が詩に合っている。表紙の白黒もいいのだが、字がとても読みにくいのはどうかな。金文字なので、かえって字が見えにくい。装幀はプロだから分かってそうしたのだろうけど…。
この詩集には日和さんらしい独自の詩が15編載っています。このうち12編は現代詩手帳で読んでいたけど、全て物語性があるのが特徴。故郷の原風景や事物を想像させるものがでてきて面白かった。原風景がどの様に浄化し異化し変形して一つの詩句になるかということを考えて読むのも面白かった。
今後の活躍を期待しています。
当初大田高校演劇部を応援する目的で卒業生がつくってくれたこのブログですが、日和さんの活躍も追跡発信していきます。
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