3/14公演 創作音楽劇『琴の鳴る浜』の一部を紹介します

邇摩高校演劇部
 公演は3月14日の14時からですが、あと10日。この音楽劇や馬路のことについてPRも兼ねて紹介しておきます。写真は昭和52年に邇摩高校演劇部が上演したものです。衣裳や頭の処理について参考になればと思って載せてみました。当時みんなで話し合って衣裳も決めたと思いますが、鎌倉初期の農民と地頭の家来の服装をよく考えて作っていますね。ここに出た人たちはいまどこにいるのでしょう。近くにいたら観にきてほしいですね。
 
 チケットが必要な人はメールか電話をください。送るか当日窓口でキープしておきます。


    31年前の脚本が姿を変えて音楽劇へ

 昭和52年に邇摩高校の演劇部が『琴の鳴る浜』を石東地区大会や県大会で発表し、依頼を受けて馬路小学校体育館でも公演したことがあります。伝説に魅せられて空想を広げ書いたものです。

 31年たった平成20年夏、その脚本を「音楽と朗読」用に書きかえてみないかと提案を受けました。いつかミュージカルに近い劇にしてみたいと思っていたこともあり快諾。早速市民会館のスタッフと作曲の長坂行博先生と話し合い、先ず台本を書き直し、歌詞を作ることになりました。
 試作品を関係者で検討するなかで、「朗読」ではなく「音楽劇」にした方がいいということになり、大幅に書き直しました。その後何度も書き直して今回の上演に至りました。

     平安貴族から 戦国武士の時代へ

 この脚本では琴姫の伝説を素材にして創作していますが、時代背景はかなり事実に近い形で取り入れています。おとぎ話や民話風ではなく、変化する時代の中で姫や村人の喜びや悲しみを葛藤のあるドラマとして描きたかったからです。

 平家が京都から源氏に追われ、壇ノ浦で源義経(みなもとのよしつね)に滅ぼされたのは1185年3月24日。清盛の妻・二位の尼は8歳の安徳天皇を抱き、「波の下にも都のさぶらふぞ」(『平家物語』)と言って海へ飛び込み、勇猛な武将・知盛(とももり)も鎧(よろい)兜(かぶと)を身に着けたまま海へ。女官たちも次々と入(じゆ)水(すい)し平家一族は水底(みなそこ)の藻(も)屑(くず)と消えました。

 義経は石見の御家人へ下文(くだしぶみ)を送り、益田兼高に従い平家追討に当たるように命じています。邇摩郡一帯を支配していた久利の清原氏は鎌倉幕府成立とともに地頭になっているので、戦功があった益田氏と共に源氏方として戦ったと考えられます。鎌倉の頼朝は勝利すると諸国に守護地頭を置き支配しました。清原氏の長男・太郎重房は邇摩の地頭になっています。

 「平家にあらずば人に非(あら)ず」と権勢を誇った平家も敗ければ賊軍です。平家に味方した者は素性を隠し「落人(おちゆうど)」となって山奥へ逃げました。全国に130カ所近い平家の落人伝説があり、大田市にもあります。

 この「琴の鳴る浜」ではこのような時代背景を取り入れて創作しています。

投稿者:

suhama

1940年、島根県邑智郡邑南町下亀谷生まれ・現在、大田市久利町行恒397在住・早稲田大学教育学部英語英文科卒・邇摩高校、川本高校、大田高校で演劇部を担当、ほぼ毎年創作脚本を執筆。県大会20回、中国大会10回出場(創作脚本賞3度受賞)主な作品「廃校式まで」「それぞれの夏」「母のおくりもの」「星空の卒業式」「僕たちの戦争」「峠の食堂」「また夏がきて」「琴の鳴る浜」「石見銀山旅日記」「吉川経家最後の手紙」「父の宝もの」など。 著作:「洲浜昌三脚本集」(門土社)、「劇作百花」(2,3巻門土社) 詩集「キャンパスの木陰へ」「ひばりよ大地で休め」など。 「邇摩高校60年誌」「川本高校70年誌」「人物しまね文学館」など共著 所属・役職など: 「石見詩人」同人、「島根文藝」会員、大田市演劇サークル劇研「空」代表、島根県文芸協会理事、大田市体育・公園・文化事業団理事、 全国高校演劇協議会顧問、日本劇作家協会会員、季刊「高校演劇」同人、日本詩人クラブ会員、中四国詩人会理事、島根県詩人連合理事長、大田市文化協会理事

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