大田市民会館でミュージカル「森の迷い子たち」

2013年8月25日、大田市民会館で創作ミュージカル「森の迷い子たち」が上演されました。脚本・佐藤万里、作曲・川崎絵都夫、演出・三浦克也。以前から大田の子供ミュージカル「風花」の指導、公演に当たってこられたプロです。

春から大田市民会館の市民文化活動支援事業の一環として一般公募、週2~3回の練習をつづけて公演に至ったものです。しまね文化ファンドの助成も受けています。舞台撮影は厳禁、ということで写真はありませんでしたが、撮影を担当された人から舞台遠景写真なら、ということで拝借しましたので紹介します。
IMG_1065舞台装置もとてもきれいですし、衣装もそれに見合って色彩豊かでよく調和しています。出演した子供たちのお母さんたちがつくられたそうです。
DSC04938DSC05000劇研空のヤマモトクンもいます。歌もあり踊りもあり大活躍でした。ことばもはっきりしていてよく通りましたよ。高校演劇の脚本演出のベテラン、イワタニさんもいます。
「琴の鳴る浜」へ出てくれた子供たちもいます。そしてなつかしい名前もたくさんあります。タンニンした人も数名!がんばっていますね!

舞台はとてもきれいで歌も踊りもよく工夫されて歯切れよく展開されました。それぞれの力量に応じた振り付けや動きが演出されていて、さすがはプロの手が入った舞台だと感心してみました。ウイークポイント全員でをうまく補強するように動きや振り付けが工夫してありました。簡単なようでなかなかできない演出力です。花や葉が豊かに茂っていて綺麗でしたが根や幹にあたるストーリーはなぜか印象に残っていません。ほわっとした夢のような話しで骨太い幹がなかったからでしょう。チラシでもセリフでも「石見銀山の森」ということばが出てきますので、石見銀山をイメージして見ようとしましたが、石見銀山を背景にしたスト-リーではないことが途中からわかってきました。冒頭に出てくる舞台のセリフや、開演前に読むパンフレットの説明は観客の先入観となり、その枠の中で舞台を見ようとすします。今回はそれに引っ掛かってしまい途中になってやっと修正しましが、演劇を鑑賞する観客の心理は微妙だと改めて感じたました。
H25「森の迷い子たち」

土、日は終日練習だったそうですから、ハードな練習だったことと思います。大田でこれだけのミュージカル上演できることはすばらしいことですね。長い間の「風化」のみなさんの人的財産があるからできたことでもあります。

みなさん、おつかれさまでした。
ぼくは文化協会のスタッフとして当日は影の薄い協力をしました。

 

 

 

 

続続「これが邑智の地芝居だぁ!」観劇記

平成25年3月17日、島根県邑智郡川本町「悠邑ふるさと会館」で行われた地芝居の観劇記のつづきです。
劇団かわもと塾「天領かわもと〜夏の名残〜」(堤 浩隆 作・演出) 昨年につづき、地元の素材を生かした歴史物の創作劇です。(ツツミさんが別れ際に、ブログに書いてください、と言われたので、ガンバッテ書きま〜す) ストリーも明快で台詞もテンポがよくラストの盆踊りへ向かって無駄なく進むので、終わったときスッキリした印象が残りました。中幕で舞台を狭めたのも効果的。少ない人数で広い舞台を使えば、劇が隙き間だらけになるからです。ホリゾント幕を使わずに、大水で流れて来た家の屋根などがらくたを並べた装置もよかったと思います。素朴でたくましいな百姓たちもリアリティがあり生きていました。

DPP_0020

大森銀山の代官や役人の扱いについてはちょっと都合よく作りすぎた印象です。史実に関係無く面白さや感動をねらって劇をつくるのか、史実はできるだけ重視して劇を作るのか。創作するときこの二つの違いをあいまいにしたら劇の性格もあいまいになります。

吉岡隼人は毛利時代の銀山役人で大久保長安にも仕え、伊豆や佐渡の鉱山開発にも功績があり、家康から「出雲」と拝命、吉岡出雲と名乗り1614年に死亡、大森の極楽寺境内に葬られました。

中瀬弾右衛門は1696年に朝鮮の安龍福が隠岐へ来たとき隠岐の役人で取り調べをして報告書を石見銀山代官、後藤覚右衛門へ提出しています。

天野助次郎は27代の大森銀山代官(1749〜1754)で、久利町大屋に井戸平左衛門と共に顕彰碑(天保7年に建立)が残っています。多分、この劇のように飢饉のときなどに善政を施したのでしょう。

DSC04417

この劇の時代設定は天保4年の飢饉です。文政13年〜天保6年(1830〜1835)の大森銀山代官は根本善左衛門です。多分作者は天野助次郎という人物に感銘を受け、天領かわもとの水害と盆踊りを関連づけて創作されたのでしょう。いい着眼だと思いますが、他の役人も有名な歴史上の実名で登場するので、なんでここに出てくるんだろう、と違和感を抱きました。作者にはぼくの考えとは異なる計算や意図があったのかもしれません。

来年もまた地域を素材にした創作劇を楽しみにしています。 とても貴重なチャレンジです。いい作品は、時代に淘汰されながら、生き残り、またその時代の人たちによって復活再演され、人々を励ましてくれます。芸術の命は永遠です。(ハンシンタイガースモエイエンダ!)

最後は島根県邑智郡邑南町高原の「星が丘一座」の地芝居「十手 涙の取り縄」。

DSC04422

結成以来15年を迎えるそうです。大いに笑わせて涙もたっぷりしぼる、これぞ地芝居!役者に余裕があり安心して見ることができる舞台でした。

人物造形もよくできていて、間抜けの目明かし、きりっとした親分、正に兄弟を思わせる怪盗小次郎と直造、年老いて軽くなった父・義造身の振る舞い等々、人物が舞台で生きていることが劇の基本ですから、その点でも安心して楽しく見ることができました。

地芝居の面白さの一つは、観客の反応を見ながらその場で出てくるアドリブです。その土地その土地の人情や土地柄、観客の反応をつかんで飛び出す即興の台詞、それに反応する観客ーこの生き生きとした交流に特徴があります。下手なアドリブは興ざめで逆効になりかねませんから、センスが必要です。この劇ではそれを楽しむことができました。観客の反応も十分でした。

クライマックスでは怪盗小次郎が自身番の父親・義造にやっと出会いますが、目明かしに追われている身。兄の直造は弟の罪をかぶろうとしてその場で切腹。それを見ながら、せめて自分の手でと我が子に綱を掛ける父。ほっとすればどんでん返し、またどんでん返し。これでもかこれでもかと人情に訴え観客の涙を絞る。終わると解放されたように大きな拍手が湧きました。

逼迫した切腹の場面でもちょっとした台詞で場を異化して笑わせ観客の心理を揺さぶる演出にも感心しました。

劇は一生懸命演じればいい、というものでもありません。懸命に演じている自分を客観的に見ている目が必要です。それがないと押しつけがましく窮屈で泥臭い印象を残します。その点でもこの劇には感銘を受けました。

地芝居は義理人情の古い劇だ、という人がいれば時代遅れです。芸になっていれば歌舞伎と同様、義理人情の世界でも立派な芸術です。

DSC04429

我がふるさと、邑智郡に3つもしっかりした地芝居があるのは不思議です。多分全国的にめずらしいのではないでしょうか。大切にしたいものです。

終わってホールを出て、搬入口のそばを通ったとき、星が丘の役者さんがおられましたので、「おつかれさまでした。楽しく見させていただきました」とお礼をいい、いろいろ話しました。「今は大田に住んでいますが、田所下亀谷の洲浜の三男坊です」というと、「そうですか。去年は武ちゃんに呼ばれて大八洲神宮で上演しました。ありがとうございました。タエコさんには学校で音楽を習いました」とのこと。

昔の狭い瑞穂町のこと、さまざまな形でつながりや交流があり、苗字を聞いただけでどこの誰か分かります。高原には親戚が2軒あって、昔は秋祭りにはお互いに行き来して飲み食いをしていました。高校生のとき、父の代わりに何回か行ってご馳走になったことがあります。「高原小学校には武ちゃんの次男が昨年から勤めていますよ」「そうかな、埼玉から帰った先生がいるというのは聞いていました」。 (道草をするな!ごめんごめん)

閑話休題。その後、劇の感想など述べると、「なによりのいい土産になりました」とのこと。

自身番義造・東義正さんの最後のお礼の口上、大和小学校の忠臣蔵を賞賛して、ユーモアもありピシッと決まっていましたね。。

DSC04430

いい劇をありがとうございました。みなみなさま、おつかれさまでした。

(今回は管理人・修平さんのアドバイスに従って一太郎で打ち込み、それをここへコピーして張り付けました。近日中に発行予定の劇研空・会報16号にも転載します。ああああ、オツカレ)

続 「これが邑智の地芝居だぁ!」観劇記

2013年3月17日(日)、島根県邑智郡川本町の「悠邑ふるさと会館」で表題の地芝居や舞踊などが上演されました。10時から16時までの長時間でしたが、途中で帰る人もほとんどなく最後まで舞台を楽しんでおられました。
DSC04433

昼食時には、広くて長いロビーに茣蓙も敷いてあり、地元の人たちが作ったむすび、味噌汁、焼きそばなどなどを買って食べ、休息できるように整えてあったのもいい配慮でした。連続で座って観ていたら疲れてしまいます。

DSC04427

案内の人たちも大変親切で席まで案内したり、細かい神経を使っておられました。久しぶりに出会ったイワマチさんが、もぎりや案内をやっておられてびっくり!「ボランティアです」とのこと。こういう人も協力されるというのはうらやましいことです。(おおだでこうこうのキョウトウセンセイがしばいのもぎりをやるなどかんがえられませぬ。演劇人はこういうところがあるから素晴らしい。裏方の苦労を知っていますからね。大蛇足)

少し遅れて行ったので、最初の吾郷清吾会の「人情吾郷の恋綴り」は終わり頃しか観られませんでした。今年で結成20周年になるとか。余裕のある地に着いたしっかりした演技はさすがです。

邑南町の日貫劇団は昭和63年に誕生したそうです。舞踊も充実していて今回もたくさん披露されました。

DSC04407

地芝居「人情 春雨傘」も大変面白く、大いに笑って、ちょっぴりナミダを流す、いい舞台でした。ご隠居を演じた草村勇さんの老婆は実に自由自在、アドリブもあり演技も堂々として貫禄十分。男性が老婆を演じるから余裕や自在さが自由に出てくるのでしょう。仁兵衛の室田さんも自然で演技が達者、安心して見ておれました。最後は想定内のハッピーエンドでちょっと衝撃性がありませんでしたが、楽しい舞台でした。

観客の拍手と声援を受けて堂々と上演したのは邑智郡美郷町立大和小学校の5,6年生の「忠臣蔵〜松の廊下で育む絆」です。

DSC04411

吉良上野介におみやげを持ってきた細川とその家臣、おみやげを持たずに挨拶に来た浅野内匠頭と家来たち。吉良におべっかを使う細川、浅野を差別する吉良。この対立をセリフで表し、松の廊下での遺恨の刃!

ところがここからが歴史上初の大和小学校版「松の廊下」!細川も吉良も自分たちの言動がいかに相手の心を傷つけていたかに気づき反省の弁をのべ、三者とも相手の心を考えることの大切さを述べるのです。

監督の金子正志さんはこの劇を1年間の平和学習、道徳学習で取り組んだと話されました。衣装やカツラも見事なもんですが、吉良のしゃべり方、歩き方、そしてしっかりと声を出して堂々とセリフを言うみなさんに感心しました。指導の先生の力量にも感服しました。何よりもこの児童たちは生きている限り、この取り組みで得たものを決して忘れることはないでしょう。演劇が教育に果たす役割には大きなものがあります。

劇団川本孰の「天領かわもと〜夏の名残〜」(作・演出 堤 浩隆)は創作時代劇です。
DPP_0018

天保の飢饉で天領かわもとも大被害を受け、村人は復興に汗水を流している。大森代官所の役人、天野助次郎も村人と一緒に復興に力を尽くしている。代官・吉岡隼人が江戸へ行っている間に責任を任された中瀬弾右衛門はそんな天野が許せず対立する。天野は中瀬を殴り、疾走する。吉岡代官の娘・澪が、かわもとの復旧現場へやってくる。彼女は天野と恋仲である。村人は飢饉の犠牲者を弔い絆を強めるために盆踊りを開催しようとしている。しかし役人の中瀬はそれを許さない。そこへ天野が出てきて中瀬と斬り合いになり中瀬は負ける。代官の吉岡も帰ってきて、村人や天野の言い分を認める。天野と娘の澪もむすばれる。太鼓や歌い手も出てきて賑やかに念願の盆踊り。

DSC04416

以下、消えてしまいましたので続続で紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初の石見演劇フェスタ成功裏に終了

2012年10月28日、浜田市で「石見演劇フェスティバル」が開催されました。朝9時から17時過ぎまで10団体が多彩な舞台を繰り広げました。詳しいことはそのうち紹介するつもりですが、とりあえず無事終了したことをお知らせします。参加されたみなさん、おつかれさまでした!

10月末から11月中旬の土日はどの文化団体も行事を組むために、どこでもイベントや行事でいっぱい。浜田でも五カ所で大きな行事があったようです。ぼくがチケットを送った浜田の人は、みな予定の集会やイベントがあり無理をして、途中抜け出して来た、という人がほとんどでした。そういう中での公演でしたが、新聞では観客550人とでています。

劇研空も上演したので、「石見銀山旅日記」の写真は撮れませんでしたが、他の劇団の写真の一部をちょっと紹介してみます。

上の写真は「石見国くにびき18座」のみなさんの群読劇「花・いっぱいに」(金田サダコ作)です。舞台効果を十分考え、また歴史や今の時代への警告を込めてつくられた劇でした。高齢者が多いことを考慮してセリフや動き、衣装などを考えて脚本を書き、演技指導されたことがよくわかります。その効果ははっきりと舞台に出ていました。いい舞台でした。

 上の写真は浜田のNPO「創作てんからっと」の「片桐さんからの手紙」(美崎理恵・作)。それぞれみなさん演技が達者で、とくに3人の女性が生きていました。現代の家族問題を思わぬ角度から切り開き問題提起。舞台装置も一見よく考えられているとお思って見ていたのですが、どうも重要テーマが埋没し、分裂していく気がするので、なんでだろう、と思っていました。多分その一つの原因はド真ん中の一番目立つ場所で二人のラジオ番組の司会者とDJが度々華やかに浮かび、逃亡して行方不明の老いた父と家族の流れを切り、観客の意識を切断するからではないかと思いました。劇を創り演じていく点では最もやりやすい位置ですが、この劇のテーマと装置という点では、ラジオのDJなどは控えめな存在であったほうが内容がよく表現できるのではないかと考えたりしました。ここでは写真の説明だけをするつもりだったんだろ、ストップ!次!ハイ!

今朝の山陰中央新報の石見版に今回の公演が紹介されていました。見たことのある風景と顔!劇研空の「石見銀山旅日記」の一場面じゃありませぬか!さすがベテラン、絵になる動きのある場面をしっかり写しておられます。ちょっと紹介させていただきます。読みたい人はカナラズ山陰中央新報を買って読みましょう。

またいつか、そのうち詳しく紹介しましょう。県立大学の瓜生先生が最後まで観ておられ、話しをしました。先生には大田市民会館で公演した天領太鼓の公演の舞台評を以前書いていただいたことがあります。今回の舞台評も書かれるそうです。楽しみです。

 

 

筑前琵琶で平家物語の朗詠と語り

2012年9月2日、大田市の市民センター4階で平家物語の朗詠と語りがありました。大田市文化協会が大田市から委託されて開催している事業で4年目(多分、去年は佐藤洋二郎さんの小説講座だった)になります。大田市出身者を招いて開催する事業です。

今年は大田市久手町出身で大田高校卒業、宇治市にお住まいの六嶋由美子さんの平家物語の語りでしたが、共演者として神戸市の川村旭芳さんが素敵な華を添えられました。

 六嶋さんは親しみのある笑顔で平家物語の魅力を話し、参加者に配ったプリントの中から平家物語の有名な箇所を観客全員にも読ませるというワークショップのような時間も取り入れられました。参加型の公演?六嶋さんは平家物語の原文を語られるのかと思っていたのですが、平家物語からストリーを自分で書き、それを語られました。平家物語の解説に近いのですが、解説ではなく現代語による「語り」です。これは誰にもよく分かり、なるほど、こういう語りもありか、と納得しました。

市民センタ4階は単なる広い部屋です。舞台や照明音響の設備はないので、市民会館のスタッフが持ち込んで設置されました。150人の聴衆は予約制でした。

川村旭芳さんはきりっと引き締まった端正な顔立ちと姿で素敵な琵琶の演奏と朗詠を聞かせてくださいました。8歳から琵琶を習ったたそうです。

 演奏が終わってから一枚パチリと遠くから遠慮がちに写しました。今回の公演は六嶋さんだけでなく川村さんの琵琶と朗詠のコラボだったことで両方の魅力が生きたのではないかと思いました。

実は劇研空でも数年前、平家物語の朗読をやろうと思って、本を揃え、DVDも手に入れて勉強しかけていたのです。そのDVDは松本幸四郎さんなど一流のプロが10数人、平家物語の朗読をされているものです。とても個性的でおもしろく、ぼくらも訓練して、好きな人に聞いてもらえるような小公演がしてみたい、と思ったのです。発声練習や表現練習にもなります。

その時、大田で琵琶が弾ける人はいないかな、と真剣にさがしました。朗読が好きな人がいれば、いつか平家物語の名場面を朗読するミニ公演を開いてもおもしろいでしょうね。琵琶が無理なら、ギターでもいい。

というようなことがあったものですから、今回の公演もいい企画だと楽しみに行ったのでした。六嶋さん、川村さん、おつかれさまでした。ありがとうございました。

「舞い奏で歌う」舞台発表(つづき)

なぜかブログで終わりの方が出ませんでしたので、ここへつづきを紹介します。「石見銀山巻き上げ節」の踊りです。

 照明が消えると!

真っ暗い中で、手に持った灯りだけのうごきですが、とても素敵でした。しかし写真にすると、なんじゃこれ?。やっぱり生の舞台でないとだめですね。
 いつかまた発表される機会があるとき、今回の企画はワンステップとしてモデルになることでしょう。それぞれの演目をさらに工夫してレベルを高め、その時には、さらに充実した舞台になることを楽しみにしています。みなさん、おつかれさまでした。

H24 石見銀山を「舞奏歌」舞台発表成功裏に終わる

2012年6月24日、サンレディ大田で、石見銀山世界遺産登録5周年を記念して「石見銀山を舞い奏で歌う」発表会がありました。石見銀山に関係する合唱や歌、舞踊、民謡など多彩な舞台で楽しい時間を過ごしました。舞台の風景写真を中心に紹介しましょう。
 チラシとプログラムの表紙です。銅鐸を思わせる黒をバックにしてちょっと印象に残るデザインですね。ぼくはプログラムなどは保存していますが、「いいね」というものはたまにしかありません。簡単なようで難しい。記録性や芸術性、創造性、独自性なども覗われるものは貴重で時代がたっても役にたちます。(ナニヲイイタイノダ!ホンダイニモドレ!)

トップは「サウンドコラージュ」です。劇研空は今までに何度も共演しています。今回の合唱組曲「石見銀山」は6曲から構成されていますが、大田市文化協会結成30周年で当時の会長・勝部義夫に依頼されて「鶴」という脚本を書きその中で歌われた曲です。作曲は大畑世利子さん、作詞は洲浜さんです。「仙の山に立つ」などはいろいろな機会にサウンドコラージュによって歌われています。さわやかないい曲です。詞も!

写真は大田市少年少女合唱団とコラージュのみなさんです。「三瓶小唄」と「温泉津小唄」を伊藤裕子さんの指揮で歌いました。和服がきれいで素敵でした。もちろん歌も!

この「温泉津小唄」はかの有名な野口雨情の作詞です。昭和18年4月29日、温泉津の俳人山口打聴さんたちの招きで奥様と一緒に温泉津へこられ作詞されたのです。昭和32年に内藤淳作町長の尽力により、大村能章作曲、市丸の歌でビクターからレコードになりました。8番までありますが、その一部です。雨情の作詞ですからそのうちまた復活して歌われる琴でしょう。貴重な財産です。

石見温泉津は湯のわくところ
住めば住むほどくらしよい

今宵や温泉津の温泉泊まり
旅の疲れも湯で流す

昔なつかしあの七騎坂
幾度涙で越えたやら

上の写真は「石見銀山英苑会」のみなさんによる「石見銀山馬子唄」です。これは藤村英苑さんが作曲されたものです。藤村さんとは以前「石見銀山歴史物語」の舞台でこの歌を歌っていただきました。魚売りの役でした。普段も舞台でも気っ風がよく、言葉も動作も切れがあり、声は抜群、節回しもさすが師匠さんだけありずば抜けていて感激したのを覚えています。今回も素晴らしい声でした。もったいない人です。
 今回の主催は「石見銀山を舞い奏で歌う」実行委員会、文化協会の共催です。実行委員長の石田さんから挨拶があり、石見銀山の文化的な遺産を子どもたちに伝えて行きたい、と考え今回の企画をしたと話されました。いつも忙しい石田さんがこのような役を引き受けられたことに感銘をうけました。

ご主人のケンサクさんは「詩と絵はがきによるダイレクトメール」を企画、月に1回ぼくが詩を書き、1000通くらい発送されたそうです。郵政省のナントカ賞も受賞しています。親子劇場の会長もしておられましたし、歌は抜群のケーオーボーイ。ぼくが退職したら音楽と演劇で何かやりましょうと意気高らかにノンダものです。(ミチクサヲスルナ、ゴメン)

大森で浅野温子さん「古事記読み語り」

2012年6月24日、大森の城上神社境内で浅野温子さんの「古事記 読み語り」の公演がありました。「ヤマタのおろち」「因幡の白うさぎ」「義父が与えた最後の試練」と3回に分けて行われました。最初の語りを聞きましたが、さすがはプロ!200人ばかりのお客さんは一人で演じられた1時間の読み語りに惹きつけられました。

写真は城上神社(きがみ)です。写真撮影禁止なので、始まる前に写したものです。この神社は元は仁摩町馬路の城上山にあり、1434年大内氏が大森の愛宕山に遷座、1477年には毛利輝元が現在の場所に移した、と記録にあります。王国主命を祭っています。

古事記の原文を朗読しても理解できませんが、浅野さんは分かりやすい現代語で脚色しておられました。いろいろな人物の会話、独白、地の文、説明、感想や解釈等々、それを見事に使い分けて語られました。

耳だけではなく目で見えるようにイメージ豊かな言葉に書きかえられたところに感銘を受けました。同時に「現代にとってヤマタのおろちとは」という視点が貫かれていました。単なる女優ではなくcreatorとしてもすごい人だな、と思いました。

6月25日の山陰中央新報が一面で報道していましたので、切り抜きを写真でパチリと写して紹介させていただきましょう。読みたい人はどうぞ買って読んでください。
台本は手に持っておられますが、もちろん言葉は体に染みこんでいることでしょう。自由に動き回って語られましたが、それも自然でした。はるばる石見の大森まできていただき、おつかれさまでした。

 

H24 「ミュージカルスクール」成果発表

2012/02/12、サンレディ大田でミュージカルスクール講習会の最終日に発表会がありました。題は「ホーンテッドスクール~ようこそお化け学校へ~」(原作 森脇太一郎、脚本 佐藤万里、作曲 川崎絵都夫、演出振り付け 三浦克也)。1月の土、日に終日練習し6回目の最終日にその成果を発表しました。短期間の講習でしたが小学生など23人(だったかな?)がのびのびと舞台で演じました。舞台風景を紹介します。

(開演前のサンレディ大田のホール。普段は平面のフロアーですが移動式で約400席が可能になります。大きさとしてはちょうどいいし、音響や照明も一応の機材は揃っています。スタッフも親切丁寧にしっかりとサポートしてくれます。何故か建設当初から緞帳がないのが不思議です。)

 主催は「OHDA」no WA実行委員会、講演は大田市教育委員会。主催は初めて聞く名前ですが、大田市文化協会と大田市市民会館他で構成されているようです。文化協会の会長、白石さんが挨拶されました。

山陰中央新報大田支局の堀江さんが書かれた「記者コラム」を切り抜いていますが、それによると1997年から8年間、スクールは毎年実施していたそうです。今回の参加者に中学生がいないのはスクールの空白期間に小学校3~6年だった児童がちょうど今の中学生世代に当たるからだという関係者の声を載せ、「継続は力、民間の手で地道に続けていくことが地域文化の地力になる」と書いておられます。

短期間の講習でしたが、セリフや歌をしっかり覚えていることはもちろん、大変のびのびと演じているのが印象に残りました。初めての子どもたちを舞台でリラックスさせるなんて簡単ではありません。指導された先生方の力量のたまものでしょう。舞台装置も工夫されていて照明なども自然でした。ストリーはありふれて平凡ですが、20数名の子どもたちが発表することを考えてよく作られていました。

いい企画だなと思ったのは、5日間の講習で最終日にその成果を公演するというスタイルとです。1年間とか半年の講習なら練習は十分できますが、参加者や親も参加を躊躇する可能性があります。子どもたちは暇ではなく忙しい日常を過ごしているからです。

親としては自分の子どもに、小中高と野球漬け、サッカー漬け、片寄るというのは心配です。水泳も歌もピアノも、できれば舞台に立ってはっきりしゃべる経験もさせておきたい・・・と欲張ります。そういうとき、短期間で演劇講習を受け発表ーというのは魅力的かも知れません。

ジュニアミュージカル風花の子どもたちも数名出演していました。風花はこの3月まで青少年ホームの3階で毎週土曜日の7時20分から練習しています。3月末で青少年ホームは使用禁止。空は河合の町つくりセンターを使用するようにいわれています。風花もかな?風花も参加者を募集しています。興味のある人はどうぞ。

 

 

H24 2/19 「川本の地芝居大会」観劇記

2012年2月19日、邑智郡川本町の悠邑ふるさと会館で「復活地芝居大会」が開催されました。邑南町高原の「星が丘一座」、美郷町の「吾郷青吾会」地元川本の「劇団かわもと孰」が3本の時代劇を熱演しました。劇の間には舞踊が華を添えました。一昨年(だったかな?)も終日観劇してブログで紹介しましたが、今回は写真を中心に紹介します。


前日から珍しく大田でも大雪。30㌢くらい積もりました。家の前の雪景色です。大田ではちょっと降ってもすぐに溶けますので30㌢も積もることは滅多にありません。

 中止にはなりませんでしたが、マイ ネイティヴ  ヴィレッジの「星が丘一座 」は残念ながら観劇できませんでした。雪の中をナカムラさんと昼頃川本へ行きました。

 吾郷青吾会の『へちまの花』は初演舞台だったそうです。劇団の名前は以前から聞いていましたが観るのは初めてです。ベテランが多く役者の呼吸もあっていて笑わせる場面は観客を笑わせ パシッと決める場面では熱演して大きな拍手を浴びました。涙を流した人もいたことでしょう。

 金持ちの大黒屋の女将がある村へ来た時、小屋で機を織っていた娘の後ろ姿を見て嫁にもらいたいと娘の兄に頼み婚礼の日にちまで決めてしまう。ところが娘は超ブス。婚礼の日が来たのに、あの手この手を使ってみんなで破談にしようとする。最後は、「人は顔じゃない心だ」というテーマへ落ち着くのだが、どんでん返しなどもうまく考えて作ってあり十分楽しめました。地芝居は義理人情話が中心ですが、現代では忘れられようとしている人間の絆や思いやりを描いています。ややもすると「古い」と片付けられてしまいがちですが日本人の原型があると言っても過言ではないでしょう。そういう伝統文化を継承している芝居だということを大切にしたいものです。

(終わってから一人ずつ挨拶される吾郷青吾会の演出と役者のみなさん。たのしくて感動のあるいい舞台でしたよ。おつかれさまでした)

終わった後で劇団の人と立ち話をしました。地芝居には活字にした台本はない場合が多いそうです。ストリーだけあって練習しながら座長とともにセリフを作っていくのだそうです。だからせっかく覚えても度々変更になるので大変だと言っておられました。観客を大切にし楽しんでもらうためにその土地その土地でセリフを変えたり、アドリブを入れたり工夫するそうです。 現代劇でもそういう作り方をする劇作家もいます。面白い作り方ですね。

たくさん踊りの舞台もありましたが、ひとつだけ紹介します。タビラくんは4歳だったかな。おひねりが舞台へ飛んできました。子どもは何をしてもかわいい!!決まっていましたよタビラくん!!

最後は劇団川本塾の『夏の別れ~川本の奇譚~』。川本の盆踊りの場面から劇は始まりました。それを見ながら川本の温湯城にいた小笠原氏と尼子氏が戦いをした時に起源がある踊りだということが語られます。

小笠原氏の若武者が、好きだった娘と料亭で酒を酌み交わし料理を食べて別れ、そのまま武者は帰って来なかった、という伝説が徐々に浮かび上がってきます。娘は姿を変えて今も待っています。

この創作劇の作・演出は堤 浩隆さんです。劇研空の「琴の鳴る浜」にも出ていただきました。劇研空の吉川さんと前田さんも出演して劇をリードしました。声もよく通りいい演技でした。

 地元の歴史を取り上げたて舞台化したのはとてもすばらしいことだったと思います。構成もよくできていたと思いますが、3つの恋いが絡んでいて焦点が拡大してわかりにくくなった気がします。「川本の盆踊り、娘と若武者の恋、幽霊になって今も待つ娘」。この太い線をしっかり押さえて創るともっと印象の強い佳品になったのではないかという気がしました。そうすれば最後の若武者の凛々しい姿がさらに際だったかも。

これは初演です。短期間でよくここまで完成されました。暗転が多すぎたので今後上演するときは音楽を使ったり明転にしたり工夫すると劇が引き締まるでしょう。みなさん、おつかれさまでした。

カツラは購入したそうです。財産が増えましたね。いつか時代劇をやるときには貸してくださーい。井戸平左衛門殿!

夕食のときニサイのアカリチャンが、ハッピバースデエィツーユーを歌ってくれましたがそれはこの川本の地芝居とはマッタクカンケイアリマセン。