平家の姫は本当に馬路の琴ヶ浜へ流れ着いたのか?

琴姫の碑
 写真は大田市仁摩町馬路の琴ヶ浜にある「琴姫の碑」です。この琴姫の伝説を素材にして創作音楽劇『琴の鳴る浜』を脚本にして、平成22年3月14日14時から大田市民会館で上演します。琴姫について紹介しましょう。果たして本当にあった話が伝説になって800年以上も伝わっているのか。それとも誰かが作った話が伝説になって今も語られているのか。どう思いますか。
 


 栄華を誇った平家が下関の壇ノ浦で滅びたのは1185年(寿永4年)3月24日。今から825年前のことです。伝説によれば、敗北の4日後に、姫が琴を抱いて馬路の浦へ漂着したといいます。ありそうな話しですし、事実だった可能性もあります。しかし確かめる術はありません。

 次の記述は主として『仁摩町誌』や琴ヶ浜観光協会から発行された書物や石村勝郎氏の本を資料にしてまとめたものです。

松の大木の下に平家の姫の墓

 明治の古老の話しによると、「大きな松の木の下に平家の姫が祭られていて玉垣をめぐらした墓があり、そこでよく遊んだ」そこは馬路駅の南の70㍍の高地で、二抱えもある松の巨木がそびえ鶴松と呼んでいた。

 大正初年に藤田村長の呼びかけで青年団がこの墓地を発掘したところ、言い伝えのとおり地下10㍍余の砂中から板石8枚に覆われた骨壺が出てきた。(石村氏の本では、梵字を彫った30㌢四方の墓標も出たとある)

 骨壺は馬路満行寺に長い間保管されて供養されていたが、昭和42年に琴ヶ浜観光協会の手で浜の中央防砂堤付近の浜一帯が見下ろせるところへ墓地が作られて収納され、碑も建立された。

馬路には満行寺から南へ百㍍ところに「上壇(じようろうだん)」(上は身分の高い女官いう意味)という地名も残っていて、最初はそこに姫は葬られ300年くらい前に鶴松のそばへ移葬されたという言い伝えもある。

 大正元年当時は今のように墓地周辺や駅の下方に密集する人家はなく、一面ゆるやかな砂浜であった。長年に渡って吹き上げられた砂によって墓所が埋没したために移葬したのである。

 馬路の盆踊りは明治時代までは「鶴松」を中心にして姫の供養をかねて盛大に行われた。鶴松は昭和25年ごろ、倒れたら人家に被害がでるという訴えがあり伐採された。

 地下約10㍍の砂の中から骨壺が実際に出てきたというのは驚きですね。

 瀬戸内海の潮は一日の内に流れが東西に変わります。西からの流れが東からの流れに変わり、それに乗って源氏は平家を攻め勝利したといいます。そのとき舟に乗ったまま日本海に流され、対馬海流に乗って日本海を北上し、馬路の湾へ流れ着いたということは可能性としてはありそうです。

 

 

投稿者:

suhama

1940年、島根県邑智郡邑南町下亀谷生まれ・現在、大田市久利町行恒397在住・早稲田大学教育学部英語英文科卒・邇摩高校、川本高校、大田高校で演劇部を担当、ほぼ毎年創作脚本を執筆。県大会20回、中国大会10回出場(創作脚本賞3度受賞)主な作品「廃校式まで」「それぞれの夏」「母のおくりもの」「星空の卒業式」「僕たちの戦争」「峠の食堂」「また夏がきて」「琴の鳴る浜」「石見銀山旅日記」「吉川経家最後の手紙」「父の宝もの」など。 著作:「洲浜昌三脚本集」(門土社)、「劇作百花」(2,3巻門土社) 詩集「キャンパスの木陰へ」「ひばりよ大地で休め」など。 「邇摩高校60年誌」「川本高校70年誌」「人物しまね文学館」など共著 所属・役職など: 「石見詩人」同人、「島根文藝」会員、大田市演劇サークル劇研「空」代表、島根県文芸協会理事、大田市体育・公園・文化事業団理事、 全国高校演劇協議会顧問、日本劇作家協会会員、季刊「高校演劇」同人、日本詩人クラブ会員、中四国詩人会理事、島根県詩人連合理事長、大田市文化協会理事

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