2003年(平成15)3月11日野崎先生が急逝された。退職後の元気な姿を知っている者には晴天の霹靂であった。島根や中国の高校演劇の発展に大きな貢献をされた先生を偲んで、第27回県大会のパンフレットに掲載された原稿。読んだ人も限られているし、先生の功績を知ってもらいたくここに採録します。(実験中のプログですが、ぼくが書いた原稿なので著作権問題に悩まされることもなくぼくの責任で過去の文章をこうして生かすことができるのは強みですね。あのパンフレットなど開いて読む人など絶対にいない死文同然ですが・・・)
誠実な人、演劇をこよなく愛した人
ー 野崎宏明先生をしのんで ー
洲浜昌三
金木犀の香りが書斎まで漂ってくる。雲一つない青空。
遠い空を見上げていると、野崎先生のことが次々と浮かんでくる。 あの懐かしい笑顔にはもう二度と会えない。
あまりにも唐突だった。あまりにも早過ぎた。人生80年。これから蒔いた種を収穫し、豊かな経験で加工し、じっくり味わう。家族の人たちも僕らも、それを賞味し、恩恵にあずかる。そんなスタートラインに立たれた矢先のことだった。
3月11日、高校入試の朝、職員朝礼が終わってしばらくした時(僕は退職後、英語の常勤講師で大田高にいた)大島宏美先生から電話がかかってきた。
「野崎先生が亡くなられた」。
「えっ!?」と絶句。広大な宇宙に放り出されていた。
何故か脳裏を横切ったのは、3年前の1月に急逝された開藤哲朗先生のことだった。そして、「取り返しのつかないことをしてしまった」という気持が吹き上がってきた。昨年の3月初旬、野崎先生から自作「油彩絵画展」の案内をいただいたのに、行けなかったからだ。何が最後になるかわからない。その時その時に最善を尽くすべきなのだ。この不精者!叱責が降り注いだ。1昨年松江地区発表会で話したのが最後になってしまった。
逝去前の3月8日に、劇研「空」の公演案内と手紙を出したばかりだった。読んでもらえただろうか。劇を観て、先生の感想と批評を聞くのを楽しみにしていた。
野崎先生は昭和13年生まれ。僕より2年先輩である。演劇部顧問としてのスタートは昭和43年(1968)、出雲商業高校である。情熱的な指導者であった飯塚喬一先生(現県高演協顧問)が転出された時、「あとを頼む」と野崎先生に託された。その年に、名門江津高校と共に選ばれて、高文連オリンピアードで「轍」を発表、輝かしいスタートだった。昭和44年から52年までは松江工業高校で顧問を務め、46年には「象の死」で中四国大会へ出場、第3位という好成績をおさめた。42年から始まっていた松江商業高校との合同公演にも積極的に関わり、13回までつづいた。 その頃は30代の若さだったが、先生の目は狭い自校の演劇部だけに向けられていなかった。他校の演劇、地域、中国地方、そして全国の活動も視野にあった。大会や講習会を通して指導を受けたプロの演劇人との交友を大切にされ、島根県の演劇の発展に活かされた。
僕は昭和45年までは益田工業高校で文芸部や柔道部の顧問をしていて、野崎先生の活躍のことは全く知らなかった。次の年、僕は邇摩高校へ赴任し、中村隆実先生の下で演劇部の副顧問として演劇に関わり始め、54年からは川本高校へ移った。
野崎先生は53年(1978)、江津高校へ赴任。この時から同じ石東地区で学び合い、競い合う関係になった。この年の江津高校は「にんじん」。演技、照明、装置、音響など総てが揃った完成度の高い名舞台で、今でも鮮明に思い出す。この時は邇摩と共に地区代表に選ばれたが、県大会では邇摩高の「廃校式まで」と浜田高校の「ペテロネラ」が最優秀賞だった。翌年の地区大会代表は江津の「かげの砦」、次の年は川本の「大会二週間前」、その次は江津の「ブンナよ木からおりて来い」。これらはいずれも中国大会へ出場した。 当時の石東地区は5~7校が参加、5校の時は代表は1校だけだった(53年は参加校が6校だったので2校が代表校。例年、大田、邇摩、川本、矢上、江津、浜田、浜田商業が参加)。 僕は駆け出しの頃で、他校の劇への意識はあまりなかったが、実績のあるベテラン野崎先生には脅威だったに違いない。ずいぶん時がたった数年前、酒を酌み交わしながら談笑した時、言われた。「いくら良い劇をしても洲浜さんを倒さないと上の大会に出られないのだから、悔しい思いをしたよ。特に『にんじん』の時にはね。あれは今思い出しても良い舞台だった。」無自覚だった僕は、そのとき初めて認識した。先生と僕はライバルだったのだと。その勝負は2勝2敗。正に好敵手だったというわけだ。
57年(1982)廃部寸前だった大東高校へ転任された。大東での5年間の活躍にも目を見張るものがあった。58年「私はアヒル」、59年「さらばハイデルベルク」、61年「ブレーメンの音楽隊」でそれぞれ中国大会出場された。また多忙な中で30ページの「大東高校演劇部小史」を発行。昭和21年県内で最も早く、星野早苗先生を中心に演劇活動を始めた大東高女からの伝統をまとめた沿革史であった。卒業生や地域との結びつきを取り戻そうと努力された貴重な労作である。更に、60年に岩町功編集長を中心に発行された貴重本「島根の高校演劇40年の歩み」の編集委員としても多大な貢献をされた。
62年(1987)、新設された情報科学高校では、多忙な生徒指導部長の要職にありながら多難な中ですぐに演劇部をつくられ、平成3年には県大会まで歩を進められた。
平成6年(1994)に母校の安来高校へ赴任されると卒業生ということで同窓会長、野球部長など激務がつづいた。それでも演劇から手を退くことはされなかった。それどころか地域との連携を深め生徒の発表の場を広げ励ますために「情報・安来高校合同公演」も始められた。安来では「こんにちはかぐや姫」、「ゆうたっちょの中学生日記」で県大会へ出場され、いずれも役者揃いの名演技で、楽しかった舞台は忘れられない。
安来高で2年間顧問を共された野村みさ子先生は、「6時まで演劇、その後9時まで野球部の練習に出られた。おやじギャグを飛ばしながら、男女分け隔てなく楽しそうに大道具を作っておられた。劇が好きで、脚本の知識が豊富だった」と語っている。「松商・松工合同公演」で一緒に活動し、娘さんを安来高で教えたこともあるという洲浜昌利先生(県高演協顧問)は、「いつも美しい舞台で、芸術的センスはすばらしかった。頼まれたら、嫌と言えない人で、しかも多才な人だった」と回想している。
退職後も情報科学高校の演劇の指導にあたっておられた。今年の松江地区大会で情報科学も代表に選ばれた。創作劇「スペシャル・デー」の作者でもあった顧問の岩谷正枝先生が、「野崎先生への恩返しになりました」と言われた時には、はっ、と胸を打たれた。
25年間、よく行動を共にした。全国、中国、県、地区大会、研修会。講師として何度もお世話になった。一度、我が家で開藤先生と野崎先生に泊まってもらったこともある。江津高校の近くに住んでおられた時、家でお茶をいただき、気品のある部屋の雰囲気や奥様の接待振り、すばらしい千切り絵に感動した。美的センスの源泉を見た気がした。
3年前の県大会の顧問研修会の席で、先生が描かれた油彩画の写真を見せてもった。その花の色彩の鮮やかさに驚いた。こんな才能があったのだ。また先生の源泉を再確認した。「いつか僕に描いてください」と言ったら、笑って「そのうちにね」と言われた。
よく、「演劇は人間学である」「ふれあいこそ演劇である」と言っておられた。その認識と確信が生徒達への深い愛情と重なって先生を支えてきたのだろう。いつも誠実で、こよなく演劇を愛した人 ー それはこよなく生徒達を愛した人と同義語でもある。
無念なのは、この小文は野崎先生には読んでもらえない定めの文であることである。天空へ向かって大声で叫びたい。「野崎先生!先生はこんな偉大な足跡を残されたんですよ」。