2005年(平成17年)6月26日(日)出雲のビッグハートで、坂口安吾原作、高橋賢耳さんによる潤色・演出の「桜の森の満開の下」を見ました。文芸評論家の奥野健男が「エロチズムとグロテスクが統一された、むごたらしい美の極致とも言うべき、恐ろしい最高の傑作」と評したこの短編がどのように舞台化されるか楽しみにして幕が開くのを待ちました。なにしろ次々と女や自分の何人もの女房を刀で首をはねる山賊の話です。
山賊は7人の女房と共に鈴鹿の山中に住み、峠を越える旅人を襲ってなに不自由なく暮らしていた。ある日、京の都から男女が通りかかる。山賊はいつものように刀剣で襲いかかり男を切るが、女の美しさに魅せられて女房にするために山へ連れて帰る。自分のみすぼらしい7人の女房がいるが、美しい女の命令で6人までは殺し、7人目は女中にする。そのうちに女が退屈して都へ行きたいというので一緒に行き、そこでも女の命令で毎日首を切り持ってかえる。やがて退屈して山へ帰りたくなる。山の中を女を背負って遠い道を歩いていると女は鬼になっている。
「男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落とそうとしました。(略)彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。」(原文より)彼がてを伸ばすと、女の姿は消えてただの花びらになっている。「その花びらを掻き分けようとした彼の手も身体も、延ばしたときにはもはや消えていました。あとには花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。」これが原文のラストです。
桜の花をきれいに描いたパネルが桜の華やかさを表して、照明の変化と共にとても効果的でした。山賊役の清原眞さん、都の女の工藤公子さんはその舞台姿が「絵」なっていました。さすがです。脚本と演出の面でなーるほどと感心したのは都の場面です。原作では首を毎日持って帰るのですが、舞台で同じことをしたらグロテスクの極みです。この劇では都の様々な人達が2,3人の群れになって無言で酒盛りをしたり、諍いをしたり、とても退廃的な姿と雰囲気を舞台に出していました。
ぼくが何を感じ取ったか。簡単に表現するのは困難ですが、一言で言えば、舞台の楽しさ、でしょうか。歌舞伎までではありませんが、かなり様式化された演出がこの劇を生かしたのではないかと思います。桜の装置はその様式美に一役買っていて成功だったと思います。
脚本はほぼ原作通りに進行していたと思いますが、そのために暗転がかなり多い劇になっていました。音楽や風の音で暗転を埋めてはありましたが、10回(多分)くらいあるとどうしても細切れの印象が残ります。緞帳が上がると外国人(イアン フリンさん)がシルクハットで登場して意表を衝きます。これは成功です。劇中の注意などを喋るくらいはまでは感心していたのですが、他の人物が登場し無言の劇がはじまると、その劇の内容に入って喋り始めると劇との境界がぼけて、戸惑いました。
出雲の「劇団ギミック」に松江の「幻影舞台」と「劇団いずも」が協力して実現した公演ですが、このような劇に挑戦されたことに感心すると共に、異色な劇を見る機会を与えられたことに感謝しています。劇の見方が広がります。