17年度の高校演劇島根県大会で上演された『三月記』を読みました。読みたいと思っていたら、以心伝心、電信で届いていました。ありがたいことです。とてもいい脚本だと思いました。高校演劇の狭い世界を少しだけ越えているのが魅力です。普遍性や真実性があり、文学性が高く、読み応えがあります。次ぎに感想を簡潔に書いてみます。あくまでぼくの感想です。
『山月記』か『三月記』か?一瞬頭の中が混乱し記憶に自信を失いかけます。題がとてもいい。カメオさん特有の駄洒落、いやいや、掛け言葉です。
劇中の国語の先生が授業中に全員の生徒の前で(といっても2人だけ)黒板へ「三月記」と書いたのです。生徒に注意されて書き直します。「3月記」。漢字にしてくださいと生徒にいわれ、「参月記」。「わざとやっていません?」と生徒。「ばれましたか。ちょっとみなさんを試そうと…」などといって、「惨月記」と板書!生徒の怒りを買い、鈴木さんは教師不信から不登校の原因にもなる。卒業式で答辞を読むのは田中三月(ミヅキ)さん。卒業式は3月。詩人が虎になった中島敦の名作『山月記』に劇の内容も重なるという重層イメージです。簡潔で意味が深く劇の内容とも深く関連し駄洒落の面白さも込めた記憶に残るいい題名です。詩でも劇でも題名には苦労します。内容に付きすぎても駄目。離れすぎても駄目。説明になったら駄目。カメオ惨(?)のこの命名はちょっと真似ができません。最高です。チャレンジングな魅力もあります。
当初からカメオ脚本は読んできました。その特徴は登場人物の会話がとてもスムーズで流れとリズムがあり生き生きとしていることです。一つの概念を一人で表現するのではなく、登場人物全員で分担して表現しています。普通は一人の人物が表現したい概念や思いを言葉にし、別の人物がそれに対して自分の概念などを言葉で表現します。そこに会話が生まれます。もちろんカメオ作品も同じに見えます。しかし作者の頭の中では、複数の人物が少しずつその概念の一端を分担して表現するのです。概念や思いや狙いを登場人物は知らなくてもいいのです。破片を分担しているのだけでいいのです。作者だけはしっかり全体とその効果を把握しているのです。こういう書き方をすればたくさん遊びを持ち込むことができます。饒舌になる可能性があるのですが、カメオさんは会話を細切れにして角度を自由に変え新鮮さや意外性をふんだんに出して退屈させません。ぼくは言葉に対する才能を感じます。これは最初の脚本を読んだ時から感じたことです。
もう一つの特徴は「言葉遊び」です。平たく言えば「ダジャレ」。劇中の国語の先生の言葉を使えば「掛詞」です。季刊誌「せりふの時代」の言葉を使えば「パンチライン」(punch line)です。作者はこのために脚本を書いているかの如く執念をもって挑んでいます。うまいな、と思うことが多く、劇が上演された時には観客はリラックスし会場には笑いが波のように起こります。これはとてもすごいことです。劇で笑いなんか簡単にとれるものではありません。
新鮮な「言葉遊び」をたくさん思いつくのは、これまた大変なことです。「せりふの時代」では5編で5千円の謝礼で募集しているほどです。使い古されたものをうっかり持ち込めば命取りになりかねません。作者自身が当分の間、笑いの素材になってしまう可能性もあります。笑害者です。
掛詞に命を掛けている作者は、いいアイデアが浮かばない時、劇の方を強引にダジャレに引き寄せることがあります。ダジャレのためにその場面が作られ、劇の正常な流れはそこだけたんこぶになります。本人は命を掛けているわけですから愛着があってたんこぶを切れませんが、「良い劇」のためには切開手術して除去する必要があります。
さて、今回の『三月記』ですが、小さな「たんこぶ」はあちこちにありますが、意外に目立たない。(ラストは目立ちますが)。場面の中にうまく溶け込んでいるということもあります。しかし最大の理由は、「そのたんこぶ自体が先生の唯一の個性」という仕掛を作者は設定しているからです。
答辞を指導する山本先生と、答辞を読む田中さんは二人で会話します。劇の半分以上が二人だけの会話ですが、観客を引っ張っていく仕掛けをあちこちに埋め込んでいますし、楽しいダジャレがふんだんに出てきますし、先生に対する一抹の不安や疑念をダジャレに包んでわずかに浮かばせるように会話を進めて、メインストリームを押さえていますので、長い二人だけの会話でも退屈しません。二人でつまらない話しを次々として、とっても仲が良さそうに見えます。しかしその先生が卒業式の当日に飛び降り自殺をする。この意外性!180度の回転!正に激です。撃です。逆です。劇です。起承転結の「転」です。ここでどうしても「結」を書かないと不安定になるので、常識的な「結」を持ってきて、だいたい失敗するのですが、今回の場合は前半の流れをしっかり押さえて「ジャンプし着地」します。山本先生と一番喋っていたのは田中さんだったのです。田中さんはそれを知りませんでした。先生は田中さんとつまらぬダジャレの会話することで生きるバランスをとっていたのです。「わたしが一番近くにいたのに…」という田中さんの台詞が生きています。背骨です。現代に対する警鐘であり批判でり告発です。人間の盲点であり普遍的な真実です。
高校演劇を越えたところがあると書いたのこの点に一つの理由があります。事実の中に埋没していないのです。もう一つの理由は、学校が舞台だからといって教育的配慮で真実をオブラードで包まなかったことです。真実の表現のためには芸術的な信念を通す。覚悟がいることです。普通の高校演劇は意図的にまた無意識に「教育」の範疇に収めようとします。今回の脚本にそれがないわけではありませんが、それが優先していないところに脚本としての起立性があります。
実際の舞台を見ていないぼくには劇を批評する資格はありません。今までカメオさんが生徒さんと共に作った劇はすべて台本よりも実際の舞台が楽しく豊だからです。それは演出が優れ、役者がうまく、装置、照明、音響が骨だらけの台本を豊にふくらますからです。脚本は例外なく公演の数日前に完成するのに、これにはいつも感心します。
劇のラストは先生が作った短歌の朗読で終わります。
「明日へと 陸の境界 岸壁を 飛び越えていく 海の向こうへ」
さて、これは先生が卒業生へ送った激励の言葉でしょうか。それとも辞世の句でしょうか。途中まで観客は前者だと思うでしょう。しかし先生の自死後には辞世の句だとわかります。そして最後の最後で「感謝の言葉」が埋め込まれていることがわかります。すごい仕掛け、どんでん返しです。劇作りの楽しさを心得ているからできることです。劇作りの楽しさの一つはは観客との駆け引きです。笑わせ、びっくりさせ、泣かせ、考えさせ、魂を揺さぶる。
本番の舞台ではこのラストは「大きなたんこぶ」にはならなかったでしょうか。脚本だけでは「あ・り・が・と・う」というすごい仕掛けを言わせて楽しむために脚本を書いた!とまではいいませんが、それに近いかもしれません。策に溺れ叙情に流されたという評もあることでしょう。
一つには、何に対して「ありがとう」なのか。生きている時、先生には苦しみしかなかったのではないか。その方が真実味があり、劇の深みが生まれるのではないか。「ありがとう」を埋め込んで短歌を書いた時点で先生は自殺を決めていたことになるが、それでいいか。ぼくの感覚では卒業式直前にまた大失敗をして発作的に屋上へ行ったとする方がリアリティがあります。
しかし劇は役者です。台本だけであれこれいうことはできません。せっかく送っていただいたので何かの参考になればと思って書いてみました。広島の大会へいきたいのですが、三重県へ行かねばなりません。できれば、県大会後に手を加えた中国大会提出の脚本を読ませてください。ビデオのダビングがあれば最高ですが、背後から声がします。「調子に乗り過ぎとちゃう?」。そうです。60にしてノリを越えてはいけません。また背後霊の声が、「それが本心なら書くなや。すぐここだけ削除せよ」
中国大会での健闘を期待しています。結果は相手があることですから予測できませんが、観客を楽しませ感銘を与える舞台になることは確かです。本当はそれで十分なのですけど…。
この「三月記」を読む」は何故か多くの人に読まれています。一日に何人このブログを読んだか分かるようにグラフがでるのですが、常にコンスタントに上位に入るのです。特に高校演劇のシーズンが近づいてくるとグラフが伸びてきます。
今日、なんでかな?なんでだろう?何を書いたんかいな?と思い、ここを開いて読んでみました。なーるほど。なかなかいいことを書いてるじゃん。でも、いいことを書いてるから読む人が多いというのは説得力がありません。このブログの愛読者がいるわけではありませんし、1回読んだら終わりで、2度も、3度も読むなんてことはないからです。
書いたのは7年前です。理由の一つはカメオさんがその後もますますいい劇を発表して、全国大会へ何度も出場し、魅力的な劇を発表しているからです。このブログの愛読者などいませんから、6割以上が検索でひっかかって読む人です。
「いいものはいいものとして広く紹介したい」「高校演劇も応援したい」というのがこのブログの一つのねらいですから、7年前の脚本評でも今も読まれるということはうれしいことです。残念ながら本は負けますね。7年前に本に書い演劇評を読む人などいないでしょうからね。