「島根の高校演劇~追録15年誌」(129ぺーじ)が出版されたのは2003年です。洗練された表紙、読みやすい編集、貴重な記録と写真、関係者や卒業生の回想など手際よく整理されています。編集委員は大島宏美、細田欣一、木村文明、伊藤靖之の先生です。中村隆実さん、松本領太君も執筆しています。この本からぼくのものを若干追加して載せました。
1985年(昭和60年)には「島根の高校演劇40年のあゆみ」(172ぺーじ)が出ています。戦後から40年の各校の上演記録、卒業生や先輩顧問の貴著な回想と写真など立派な本です。編集委員:岩町功、洲浜昌利、開藤哲朗、野崎宏明、洲浜昌三、三方元、大島宏美のみなさん。開藤、野崎先生はすでに故人です。岩町先生が津和野高校校長だった時、津和野の旅館に泊まり込みで編集会議を開いたのを思い出します。
この2冊は島根の高校演劇を考える時、無くてはならない本です。演劇に青春を打ち込んだ若者達の熱気が伝わってくるのもこの本ならではの特徴です。
島根・中国・全国高演協顧問 洲浜昌三
長い間高校演劇にかかわってきたので、「演劇をやっていたのですか」などとよく聞かれることがある。昭和20年~30年代は映画も全盛期、地方でも演劇活動は活発だった。小・中学校では学芸会があり、高校では演劇部がない学校でも、文化祭ではクラスの演劇発表が盛んだった。青年団の演劇活動も活発で、会場の公民館などは常に満員だった。そういう時代の中で育ったので、演劇は身近な存在だったが、意識的に演劇活動をしたわけではなく、その当時の一般的な高校生並であった。
中学校の学芸会で「修善寺物語」を上演し、北面の武士3をやらされ、「いざ、搦手から!」とひとこと喋ったが「搦手」とはなんのことかしらなかった。 当時、田所分校生徒会でも毎年公民館で公演していた。二階まで満員だった。映画「野菊の如き君なりき」に感動して、友達と「野菊の墓」を脚色、正夫役をやったが、棒立ちだったに違いない。今でも台詞を忘れて冷や汗をかく夢をみる。劇の公演は生徒会の主催で各クラスが上演し、各部の遠征費捻出が目的だった。
早稲田大学時代、「All My Sons」を英語英文科の有志で上演したが、僕はアルバイトで忙しく、パンフレットの編集を担当した。
こういう次第で、中高大学と特別に演劇に興味があったわけではない。小説は高校時代からずっと書いていた。憧れは小説家だった。
大学卒業後島根に帰り、益田工業では文芸部と柔道部の顧問。昭和46年に邇摩高校に転任したら、意に反して演劇部顧問がついていた。劇のことは全く無知だったが、新任教員は文句が言えない。几帳面な中村隆実先生に従って真夜中過ぎまで練習し、遠くまで車で生徒を送っていった。中村先生は物理が専門でもあり、研究熱心で専門書を読み、照明にもとても詳しかった。当時は電気の知識が無ければ照明器具などを扱うのは危険だった。そのころ邇摩高校の照明器具は多分県内一揃っていたと思う。調光器「ディムパック6」などは高額で生徒会予算では買えないため、二人で金を出し合って前払いで購入したものだったが、その調光器を持っていたのは邇摩高校でけだった。
当時、地区大会の講師は岩町功先生だった。大ベテランの岩町先生からは特に「リアリティのある自然な劇作り」の大切さを学んだ。劇にはいい脚本が必要だとわかってきたが、いいのがない。仕方無しに初めて創作劇「琴のなる浜」を書いた。第1回県大会に出場したが、講師の出口展雄先生の指摘から、「僕のは劇ではない芝居だ」と痛感した。芝居も村芝居。
第2回県大会は事務局長でもあったが、「廃校式まで」を書いて県代表に選ばれ、鳥取大会へ出場した。大代分校の廃校に題材をとった生徒と等身大の劇で、当時としては新鮮だったと思うが演技は素朴そのものだった。この大会で舟入の伊藤隆弘先生の創作劇を初めてみた。「灯の河に‥」である。劇作りのうまさに強烈な感銘を受けた。舟入の劇は僕の目標となり、いつか伊藤先生を超える作品をと思った。永曾信夫先生の講評を聞くのも初めてだった。その深遠な理論に裏打ちされた言葉に心が震えた。総てメモを取り、それを指針にした。「見えない抽象を具体で表現するのが劇」「深い井戸を掘れ、必ず前後左右の水脈に突き当たる」等、名言がたくさんメモ帳にある。いつも酷評されたが、永曾先生の講評を聞くのは実に楽しみだった。
昭和54年に川本高校へ転勤。翌年「大会前二週間」で岡山市大会、58年に「それぞれの夏」で米子市大会。舟入の「おさん幻想」のうまさには遠く及ばなかったが、川本高が二位に選ばれ創作脚本賞だと放送された時には間違いだと思った。伊藤先生の作品は全国大会で高い評価を受けるから、という配慮だったのだろ。リハでは装置の部屋を8割方組み立てたのが精一杯。時間が来て解体しただけですべてが終わった。
昭和59年大田高校へ転勤。この進学高の多忙さは想像を超えていた。赴任したその日から、ある先生に頼まれて英語の個人添削。教えていないクラスの生徒まで依頼に来る。朝登校すると机上に添削ノートが何冊も積んである。レベルの違う様々な問題集を与えて添削する。処理できないので家に持ち帰る。毎時間のテストと採点、課題テスト作成・採点、補習授業。歳を重ねにつれ学年主任、生徒指導部長、総務部長、会議、会議・・・(大方の先生はこの時点で若手に顧問を譲り演劇の泥沼から脱出する)朝、2時、3時に寝ることは普通。そういう状態の中でいい発想が浮かばない時の脚本書きは地獄である。文化祭直前の合宿で、原稿用紙に書いた順に印刷して練習するという状態。部員たちも軽い皮肉を言うだけでよくも信じてついてきてくれたものだ。あの世へ行ったら演劇の神様から「演劇を冒涜した罪で地獄!」と宣告されるだろう。
持田諒先生と出会ったのは昭和60年の浜田大会で「届かぬSOS」を上演した時だった。先生は出雲高演劇部で活躍、当時は国立劇場の舞台監督。情熱に溢れ、魂を込めた講評との出会いは感動的だった。創作劇は大田高校だけで、先生は「岩町の跡継ぎが島根にいたこと」をとても喜ばれ、期待された。
63年「母のおくりもの」、平成3年「星空の卒業式」、4年「『ワラン・ヒヤ』って何ですか」、6年「ぼくたちの戦争」(創作脚本賞)、7年、「おーい、孝ちゃん」、9年「峠の食堂」(創作脚本賞)で中国大会へ出場したが、山口大会の「ワラン・ヒヤ」が3位だった以外は特筆するような成績はなかった。永曾先生の批評は勉強になった。
県大会止まりの時の持田先生の劇評は痛切に応えた。幕間討論の冒頭から「洲浜は今回の劇はいい加減に書いた。」で始まったこともある。「ドラマは情緒ではない。行動であり葛藤である。」など厳しい指摘をたくさん受けた。上演後よく手紙もいただいた。
「君は自転車で富士山に登る血の出るような苦労をしていない。」という文面もあった。出雲高校時代にバットを持って厳しい演劇指導を狩野道彦先生から受け、プロの役者の厳しさに日常的に接しておられる持田先生から見ると当然だったろう。当時のぼくは小説と劇の違いを理解していなかった。劇は肉体と空間表現に本質があり観客の想像力に依拠する表現活動である。ぼくは言葉にこだわっていた。ぼくの脚本を料理してくれる演出者がいつも欲しかった。劇の中にいて劇が見えなかった。大会が終わり、2トントラックで夜の国道を運転しながらいつも魂が抜け落ちたような空虚感を噛みしめた。「来年は書かないぞ。生徒に迷惑をかけてはいけない」。一人で大道具を下ろしながら何度決意したことだろう。だが、夏になるとまた書いていた。部員の期待もあったが、持田先生、永曾先生、舟入の伊藤先生、開藤先生などの顔が無意識の中にあった。「今度こそ」と書いているうちに「また夏が来て」を最後に退職の幕が下りた。
退職の春、演劇の卒業生たちが慰労会を開いてくれた。「先生、また劇をやりたい!」と口々にいうので梯子に乗ってしまい、大田市で劇研「空」を立ち上げ、これまでに4回公演した。「なんでまた苦労するんか」と久し振りに出会った先輩から言われたときには、その重みがずしんと体に応えた。
「なんでまだ生きてるんだ」と言われた時、どう答えるだろう。それに答えるのが難しいのと同じかもしれない。
注:字数制限があったために28年間を走って通り過ぎています。いつか一年一年を丁寧に書いてみたい気がします。その時には当時のなつかしい生徒たちの名前も登場させたい。写真もできるだけ使いたい。そのつもりで当時からたくさん写真を撮り、ビデオにも撮影してきました。この世に在籍中にそれらの記録をもう一度生かしたいものです。あのままになったらそのうち黴びがはえ、変色し、邪魔になって廃棄処分される運命です。じんせいってぇーさびしいものですね。