柿本人麻呂と大田市 三瓶山、宅野の韓島

 創作音楽劇『琴の鳴る浜』では万葉集の柿本人麻呂の歌や「いろはうた」を(長坂先生作曲)歌ったり合唱します。万葉集には人麻呂が三瓶の浮布の池を歌った和歌も載っています。「君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし袖濡れにけるかも」第2巻135石見相聞歌では「辛乃崎」という地名もでてきます。これは宅野の韓島だという説もあります。

 平家の姫である琴姫さんは教養として万葉集や源氏物語をそらんじているという設定です。村の子どもたちに「いろはうた」や人麻呂がつくった石見の歌を教えます。とてもいい曲です。その歌の背景などを簡単に紹介します。


   柿本人麻呂の石見の歌、いろはうた

 本来平家は源氏と同様に武士ですが、朝廷に近づき文化的にも貴族に近い存在になりました。平安貴族の女性にとって習字(ひらがな)や琴、和歌の素養を身につけることは絶対条件でした。この劇では姫は橘定子という名前で教養を身につけた平家の姫です。万葉集の「歌の聖」・柿本人麻呂の歌は諳(そら)んじています。

 からの崎 作曲・長坂行博
        和歌・万葉集第二巻石見相聞歌人麻呂の歌冒頭
 つのさはふ 石見の海の
 言さへく 辛(から)の崎なる
 海石(いくり)にぞ 深海松(ふかみる)生(お)ふる
 荒磯(ありそ)にぞ 玉藻(たまも)は生ふる

意味ー石見の海にある韓の崎の海中にはふかみるが生えている。荒い海岸の岩には玉藻が生えている。

 石見の国から都へ帰って行くとき作ったと言われる歌です。その中に「辛乃埼(からのさき)」という言葉が出てきます。犬飼孝氏や斎藤茂吉氏は浜田の唐鐘(からかねとも呼んだ)の岬だという説をたてました。梅原猛氏のように宅野の沖の「韓島」だという説もあります。(当時漢字は外来語でほとんどが音にたいする当て字です)邇摩には一時的に都の国府があったという説もあります。国府の役人だったという人麻呂は山陰道を通ったのはまちがいないでしょう。今の宅野と波根には山陰道の駅が定められていました。波根には波根湖があり外国の舟などもやってきたという記録もあります。きっと賑わった所だったのでしょう。

(万葉集二巻132 人麻呂の歌)作曲・長坂行博
 石見のや高角山の木の間より
 我が振る袖を見つらむか

意味ー 石見の国の、高角山の木の間をとおして、私が振る袖を妻は見ていてくれるだろうか
(万葉集第2巻136石見相聞歌135の反歌 人麻呂の歌
青駒の足掻(あがき)きを速み雲居にぞ
       妹があたりを 過ぎて来にける

意味ー灰色の馬の歩みが速いので、雲のいるところまで、妻の家のあたりを通り過ぎてきた。 (上代で「あを」は淡灰色や淡青色の薄いぼんやりした色)
      
「いろは歌」     詞・日本古来の「いろは」より
                  作曲・長坂行博
   いろはにほへと ちりぬるを
   わかよたれそ つねならむ
   うゐのおくやま けふこえて
   あさきゆめみし ゑひもせす
あさきゆめみし ゑひもせす 

 色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日超えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

・意味ー花は美しく咲き香ってもやがて散ってしまう。この世に変わらないものなどないのだから、今日も現実の困難を乗り越えて、はかない夢などに酔いしれていてはいけない。

 「いろは四七文字」は平安時代の空海の作といわれていましたが確証はありません。そんな文字を作り出せるのは空海くらいしかいないだろうということで空海作だと信じられたようです。

 いろは歌は総て清音で濁音はありません。
 「今様歌」は平安時代末から鎌倉時代にかけて貴族や朝廷では大流行しました。神楽、催馬楽、風俗歌などに対して当世風の新しい歌としてもてはやされたようです。和讃から出た七五調を四回つづける形態の歌謡で 当時としてはニューミュージックだったのでしょう。いろは歌は今様として歌われたかどうか不明ですが、今様風の手習い歌であることは間違いありません。節をつけて歌われたに違いないと思います。劇中の「いろは歌」は今様風ではありません。

 劇中ではお琴さんが人麻呂の和歌やいろはうたを独唱したり子ども達と歌ったりり、大田市少年少女合唱団と歌ったりします。

 お琴さんを演じる森山ゆいさんは大田高校でも演劇部でしたが京都女短にいたときにも演劇活動をしていました。今回合唱を指導される伊藤さんに高校時代に歌の指導を受けたそうです。不思議な縁ですね。

 不思議な縁といえばヴァイオリンを演奏される足立恵子さんは邇摩高校におられた音楽の足立先生の奥様です。足立先生とは邇摩高校で一緒でした。若くてハンサム、センスのいい先生でした。演劇とブラスバンドが一緒になって一般公開をやっていましたが足立先生とぼくや中村先生が企画してはじめたことでした。チケットは50円。体育館には多くの地元の人たちがきてくださいました。

 その足立先生はぼくが邇摩高校から川本高校へ転任してから数年後に他界されました。びっくりしました。いまでも信じられないくらいです。その奥様と何十年ぶりに舞台でご一緒できるなんて!不思議な縁ですね。

投稿者:

suhama

1940年、島根県邑智郡邑南町下亀谷生まれ・現在、大田市久利町行恒397在住・早稲田大学教育学部英語英文科卒・邇摩高校、川本高校、大田高校で演劇部を担当、ほぼ毎年創作脚本を執筆。県大会20回、中国大会10回出場(創作脚本賞3度受賞)主な作品「廃校式まで」「それぞれの夏」「母のおくりもの」「星空の卒業式」「僕たちの戦争」「峠の食堂」「また夏がきて」「琴の鳴る浜」「石見銀山旅日記」「吉川経家最後の手紙」「父の宝もの」など。 著作:「洲浜昌三脚本集」(門土社)、「劇作百花」(2,3巻門土社) 詩集「キャンパスの木陰へ」「ひばりよ大地で休め」など。 「邇摩高校60年誌」「川本高校70年誌」「人物しまね文学館」など共著 所属・役職など: 「石見詩人」同人、「島根文藝」会員、大田市演劇サークル劇研「空」代表、島根県文芸協会理事、大田市体育・公園・文化事業団理事、 全国高校演劇協議会顧問、日本劇作家協会会員、季刊「高校演劇」同人、日本詩人クラブ会員、中四国詩人会理事、島根県詩人連合理事長、大田市文化協会理事

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