「よかった」「感動した」という人が多いようです。実行委員の一人としては嬉しいことです。「面白くなかった」と言われたら責任を感じますからね。一方「暗い」「方言がが分かりにくい」などという感想もあります。十人十色ですから全員が満足する劇は不可能ですが、お世話をした側としては一安心です。大田高校生の反応も是非知りたいものです。
今日までに10人の人から劇の感想を聞きました。7人が「よかった」「感動した」と喜んでおられました。具体的には次のような言葉がありました。
「あの戦争の時代は実際に厳しかったのだ。人間が生きるぎりぎりの世界が表現されていて感動した。都会でないと劇は見られないと思っていたのに、こうして見られるのが嬉しい。」「声がよく通りさすがはプロだと思った。いい劇を見せてもらった。」「死体焼き場が舞台になっているのに驚いた。よかった。」
逆の受け止め方をされた人達の感想:「あんなに重くて暗い劇はあまりすきではない。笑いもある劇がいい。秋田弁があちこち分かりにくいので、その度に考えてしまう。」「死体焼き場の劇をみて高齢者はどういう気持ちを持っただろうか。いい気がしないと思う。」「秋田弁はもう少し分かる言葉にしてもいいのではないか。遅れて行ったので前半30分は見られなかったが、話はよく分かった。前半の30分は何だったのかな。」
劇にはいろいろあります。料理と同じです。野菜サラダ、ラーメン、うどん、中華料理・・・比べて好き嫌いを論じても無意味です。いや滑稽です。結局個人がどう受け止めたかということが総てです。
数日前に浜田の詩人・gさんと劇のことで話しました。彼は次のように言いました。
「今まで見た劇で一番感動したのは大田高校が浜田の県大会で上演した『星空の卒業式』だ。プロの劇も見たがあれ以上に感動した劇はない。だいたいに説明が多すぎるし、これは大切なのだと説教する姿勢が見える。釈迦内棺唄もみたがそれほどでもなかった」ということでした。gさんに、「あなたは劇を知らないからだ」と言ってみてもはじまりません。
今回の劇は劇団希望舞台です。この劇団は1985年に統一劇場から分離独立
してできた劇団です。リアリズム重視の社会派劇団です。歴史的、人間的な視点を重視して時代と社会に生きる人間を鋭く感動的に描きます。劇をあまり見たことがない人には分かりやすくて感動的です。このような劇は好きではないという人も結構います。これでもかこれでもかと、しつこく押しつけてくる重厚な演出や力が籠もった余裕のない演技や発声、また、どこか教化じみた説教臭さもあるからでしょう。修平さんが、今回の劇は評価が二つに分かれたのではないかと書いていますが、このあたりにもその原因はあるかと思います。
ぼくの感想です。発声や演技が確かで、劇が隙間なくきちっと仕上がっているのを見て、さすがはプロだな、と感心しました。特に声量の豊さと歯切れのいい言葉にはうらやましさを感じました。音響もすばらしく、ふと気がつけば音が入っている。実に自然です。ドロップに照明を当て雪を降らせて、家の外に立つ憲兵や逃亡した朝鮮人を浮かび上がらせていましたが、単純だけど効果的でした。こうい面では学ぶことだらけです。
じゃ、感動したのか、と聞かれれば、「うーん、まあまあかな」と曖昧になるのが正直なところです。いい劇だったのに何故? と自問自答する中で、劇の作り方をいろいろ考えます。こうなると善し悪しの問題ではありません。好みの問題になります。
暗くて重い劇です。セットは三つの竈の死体焼き場です。ぞっとします。普通の演劇人は避けるでしょう。しかも実際に逃亡者を炉で焼きます。実にリアルで衝撃的です。観客はショックを受けます。しかしあえてこういう場を設定したのは水上勉の考えです。かれは自分の小さい時から父の仕事(葬儀に関係)をみたり、お寺に入って人間が金や名誉で差別される現実をたくさん見てきたのです。怖いほど強烈な作家魂を感じます。さらに戦中の東北が舞台で照明は全体に暗い場面が多い。テーマも重い。ふじ子の一人芝居が前半40分近くもある。言葉は秋田弁だから地域性や特異性がある。歌や踊りで明るくしようとしても底流は重く暗いからどうしても引きずってしまう。ラストで死体焼き場のセットを取り払って、ホリゾントに一面のコスモスと青空を出し馬車の鈴の音を流して、舞台を明るく軽くしてテーマを暗示して劇を終わろうと演出しても、それまでの長くて重くて暗い思いが観客の心には深く沈殿しているので、観客の気持ちは簡単に切り替わらない。重い心を抱えて家路につくことになる。演出家はラストの場面で演劇特有のカタリシスを期待したと思うが、観客の心理を更に深く考え、もう一工夫してみる必要があると思う。まさかあの場面は重くて暗いエンディングを意図したわけではないはずです。
水上勉は、「コスモスの描写に一工夫願いたい。一編はこのコスモスに凝縮して、はじめて作者のいわんとする主題が、あらわれるからである。」と述べている。主題は伝わったけど、ぼくには予定範囲で劇特有の衝撃力はなかった。
劇の構成から見ればこの劇は「回想場面が挿入された一人芝居」です。ある40代の男性が、「前半40分の一人芝居を見なくても劇はよく分かった」と言っていましたが、確かにそうです。主人公のふじ子が一人で父の遺体を焼く準備をしながら喋っています。父のこと、母のこと、姉や兄のことなどを回想して喋りますが、次ぎの家族の場面を見ればほぼ分かることです。ふじ子役の高橋有紀さんはとても上手に場面をこなしているので、思ったほど退屈はしませんでしたが脚本構成上は問題が残ります。ふじ子の演技で救われましたが、役者の力量で成り立っています。その場面の台詞の大半は次の家族の場面になれば分かることです。しかし水上勉が長い一人語りにしたのは、その方が自分の思いを述べられると考えたからでしょう。それで一人芝居に近い形式を選んだのでしょう。でも難しい場面です。
劇後の交流会でぼくはこの前半の40分について次のように述べました。
「脚本を見た時前半の40分の一人芝居で観客は退屈するのではないかと心配しました。しかもストーリー展開には関係ない台詞で、家族などの説明も多い。説明は芸術の敵です。確かに長かったけど、次の家族の場面がとても迫力があったので、前半が長いと感じられなくなった。舞台の時間は普通の時間ではなく特殊な時間だといいますが、演出の高田進さんはそのことを計算して劇を創られたに違いないと思い、改めてプロの力に感心しました。」これはお弁ちゃらではなくぼくの実感です。水上勉は演出ノートに、「長セリフを退屈させないために小道具の使い方、あるいは竈の脂の取りのぞき作業など、しょっちゅう舞台でうごいているなど工夫ありたい」と書いています。当然わかって書いているのですね。
でもいくら水上勉が書いた台本だといっても劇としては長いですね。こんな注文をつけてもはじまりませんが、自分が劇を創ることを想定して書いています。
リアリズムは大切ですが、虚構から生まれる真実も演劇の魅力の一つです。「釈迦内棺唄」に後者を求めるのは、砂糖は甘いからつまらない、と言うようなものですが、今回の劇が、いい劇だったと認めながら、感動は「うーん、まあまあかな」というのはここらあたりに原因があるのかも知れません。要するにぼくの好みや芸術観の問題です。
余録:劇の片付けが終わって実行委員会の人達と16人の劇団員とで慰労会をしました。妹役の矢野涼子さんに、「高校の時の顧問は藤田卓先生だったでしょう」と言ったら、あたり!!!広島の観音寺高校出身で彼女が県大会に出場した劇が、「豊島屋物語」で藤田卓先生の創作。荒削りだけどとても骨太い骨格をもった脚本で魅力的で今でも忘れません。1998年(平成10年)三原市民会館でのこと。全国高演協事務局長・西沢周一さんと一緒でした。この劇は中国大会へ出ました。
実験中のブログですが、修平管理人によると、自由に書けること、長い文もかまわないこと、やりとりができること、などがいいところだとか。甘えて長くなりました。いろいろ感想がでてくるといいですね。勉強になります。