「石見詩人」は昭和29年、益田市で創刊された石見では唯一の詩誌で、現在同人は16名。発行されると集まって合評会を開いています。編集者は高田頼昌氏(698-0004益田市東町17-15)で、頒価は500円。読んでみたい人はどうぞ。同人も常に募集しています。
次ぎに掲載するのは119号に掲載した批評文です。面白くもないので読む必要はありませんが、石見詩人紹介の一端としてここに載せてみました。
「石見詩人」118号を読む
洲 浜 昌 三
いつも読後感を楽しく読ませていただいているのに、ぼくは一度も書いたことがない。批評は自分をさらけ出すこと。それが恐いから?ヒキョウ。と声が内面から聞こえるので、無知をさらけ出して書いてみた。あくまで、「ぼくはこう読んだ」という立場で。
《父が手を振っている/肥後俊雄》
人間にとって「存在」とは「記憶」のことでもある。人生の色々な場面で思いを込め、縁側で手を振った父の存在も、作者がこの世から消えれば、永遠に消える。題でもある「父が手を振っている」が六回繰り返される。それが使われる情況や背景はみな異なり、リフレインと共に波のように揺れる。リフレインがとても効果的。深さと味わいのあるいい詩だと思う。
《廃屋/有川照子》
最初の二連が新鮮で理屈抜きに、すーっとぼくの感覚に入ってきた。これが詩なんだと思う。一般に高齢者の詩は感性に欠けるが、今まで読んできた有川さんの詩にはどこかに感性が光る表現がある。二連までは感性に溢れた表現なのに、それ以降は廃屋や周辺の描写と一般的な感慨。悪くはないけど、ありふれた見方や全般的な表現に思える。作者独自の視点や一点集中的な掘り下げがあれば「廃家」の心象風景が鮮やかになるのではないだろうか。一般でなく特殊がイメージを喚起する。
《楽山にて/内山健司》
平成九年に内山さんの詩集「漂白(さすらい)」を読んだ時、生や死を認識しようとする思考の柔軟さと強靱さに感銘を受けた。今回の詩では、一瞬沈んでいくような墜落感のなかで苦さや辛さが胸に満ちてきた。「貧しさのなかで懸命に生きてきた誠実な人生」。それを「本当に道化師だったね」と最晩年になって自覚する苦渋。それは言葉では言い表せないほど深い。だからこそ、これは詩なのだ。貧乏の中にいると、場合によって、「時には何も口にしていない母とまで争い 大学はもとより恋愛さえ胸になかった」世界に閉じこめられる。単眼の悲劇。
作者は入沢康夫氏と松江中学の同期生。三年前、懇親会で同席したことがある。内山さんと入沢さんの会話を聞いていると、正に二人は竹馬の友。「楽山」を読みながら何度も浮かぶ風景があった。ぼくの妄想が松江の風景に重ねたスライドのような点景である。
《ある日の風景/高田節子》
読んでいると過疎の漁師町が鮮やかに絵になって浮かんでくる。それは作者が町の佇まいをきちんと見て、表現や描写にも繊細な工夫をしているからだろう。特に視覚と聴覚に訴えてくる見えない計算がある。黒い猫、グレーに近い貼り絵、若い女性のピンクの仕事衣、赤いバイク、赤いポスト、軽自動車の音、バイクの音、漁船の音 …。視覚は最もイメージの結実に効果的である。貼り絵のように静的な風景に猫や車や女性などの音や動きが印象に残る。単に物的なことだけではなく、作者の町や人への繊細な思いが生きて伝わってくる。無理のないまとまったいい詩だと思う。
《心のかたち(七)/わたなべ 恵》
こういう詩は哲学詩とでもいうのだろうか。観念の粋(すい)で構成されている。ぼくの理解を超えることもあるが、空疎な観念ではなく、作者の人生体験や思考に裏打ちされた実感から生まれた言葉もあり、共感することも多い。昭和30年代を共に生きてきたからかも知れない。象徴は言葉の本来の機能であり、詩を支える大黒柱でもあるから、内実を的確に掴み象徴した言葉に出会うと、そこに詩が立ちのぼってくる。この作品でもたくさん出会った。
しかし「悲の器」はいいとして、「往生要集」を解説した約25行はその前後とどんな哲学的、論理的関係があるのか、時間をかけても理解できなかった。ここだけ異質ではないかという気がする。最後の3行では、急に力を抜かれて、ぼくの思考は宙に浮いてしまった。こういう詩を石見詩人で読むことができるのは嬉しい。
《水車小屋/石金勇夫》
長年の資料収集と洞察をまとめ、2003年に「音と意味が類似した英語と日本語」(今井出版、二千円)という441ページのとてもユニークな本を出した作者は元英語の教師。大田高校で一緒だったが詩を書いておられるとは思いもしなかった。詩を書いている、と聞き、石見詩人を紹介した。「昭和のことを詩で書き残したい」と、作品が形になる先まで視野に入れた明確な意図に感銘したのを覚えている。
毎号発表された詩はわかりやすく、表現がやや一般的な箇所も散見されるが、素材への動機が深いため、詩の輪郭が明確で、思いが真っ直ぐ伝ってくる。光景が絵のように浮かんでくるのも作者の資質かも知れない。
今回の作品では最初の6行の中の展開にまず感心した。そして「祖母は二人の男児を失いたり/涙ひとつ流さず/愚痴ひとつ言わず」これが最後に行くほど効いてくる。沈黙の中、具体描写が生きていて、情景が絵のように浮かんでくる。カタカナ書きの祖母の言葉が効果的。不幸を前に愚痴さえ言わない祖母。黙ってついていく孫の太一。沈黙だからこそ慟哭が聞こえ、沈黙だからこそ孫に伝わっていくものがある。昭和の祖母の心の輪郭さえ浮かび上がってくる。
水車に「カタコト」では民話になる。この詩を生かす独自の表現が欲しい。最後の「全てがかき消される」の「全て」とは何を指すのだろう。この一行は詩を曖昧にしてしまったのではないだろうか。ラストは難しい。
《おまえの居ないわたしの領域で…/閤田真太郎》
知的なのにどことなく野生的な魅力もあった作者の作品が、最近は、深い情や思いや憂いを基調にした繊細な作品が多い。相次ぐ不幸が心に与えた深さを思う。
この詩を読むと、優しい気持ちになる。お互いに理由は言わなかったが、亡き人は草取りで母子草は抜かなかった。思いは同じだったに違いない。「期待されることもなく芽生えて/みずからを/主張することもなく存在している」母子草。いま「われは雑草にあらず」という母子草の声を聞いている。それは亡き人の声ともなって聞こえてくる。名もない草花への愛しさ。ましてや名もある人を抜かれてしまった哀しみ。作者の特徴であった批評眼は消え深い憂いだけがある。
二箇所のかっこ(私は雑草ではないという母子草の声)をカットしたら、読者はどんな母子草の声を聞くだろうか。「わたしの領域」の領域という言葉に違和感が残るが、埋没しないために、そこだけでも批評眼の杭を残しておこうとしたのかも知れない。
《遠い日/柳楽恒子》
柳楽さんの詩に、いつも若さを感じるのは、素材を削り、切り捨て行く時の思い切りのよさがあるからだろう。もっと書いてもいいのにと思うところでも惜しげもなく切り捨て、端的な言葉だけを残す。そこから行間に気迫が生まれ、歯切れのいいテンポやリズムも生まれてくる。更に、高齢者の単なる回想ではなく、人生や人間という不可思議な存在に疑問や感動を持ち、本質を知ろうとする知的な洞察や欲求があるからだと思う。この作品も親と子の普遍的なテーマ。若いころ父には「悩みをひたすらに隠す」。父の愛の深さを知らず、父がすることは「煩わしかった」。しかし父は波止場まで見送りに来たり、プラットホームで差し入れに来たりした。…実感と哀感を持って共感できる。しかしぼくには次が分かりにくい。親は真実を曲げても子への愛を貫くものだーと理解したが、間違いかも知れない。特に「絶対に(負)に避ける」が分からない。勝手に「(負)を避ける」と受け取って理解した。いいかどうかは別だが、最終連がなければ、とても暗示性に富んだ詩になったのではないだろうか。
最後の連や行は、詩の視点や意味やイメージを飛翔させたり平凡にしたり逆転させたり無意味にしたり異化したり、特別な重みや効果を生むことが多い。どの効果を狙うかは作者次第だが、いつも神経を使う。
《年賀状/高田頼昌》
言葉は易しいが何故か難しい詩だった。そう思うのは、ぼくだけかも知れない。なぜ難しかったか、その理由を書いてみる。最初の独立した一行、「昨年書いた わたしの年賀状」というのは、次の連・十三行のことか。それとも、十三行は昨年の賀状について様々な言い訳をし、パソコン任せの個性のない賀状を出して許し下さい、と謝っているのか。「今年のことし」とは何か。「あなたさま」とは単数か。いや、次の九人だ。九人の賀状の文がそれぞれ書いてあるのだ。とすれば、前ページと対照と考え、前ページの十三行は昨年賀状に書いた中身なのだ。でも、そんなにだらだら賀状に書くだろうか。「屋根から落ちない雪が降っている」とは、公害を暗示しているのか。降っても寒いから落ちないという意味なのか。「屋根から落ちない雪が降っている」ので「それだけにあなたさまからのことばが温かいくて」とはどういうことか。「あなたさまからのことばが温かくて」「ことしから わたしに出来ることを考えています」とはどいうことか。温かいあなたさまの言葉ーとは前の九人の賀状なのか。なぜそれが温かい言葉なのか。全体で作者は何を言いたかったのか。多分、最後の一行だと思うが、それ以前とはどんな関係があるのか。いや、無関係なつまらないことを並列して、そこから生まれる面白さを狙ったのか。しかし果たして面白さがあるか…疑問は終わらない。理解力の無さに自信を失う。個々の理解不能や疑問はいつものように棚上げして全体を読んでみるが、難しい。それはぼくには「言語明瞭意図不明」だからだろう。意図や狙いがつかめなければ言葉は宙ぶらりんのままだ。詩の難しさはこんなところにもある。
《テレビ ショック/椋木哲男》
主題も明確で物体や情況が無駄なく具体的、簡潔に描写され歯切れがいい。描写が的確なので牛や鶏の姿が絵になって浮かぶ。納得しながら読み進み、最後で少し痛みを感じ苦笑いをしながら、そうだよな、と納得し、少し反省し不条理を感じ哲学的になり、日常に戻り、仕方がないよな、と自分を納得させる。説明せず事実だけを提示する書き方がサタイア(風刺)、アイロニィ(皮肉)として効果的だったと思う。誰もが感じる典型的なことなので類型的な書き方をすると平凡な詩になりかねない。そうならないのは前述した描写法が生きているからだろう。牛達は「湯気もうもうの鼻息を一面に振りまきながら/疑わない大きな目を向け/」、鶏達は「チョコット頭をもたげ/不審げに 思慮浅く/目をキョロつかせ」など描写の的確さやユーモアがストンと心に落ちる。最後の連の「健康な?私は」の「?」も効果的。肉体の健康だけでなく、精神の健康、思想の健康にまで思いが及び、風刺を複雑に深める。
《柿本朝臣人麻呂伝攷/小林俊二》
古代日本語の音は、漢字が中国から入ってきた時、どの様に吸収され同化され消され変化していったのか以前から興味があったので、新鮮な気持ちで読んだ。
「人麻呂の和歌表記は、基本的に見て、和歌を漢字で書記する上での一代発明であったのである。現在残されている万葉集に、人麻呂略体歌が二〇八首ばかりあると考えられるが、まさに、日本に於ける和歌(詩)の記定の原書をなしていると見てよかろう。そこに人麻呂の血の滲むような苦心があったのであろう」。
引用された和歌と漢文を比べながら、改めて大和ことばと漢文の根本的な違いを思い、中国語に精通していなかったらできないことだっただろうと思った。
詩の同人誌に、このような言語や文化に対する洞察はとても貴重だと改めて思う。
「石見詩人」は故木村フジオさんの創刊です。当時の同人では岡崎澄衛さんが健在ですが、高齢で長い間作品は書いておられません。
ぼくは昭和40年に県立益田工業高校へ新卒で赴任したとき、そこに同人だった田原敏郎(原 敏)先生、矢富厳夫先生がおられ、誘われて同人になりました。
ぼくは詩はたまに好き勝手に書いてはいましたが、小説を書いていましたので池野誠さんや野津さんたちと創刊した「日本海文学」の同人でした。
忙しくて小説は書かなくなり、詩だけは欠稿を挟みながら現在までどうにかつづけてきました。
「ひばりよ、大地で休め」という詩集をずいぶん前に出して以来、一冊も出していないので、今年あたりは出したいと考えています。あちこちの詩人から詩集を贈呈されるばっかりで、ぼくの詩集を対等に贈呈できないのは心苦しく、また本などの紹介蘭に、何十年たっても、「ひばりよ、」と大昔の名前で出ているのもなんとも恥ずかしい限り。退職の年に出版するつもりで準備していたのですが、とんでもないことに巻き込まれ詩集どころの話ではなくなり、今日に至っています。
(関係のない、面白くもない詩の批評をここまで読む人はいないと思い、余分なことをちょっと書いてみました)