詩と音 ー 「交響詩 わが出雲」を聴いて

 
入沢康夫氏の詩集「わが出雲・わが鎮魂」から作曲された
とても珍しく貴重な音楽のことを山陰詩人に以前書いたので
つづいて紹介します。入沢氏と


詩と音・「交響詩 わが出雲」を聞く
     洲 浜 昌 三

 昨年の七月、「入沢さんを囲む会」があり、田村さんから誘いを受けて、松江へ出かけた。六人だけの会だったが、その席で、入沢さんに、「『わが出雲』は朗読すれば最高の作品ですね」と言った。               
 難解な詩集「わが出雲」を読んで、朗読に最高だと思う人は多分いないだろう。ぼくは、無理解な異端者と受け止められるのを覚悟して、恐る恐る言ったのだった。

 ところが入沢さんは、ぼくの言葉をすぐ受けて、「交響曲ですね。諸井誠が作曲して放送されたことがあるんですよ」と言われた。

 意欲的に「入沢詩」へアプローチしようとしている田村さんから、原稿を頼まれ、162号に「『わが出雲・わが鎮魂』と音楽・朗読」という短文を書いた。

 囲む会から数日たったある日、入沢さんから詩集とテープが届いてびっくりした。
 テープは、諸井誠作曲、入沢康夫詞、「交響詩 わが出雲」である。一九七〇年九月に放送されたものであるが、この交響詩の存在を知っている詩人がどれくらいいるだろうか。田村さんさえ知らなかったのだから、ほとんど知っている人はいないと思われる。

 「わが出雲」を読んで、音の面からも魅せられたのがぼくだけではないことを知り、愉快になった。このことを田村さんに話したら、再度、「紙上開放」ということになり、苦闘する羽目になった。

 大半の人は文章を読む時、特に現代詩を読む時、視覚から言葉を理解しているのではないかと思う。ぼくは、子供の時に音へ置き換える癖がついてしまった。これには弱点もあり、速読には適しない。しかし無意識だから仕方がない。
 
 音声という時、リズムや韻だけを考える人が多いが、それは数ある要素の一つにしか過ぎない。表現としての音声を構成する要素は無数にある。それに言葉や多様なイメージや感覚が加わったら、何十万という要素の中から組み合わせて一つの表現が可能になる。多様な装置や他の語や句、節、文の中での関係を生かせば何百倍にもなる。
     
 現代詩を書く時、音声を意識して書く詩人は少ない。むしろ排除して書く詩人が圧倒的である。音はそれ自体が解釈や情を生み、知に先行するからである。しかし、無数にある要素の中で、無意識に音の要素を比較的多く選んでいる詩人はいる。

 基底音があり(これが重要なのだが)、それを破る破調との係わりが生み出す新たな関係が、音の魅力なのである。ぼくは詩集「わが出雲」にその魅力を感じたのである。多分、諸井さんも、この詩集が内臓する壮大な宇宙とイメージを音で表現したくなったのではないかと思う。

 「交響詩 わが出雲」のことを詳しく書く紙幅はないが、簡単に紹介しておこう。
 指揮・森 正、管弦楽・NHK交響楽団、合唱・二期会合唱団、バリトン・中村義春、アルト・伊原直子、声・曾我栄子、三輪かつえ。詩集のポイントになる部分が朗読され、言葉や歌で表現されている。言葉は意味を伝えるので、その部分は強烈に印象に残り、この詩集のテーマがより鮮明になる。大地から湧き上がるような音楽や激しい稲妻、人々のささやき、その中を真実の自己を求めてさ迷う魂が浮かび上がってきて圧倒される。詩集最後の「意恵!」は多様な声で一分間表現される。それは日本古来の招魂や鎮魂の時に使われる声(音)だとぼくには思えた。

 「入沢詩」と音の関係について評論家や詩人が言及していないか探してみたが、手元にある書籍ではまったくなかった。
 ところが、入沢さん自身が述べている文章に出会った。2002年発行の現代詩手帳9月号である。岩成達也氏との対談で入沢さんは次のように語っている。(「集合的無意識」「無意識」が問題になった文脈の中で)

 入沢「無意識ということには多少は眉唾ではないかと思うようなところがたしかにあるのだけど、(略)自分が詩を読んで感じるふるえは無意識で説明し切れるかな、という気もどこかにやはりあるわけね。」 
 岩成「そこには世界の問題のほかに言葉の問題がからんできますからね。しかしそういうとき、言葉というものはどうなっているんでしょうか。」
 入沢「それがよくわからないんです。ただとにかく結果として言えるのは言葉がある種の結びつきを実現すると突然そういうことが起こることがある。それがどういう結びつきかと言うと、それはケースバイケースだし、なかなかそう簡単にいくものではない。また当然そこには単なる意味とイメージではなくて、むしろどちらかと言うと、「音」のほうが随分からんでくるらしいということをこの頃よく感じたりするんです。演繹的には言えないけど、結果としてやはりそうなんですね。」

 ぼくは言語や音声の専門家ではないので、学問的に詩集『わが出雲・わが鎮魂」を音との関係で論じる力はない。直感で、この詩集は音(朗読)で表現できる魅力に満ちていると感じたのである。上に引用した入沢さんの言葉からぼくの直感にも意味がありそうな予感がする。
 
 偉大な文学作品は様々な課題を投げかける。その課題はぼく自身の課題となる。ここに書いたことで更にそれは課題となる。現代詩の古典ともなった「わが出雲・わが鎮魂」で音も大きな課題だが、ぼくにとって最大の課題は「容器と中身」の関係である。
(山陰詩人164号より)

投稿者:

suhama

1940年、島根県邑智郡邑南町下亀谷生まれ・現在、大田市久利町行恒397在住・早稲田大学教育学部英語英文科卒・邇摩高校、川本高校、大田高校で演劇部を担当、ほぼ毎年創作脚本を執筆。県大会20回、中国大会10回出場(創作脚本賞3度受賞)主な作品「廃校式まで」「それぞれの夏」「母のおくりもの」「星空の卒業式」「僕たちの戦争」「峠の食堂」「また夏がきて」「琴の鳴る浜」「石見銀山旅日記」「吉川経家最後の手紙」「父の宝もの」など。 著作:「洲浜昌三脚本集」(門土社)、「劇作百花」(2,3巻門土社) 詩集「キャンパスの木陰へ」「ひばりよ大地で休め」など。 「邇摩高校60年誌」「川本高校70年誌」「人物しまね文学館」など共著 所属・役職など: 「石見詩人」同人、「島根文藝」会員、大田市演劇サークル劇研「空」代表、島根県文芸協会理事、大田市体育・公園・文化事業団理事、 全国高校演劇協議会顧問、日本劇作家協会会員、季刊「高校演劇」同人、日本詩人クラブ会員、中四国詩人会理事、島根県詩人連合理事長、大田市文化協会理事

コメントを残す