第53回「未来塾」講演会へ行ってきました。松本さんは現在は出雲市知井宮にお住まいですが、大田市の出身で、写真家でもあり郷土史研究家でもあります。大田の吉永藩(1万石)は江戸の初期(寛永20年)に会津藩(40万石)から加藤明友が来てから始まったのです。39年間大田にいて滋賀県の水口藩(2万石)へ移っています。研究が不十分なことが多く、とても興味がある郷土の研究課題です。松本さんは加藤氏の徳川幕府の要人(保科正之など)や会津藩のこと、大田市の治水工事のこと、殖産振興策など加藤しが大田に残した実績を具体的に語られました。写真のプロだけにパソコンの映像を使って説得力のある話しでした。大森銀山の研究はかなり進んでいますが、江戸初期に同時に存在した吉永藩についてはほとんどわかっていません。しかし松本さんによれば、大森代官は200石で吉永藩は1万石。格が違うそうですし、吉永藩は多くの人材を会津から連れてきて地域に貢献するとともに、大森銀山にも援助しているそうです。
松本さんの名前を最初に知ったのは、親戚に当たる東和建設工業の社長、波多野 諭さんが会社設立50周年を記念して「石見銀山」という豪華で歴史的価値もある写真集を出版されたとき、写真を担当されたのが、諭さんのおじさんに当たる松本さんだったのです。航空写真を含め多角的に石見銀山に迫った写真はすばらしいもので、いつか劇研空の発表の時スライドとして使わせてほしいと思っていたからです。
吉永藩のことについては、以前「島根の風物詩」という詩集を出すとき三瓶山のことを書くために調べたことがありました。頂上まで草原という山は阿蘇山と三瓶山しかないそうで、それが国立公園に指定された主な理由だったそうです。なぜ草原だったか。牛の放牧が行われていたからです。その放牧は吉永藩の加藤氏が始めたーと石村勝郎さんの本に書いてあったのです。そんな先駆者がいたことに新鮮な感動を覚えました。大田の住民で吉永藩のことを知っている人はほとんどないのではないでしょうか。吉永という地名は残っていますが、城や住居跡なあど何も残っていませんから。
祖父の加藤嘉明は秀吉に仕え、賤ヶ岳7本槍で活躍し、伊予松前の10万石、家康のときには20万石に加増されています。松山城は名城です。高い石垣など瀬戸内海からはこんだそうですが、土木技術に優れていたそうです。寛永4年には奥州の要衝会津40万石の大名になり、寛永10年(1631)に死んでいますが、長子である明成(よしなり)があとを継ぎ城の改修修復をやったそうですが、その経済的な負担問題から寛永16年に重臣・堀主水が反旗を翻し(会津騒動)幕府に訴えたために、40万石を幕府に返上。しかし幕府は嫡子・明友(よしとも)に石見の国吉永藩1万石を与えたのだそうです。(お家断絶にせず、新たに土地を与えたことは加藤氏の幕府への貢献を考慮したのではないでしょうか。直轄地である石見銀山を守らせる意図もあったかも知れません・・・ぼくの推測にすぎませんが・・・)
明友は39年大田にいて治水、新田開発、殖産に力を注ぎ、滋賀県の水口藩2万石に移封。水口は京都へ入る重要な守りの地点だそうです。今も立派な城が残っています。栄転です。
40万石の会津から大田へ来たとき、恐らく数百人の家来や職人やその道の専門家を連れて来ているはずです。その人達が大田に定住したり、子孫が残ったりして大田に残したものはたくさんあるでしょう。調べてみれば会津と文化や言葉で似通ったものがあるかも知れません。
講演は1時間半でした。松本さんも、時間が限られていて話したいことの10分の1くらいしか話せなかったにちがいありません。もっともっと話しを具体的に聞いてみたいものです。吉永藩の問題は大田の歴史の盲点であることは間違いありません。