6/27 竹内幸夫さん「神楽の魅力」未来塾で講演

 竹内幸夫
 毎月魅力的な講師を大田に呼んで講演会を開催している未来塾ですが、6月は神楽の大家、石見郷土研究懇話会会長の竹内先生の講演でした。


 竹内先生は川本高校で数学の先生でしたが、音楽の才能もありブラスバンドを全国レベルまで育てられた人です。神楽の造詣も深く以前山陰中央新報に一年以上連載されたことがあります。

 「私の神楽談義 神楽文化」という本も執筆しておられます。「川本高校70年史」を共同執筆したとき、ブラスバンドの歴史も調べましたが、記録がきちんと整理されていて、さーすが全国一になる部は後世のことも考えて記録もきちんとのこしている、と感心したものです。

竹内2

  今回の神楽の講演はぼくが期待していたテーマと少し違っていたので、僕にとってはすこし期待はずれでしたが、80才を過ぎて矍鑠とした話しぶりには改めて感銘を受けました。先生は運動能力も抜群だったそうです。贅肉がない精悍なスタイルは青年のようです。

 7月25日は松本一直さんの「吉永藩と石見銀山の関係」です。2時からです。
今まで何度か聞いていますが、今回もすばらしい話しが期待できます。

投稿者:

suhama

1940年、島根県邑智郡邑南町下亀谷生まれ・現在、大田市久利町行恒397在住・早稲田大学教育学部英語英文科卒・邇摩高校、川本高校、大田高校で演劇部を担当、ほぼ毎年創作脚本を執筆。県大会20回、中国大会10回出場(創作脚本賞3度受賞)主な作品「廃校式まで」「それぞれの夏」「母のおくりもの」「星空の卒業式」「僕たちの戦争」「峠の食堂」「また夏がきて」「琴の鳴る浜」「石見銀山旅日記」「吉川経家最後の手紙」「父の宝もの」など。 著作:「洲浜昌三脚本集」(門土社)、「劇作百花」(2,3巻門土社) 詩集「キャンパスの木陰へ」「ひばりよ大地で休め」など。 「邇摩高校60年誌」「川本高校70年誌」「人物しまね文学館」など共著 所属・役職など: 「石見詩人」同人、「島根文藝」会員、大田市演劇サークル劇研「空」代表、島根県文芸協会理事、大田市体育・公園・文化事業団理事、 全国高校演劇協議会顧問、日本劇作家協会会員、季刊「高校演劇」同人、日本詩人クラブ会員、中四国詩人会理事、島根県詩人連合理事長、大田市文化協会理事

「6/27 竹内幸夫さん「神楽の魅力」未来塾で講演」への5件のフィードバック

  1. 1023/02/08 、
    修平さんが復活してくれたグラフを見て、びっくりしたり感銘を受けたり。このブログの項目は400くらいありますが、今日久しぶりにグラフを見たら、この竹内幸夫先生の項目がダントツでトップ。なぜかまだ分かりません。竹内先生の本などを読んだ人が検索したのか、竹内先生が何か新聞や雑誌に書かれてそれを見た人が検索したのか。まさか・・。
    そんなことはありません。

    竹内先生が山陰中央新報に石見神楽のことを書かれたのは随分前のことですが、毎日それを読んで感動したのを今も覚えています。「石見神楽の魅力の一つは足の動きにもある。あの白足袋を履いた足の動きは、田んぼで泥土から足を抜くときの動きからきている」という意味のことが書かれていたのです。

    僕は震えるような感動を受けて、めったにないことですが竹内先生に感想書いて手紙を出しました。

    石見に生まれた子供に神樂は切り離すことができません。ぼくの生まれた田所では、秋に田所八幡神社で神樂がありました。夕方から翌日の朝、空が白けてくる頃まで見たものです。子供たちで衣装や道具を作り、真似をして何時も舞いました。雨の日は神樂でした。

    今も脳裏に焼き付いているのは、あの白足袋の動きです。これは子どもの時から焼き付いた原初の映像です。なぜそれが焼き付いたか自分でも分かりません。そういうことがあったので、竹内先生の解説を読んだとき感動したのでしょう。足の動き自体にも、土地の労働や文化や歴史や風習などが凝集されている!芸術や文学の原点を見た気がしたのでしょう。

    竹内先生は2006年に「私の神樂談義(Ⅳ) 神樂文化」を出版されました。先生の文章は自由闊達で、気分が爽快になります。音楽も陸上も神樂も一流で、自ら実践して来られた人ですから、書かれたことにも独自性があり説得力があります。

    グラフを見たことから、ついここを開き、駄文を追加してしまいました。

      1. あああ、「まさか」と書いて、悪い予感が走ったのですが・・・やっぱり、そうだったのですか・・・松井先生のときもそうでしたね。なんともことばがありません。佐々木恵未さんのブログを読ませていただきました。

        頼まれて神樂の台本「金山姫 銀山勧請」を書いたとき、真っ先に神樂のオーソリティ・竹内先生へ送って読んでいただきました。先生の丁寧な感想と評価がとてもうれしく、忘れられません。

        3年前、浜田の石央ホールで地芝居大会があったとき、ロビーで立ち話をしたのが最後になりました。贅肉のないほっそりとした精悍な姿が浮かんできます。立派な仕事を残して逝かれました。心からご冥福をお祈りいたします。

        1. 2013,1,30 、86歳で亡くなられた直後から、このブログを検索してvisit される人が後を絶ちません。3月になってもvisitor がつづき、グラフで上位を占めています。

          誰か新聞へ追悼記を書いてくれないかな、と思っていたら、3月7日の山陰中央新報の文化欄に掲載されました。追悼記を書くのにはぴったりの人!栄ちゃん!、谷口栄一先生です。

          数学の先生でありながら、なぜ音楽の指導者として川本高校吹奏楽部を’64年の全国学校合奏コンクールで日本一になるまで育てることができたか。

          ぼくは川本高校にいたとき、『川本高校60年史』の執筆を担当しました。吹奏楽部の輝かしい歴史も調べ、竹内先生のことも聞いたり調べたりして書きました。竹内先生は子どもの時から音楽や神楽、体育にずば抜けた才能を持っておられたようです。小学校にあったピアノを放課後よく弾いていたとか。友人の塩田さんが海軍の軍楽隊の優秀な演奏者だったそうで、その指導も大いに貢献したようです。谷口さんはその当時の吹奏楽部員として活躍、大学を卒業し教員になったとき、川本高吹奏楽部の伝統を受け継ぎ発展させていくためには谷口さん以外にはない、ということで竹内先生の後を受け継いだのです。そしてさらに輝かしい歴史を積み重ねたのです。

          「竹内幸夫先生を偲ぶ  『音楽の町・川本』礎築く 石見神楽研究にも尽力」(平成25年3月7日 山陰中央新報)は貴重な寄稿文です。しみじみと心を打ちます。すばらしい人に追悼紀を書いてもらい、竹内先生もきっと喜んでおられることでしょう。

  2. 石見中学(矢上)を卒業し浜田高校へ行きました。数学の担任は、1年生で石橋先生、2年生で竹内先生、3年生で松井先生でした。今、大学の教員をしています。竹内先生の思い出に40年以上前のことを重ねています。音楽の先生でよく知られていました。(その時代音楽を習った先生がビルマの竪琴のモデルになった先生でした。)私には数学の授業の思い出があります。

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