「詩集や本の紹介・感想」カテゴリーアーカイブ

詩人 高塚かず子のふるさと 島根川本

ー詩人 高塚かず子ー
水の詩人のふるさと、島根川本

洲 浜 昌 三

第44回H氏賞を受賞したとき、高塚かず子は「島根県生まれ」と報道された。しかしその名前は思い当たらなかった。
『島根の詩人たち』(田村のり子著、島根県詩人連合発行)を読むと次のように書いてあった。「川本生まれだが、幼いとき母方の地九州へ移った。祖父が川本で俳句誌『霧の海」を出していたような、文学の血があるようだ。」 続きを読む 詩人 高塚かず子のふるさと 島根川本

書評 水野ひかる詩集『未明の寒い町で』

2010年11月、香川県善通寺の水野ひかるさんが詩集『未明の寒い町で』(土曜美術出版)を出された。贈呈を受け率直な感想を書いて礼状をお送りした。後日「詩誌そばえ」へ書評を頼まれました。「そばえ」(「戯」)は徳島県板野郡板野町の扶川 茂さんが発行されている詩誌。2012年1月にⅢ4号が発行され書評が載りました。長い文章ですが紹介します。 続きを読む 書評 水野ひかる詩集『未明の寒い町で』

H23 島根県民文化祭文芸作品入賞者表彰式

2010年12月11日、平成23年度の島根県民文化祭文芸作品入賞者の表彰式が松江で行われました。表彰式のあとには例年のように各部門で入賞者との懇談会が開かれました。

 各部門の応募作品数は次の通りです。短歌・一般の部413首 ジュニアの部96首  俳句・一般部611句 ジュニアの部89句  川柳・一般部521句 ジュニアの部582句  詩・一般部55編 ジュニアの部77編 散文・17編 ジュニアの部の応募作品はなし。

今年の大きな傾向はジュニア-の部(中学生まで)で多くの応募者があったことです。これは小・中学校の先生などで熱心な方が生徒に書かせた作品を応募されたからだと考えられます。詩では77編も作品が集まり、びっくりしました。これも熱心な先生の指導の賜です。文芸でも高齢化が進み、若い人たちを育てて行く必要性を文芸フェスタの運営委員会でも何度も話し会いました。その結果ジュニア-の部を設けたわけです。ますます応募者が増えることを期待しています。

入賞者の作品は毎年本になっています。「島根文芸」44号です。図書館などにはあると思います。島根県の国際文化課に問い合わせると購入もできます。

詩の分科会では入賞者に作品を朗読していただき参加者で感想等を述べあい貴重な2時間を過ごしました。島根県詩人連合で出席したのは、撰者の田村のり子さん、閤田真太郎さん、事務局長の川辺真さん、理事長の洲浜昌三の3人でした。

今年の入賞者の大きな特徴は高校生たちが上位に入ったということです。今までもそういうことはありましたが、銀賞や銅賞にたまーに1名か2名に過ぎませんでした。金賞の『僕』を書いた竹下奈緒子さんは出雲商業高校生、銀賞『ハロウイン』の中島千尋さんは松江高専の学生、同じく銀賞『純』の青木茂美さんは出雲商業高校、銅賞『おばあさん』の勝部椋子さんも出雲商業高校。

高齢者の作品はどうしても過去の回想になったり、記録だったり、若々しい感性は欠けています。しかし上記の若い人たちの作品には脆いところはあっても新鮮な感性が息づいています。確かに魅力的です。

小林さんの『としをとると』、持田俶子さんの『まあちゃんの自転車』は若い人にはかけない分厚い時間の堆積から滲み出てくるような哀感がありました。本来なら優劣をつけることはできません。

みなさん、おつかれさまでした。来年もまた参加してください。

 

 

島根の詩人 原 敏(田原敏郎)

詩人 原 敏  石見方言で3詩集刊行         【続人物しまね文学館】                                                                                                                                洲浜 昌三
日本が壊滅的な打撃を受け混沌としていた敗戦直後、益田で詩の同人誌『鶯笛』、松江では『自由詩』が創刊された。『戦後詩誌の系譜』(志賀英夫)によれば1945年に創刊、復刊された詩誌は全国で22誌しかない。島根の戦後詩の始動は全国的にも先駆けであった。

『鶯笛』の中心は原 敏(田原敏郎)だった。原は27年(昭和2)益田に生まれ、45年3月、松江工業高校機械科を卒業し、大和紡績で製図書きを担当していた。仲間と詩を語り作り、得意な技を生かしてガリ版を切り、白想社のキムラ フジオへ印刷を頼んだ。同人は若者5人、後に佐藤繁次が加わった。彼は妻の実家へ疎開していたが市の職員で文化活動の立役者であり、原が尊敬する才能のある詩人でもあった。

同人の相次ぐ離郷で47年秋『鶯笛』は3年で終わった。原も進学を決意して上京したが、カリキュラムの違いで目指した大学の手続ができず、荒涼とした東京生活を離れて帰郷、代用教員なども勤めたが、再び志を貫くために京都へ行き高校時代の友人がいた花園大学へ入学、2年時に編入試験を受け立命館の日本文学科へ移った。生活費を得るために映画の看板や紙芝居の絵を描いたり様々な仕事をした。大学4年の年に第一詩集『都会のかたつむり』を出した。佐藤繁次がそれを聞きつけ祝いに来た。「二人で痛飲した。胸にこみ上げてくる涙をおさえて飲んだ。」再会した佐藤は詩や演劇で活躍していたがその後命を絶ち、これが永遠の別れとなった。

大学を卒業すると大阪府立中学校の教員になった。北園克衛の『VOU』や『静眉』に詩を書き、新大阪新聞詩壇へ投稿し、その仲間と「日本児童詩の会」を結成して児童詩誌『詩の手帳』を刊行した。教科書編集委員に任命され詩の教材選考にも関わった。しかし生活も夢も軌道に乗りはじめた矢先、父が他界。涙をのんで62年(昭和37)益田へ帰った。『石見詩人』の主宰者・キムラは書いている。「10数年後、原敏は益田工高の教諭となって突如ぼくらの前へ出現した。ベレー帽に口ひげをたくわえ、詩の会合では軽快なジョークを飛ばし呵々大笑して席上を独占的に賑わした。」繊細だが快活、豪快だった。  74年(昭和49)には子供たちの情操を育てることを目指して小学校の先生を中心に「蟻の会」を作り、児童詩『蟻』を創刊した。毎号小学生の詩を80編以上載せて寸評を書いた。優れた作品を詩集にしたり、児童詩の指導指針の冊子を何度も作り、手書きの会報を毎月発行、217号まで出した。『蟻』は2011年に81号を出して27年の活動に終止符を打ったが、、子供たちの未来に心を寄せ、大阪時代の経験を生かした献身的な活動であった。

 

72年に島根県詩人連合が結成されると初代理事長になった。詩集は『しめった花火』『日々』、さらに石見方言で書いた詩集、『ひゃこる』『続ひゃこる』『裸虫の歌』がある。  「あんた なにょう そがあに 大声で ひゃこりんさるかな そこの氏やぁ とおの昔 おってじゃなあに 山も田地もな そのままいな 今頃らあ まちばで ええ生活しとりんさるげな わしらもなあ おりんさらんことを つい忘れてなあ 時々 ひゃこることがあるでや」(詩「ひゃこる」の冒頭)

「耕地が少なく荒々しい地形と荒波を受ける磯部で生活を確立してきた石見人の言葉には、赤裸々な人間本質の心の叫びがある」と原はいう。

 詩や著作から、形式主義や因循を嫌い自己の信念を貫き真実の声を聞こうとする石見人・原 敏の一徹な姿が浮かぶ。そこには、軍靴で青春や自由や尊厳が踏みにじられた時代を生きた世代の強靱さもあるのかも知れない                                       (島根県詩人連合理事長 「石見詩人」同人)

 上記の文章は2011年12月2日の山陰中央新報の「人物しまね文学館」に掲載されたものに写真を追加しています。ぼくが昭和40年3月に早稲田を卒業して島根へ帰り最初に赴任したのが県立益田工業高校でした。昭和38年に新設された立派な学校でした。そこに国語の田原敏郎先生や矢富厳夫先生がおられて石見詩人の同人でした。ぼくは詩ではなく「日本海文学」へ小説を書いていましたが、誘われて同僚の数学教師・岩石忠臣さんと加入しました。

 田原先生は実に豪快で竹を割ったような人でした。小学生の2人の息子へ英語を教えてくれ、と頼まれ教えたあと2人で飲みながら文学談義を遅くまでやったものです。飲むために教えたようなものです。先生は早稲田の文学部を受験に行かれたそうですがカリキュラムの違いから手続きができなかったそうです。益田工業高校では詩作同好会を作って同人誌を発行され、卒業時にはまとめて詩集『卒業』を作られました。何しろ機械科卒業で製図など

お手のものですから手書きの字など実にきれいなものでそれを輪転機で印刷して会報などは作っておられました。考えの違いから「石見詩人」はやめて、一時「山陰詩人」に詩を書いておられたこともあります。正義感にあふれ一徹なところがありました。ぼくも「蟻」の会の会員でしたが、毎月の会報発行と郵送、100編近い児童の作品に一つ一つ批評を書かれたことなど誰にもできることではないと思っていました。終刊後に会員がお礼の志を集めて感謝しました。

 この時期には石見詩人の高田賴昌さんも朝日新聞地方版で児童詩の選をして毎週掲載していましたし、浜田では石見詩人の熊谷泰二先生、閤田真太郎、山城健さんたちを中心に児童詩を募集し「石見のうた」を毎年発行していました。全国的にも珍しいことです。田原先生は大阪での経験や児童詩にたいする信念からもその意地を通されたのでしょう。『蟻』は全国的に活動していた詩人たちにも送られ寄稿文も寄せられています。

 『詩歴』創刊が昭和20年の秋か、21年の秋かは重要な意味があります。田村のり子さんの「出雲石見地方詩史50年」の年表には20年とでています。しかし後にでた「島根の詩人たち」では「敗戦の翌年ガリ版の鶯笛を創刊」と書いてあります。田原先生自身も『鶯笛』は手元にないとのこと。どこの図書館にもありませんし、矢富先生もないとのこと。実に困りました。いろいろ状況証拠を集めて昭和20年秋としました。本人の記憶も明確ではありませんでした。『詩歴』や『鶯笛』を持っている人がいたら是非見せてください。田原先生が戦後いち早く詩活動をはじめたのは松江工業高校時代の軍政下でもそれを越える自由な思想を持っていたからでしょう。そは重要なことですが、少ないスペースでは書きませんでした。

 文中の佐藤繁次について紹介しておきます。「戦後文化樹立の中枢となった「益田町文化懇話会」を神原正三、篠原信、大谷垣、土田伊平などと結成し、その運営活動の軸として活躍した他に『緑野』同人、『石見洋画界』、「農民組合文化情報部」など益田の文化のために枚挙のいとまがないほど貢献した人であった。市役所職員のサラリーを文化に投資して静子夫人とケンカ別れをし昭和24年故郷の大阪へ帰り府庁に勤めていたが、昭和29年4月20日自ら命を絶った」(石見詩人38号)

 『鶯笛』の同人はつぎのとおりです。「原 敏、岡崎のぼる、浅井昭二、大畑富美子、福原和子など若者グループに途中から佐藤繁次も加わって、早春になく鶯の笛声のような、初々しい誌文学の創造をめざした」

 最後に山陰中央新報の紙面を紹介させていただきます。来年には『続・人物しまね文学館』(想像)として出版される可能性が大でうからPRも兼ねて。

 山陰中央新報での週1回(金曜日)の連載は1月末前後まで続く予定です。すでに詩人の高塚かず子さんの原稿は新聞社へ送っています。ぼくの担当はあと2人です。中村満子さんの原稿は仕上がりました。詩集を10冊読み、敗戦前後の資料を集め、年表を作っていくうちにやっと「書くべき核芯」に至りました。ぼくの内的な文学精神を揺さぶる動機が生まれないと書けません。これが難しいですね。あと閤田真太郎さんが1人残っています。資料は集めていますので年表をつくりじっくり書いていきます。年末も近づいたのにいつものように宿題山積未提出人生です。

 

川本町で発行の俳句誌『霧の海』

島根県邑智郡川本町で俳句雑誌『霧の海』が発行されていました。奥付を見ると編集発行人は品川誠太郎、発行所は観光新報社、主幹は品川河秋となっています。創刊は昭和9年12月15日です。どこを捜しても見つからなかったのですが、島根県立図書館に13冊だけ保存してあります。創刊号(27ページ)と翌年1月(2巻1号)から2巻12号まで(8月号は欠番)あります。昭和10年12月以降はどうなったか不明です。

昭和25年12月3日にに発行した復刊第4巻第2号、26年1月3日発行の第5巻1号が県立図書館にはあります。次の写真は昭和26年3月3日発行の第5巻第3号です。(巻はどういう使いかたなんでしょう?だれか教えてください)インターネットで捜したら福岡市の古本やにあるのがわかり注文しました。

 編集主幹の品川河秋さんについては詳しいことはわかりません。『霧の海』を読んでいくと、33歳の時創刊し、30年間大阪へ出ていた、という文章が出てきます。具体的なことは書いてありませんが、大阪へ出られて実業家として活躍されたのではないかと思います。復刊号を出された昭和25年には74歳かと思われます。他界されたのは78歳です。昭和29年7月の江川の大洪水です。葬儀のとき、俳句仲間の法隆寺住職・岩 義香氏が次の一句を献詠されたそうです。「江川に吹かれ落ちけり合歓の花」。そのあたりにはネムの花がたくさん咲くそうです。

次の写真は川本の木路原方面を江川の対岸から写したものです。詩人・高塚かず子さんが生誕された集落です。近くに竜安寺があり、竜安寺川が流れています。

 川本は水量豊かな江川があるために昼頃ままで一面に霧が立ちこめることがよくあります。まさに霧の海です。多分そういうところから『霧の海』と名前を付けられたのでしょう。

品川河秋さんのことを知っている人がまだおられるでしょうか。『霧の海』に参加された同人は50名以上あったと思われます。とても発展的な展望を持って発行しておられたのが誌面からよく分かります。俳句の選をして載せるだけではなく、各地区に俳句会を結成しています。自ら観光名所の歴史を解説して観光資源開発も目指しておられたようです。五島にいる5歳の孫娘を詠んだ俳句も一句見つけましたが、体がしばらく震えました。

河秋さんや『霧の海』のことを知っておられる人がありましたら、ぜひ話しを聞きたいものです。

くりす さほ 詩集『いつか また』

2011年6月、浜田市のくりすさほさんが詩集を出されました。『いつか また』は100ページの詩集で31編の詩が載っています。どの作品も平易で難解な言葉はありませんが、若々しい感性にあふれ、省略された空間が大きいので単純に分かりやすい詩とは言えません。「感じる」ことがたくさんある魅力的な詩がたくさんあります。詩に感心がない人で楽しめる詩集です。

 タイトルにもなっている冒頭の詩「いつか また」を紹介します。

いつか また

一読すると女学生が書いたかとも思われるような詩です。しかしよく読むと感性だけではない深いものが感じられます。「風は/誘っていない」とか「いつか また…」には引き戻されます。風が誘っていないのに花びらは落ちるのです。普通の「いつか また」には夢や希望があります。特に若い人なら未来に開かれた言葉です。くりすさんは高齢な方です。「いつか また」の「いつか」はどの時点をイメージしてつくられたのでしょう。そう思えば、不安や恐怖も滲み出てきます。長い人生と経験の末にサクラを見ているのです。女学生の感性で書かれていることも不思議な魅力ですが、どこかにさらっと人生の深い谷を見た目が生きて来ます。それが立ち止まらせ考えさせます。

くりすさんは石見詩人の同人で島根県詩人連合会員です。この詩集は第一詩集。何かの時の贈り物として送ったらきっと喜ばれると思います。希望があれば取り寄せてお送りします。

ではもう一編紹介します。

詩集は石見文芸懇話会から発行されています。浜田市黒川町251-12 山城様方です。印刷は弘文印刷(0855-22-3171 浜田市片庭町254-6)。

「石見詩人」は11月ごろ127号を発行しますが、この詩集の感想特集を載せます。

島根の現代詩の状況

日本詩人クラブが発行している雑誌『詩学』の編集部から依頼されて平成16年に島根県の現代詩の状況を書きました。整理のため、そして何かの役に立つこともあるかもしれないと考え紹介します。   

 

地域別現代詩の状況
           島 根 県
洲 浜 昌 三
島根県は東西に長い。山口県境にある西の津和野から鳥取県境にある安来市まで約200キロ。汽車で4時間はかかる。
島根県民歌の中に、「九十万の県民の…」とあるが、これは昭和30年代のことで、いまは75万余、65歳以上の老年人口比率は26%で全国一。代表的な過疎県である。貧しい暮らしの中で子供を立派に教育して都会へ送り出し、自ら疲弊していく人材供給県である。
中国山脈を背にして、日本海沿いに伸びるこの細長い県は地理的文化的に、出雲、石見、隠岐と三つに分けられる。

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吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む

2011,3,9倉敷市の詩人吉田博子さんが『聖火を翳して』(せいかをかざして)をコールサック社から出版されました。第11詩集になります。依頼があって『COALSACK』70号へ詩集評を書きました。紹介します。

吉田博子詩画集『聖火を翳して』を読む
自己凝視から弱者への優しい眼差し
洲 浜 昌 三
詩集を手にした時、しばらく表紙に見入った。質素だがどこか華さと豊かさがある。長方形の枠の中の絵は幼児が描いたように素朴で素人っぽいが色彩豊かで鮮やかだ。計算や技巧のない大らかさが、現代が失った豊かさを語っている。
詩を読み終わって改めて表紙を眺めていると、新たな角度から作品の底流が見えてくるような気がした。
この詩集は三つの章から成る。Ⅰ章、Ⅱ章は詩、第Ⅲ章は絵画で、40数ページにわたり作者の絵と9枚の「たっくん」(作者の孫)の絵が載っている。


作者は日常生活で触れ合う自然や人、風物などを素材にして読者を詩の世界へ誘っていく。虚構や技法や高度な抽象で表現しようとはしない。思いや洞察を素直に記述していく。言葉は抵抗なく読者の心に入っていく。しかし作者の感慨の域を越えない場合は何も触発しない場合もある。詩には、素材に言葉が埋没せず、それをジャンプ台にして飛翔していくものが必要である。
ここ10年くらいの間に吉田さんの詩集は『詩選集150篇』を含め5冊読ませてもらった。第8詩集の『立つ』から『咲かせたい』『いのち』そして今回の詩画集である。それらの詩集には共通した基盤がある。それは「自己への執拗な視線」、「背負わされた自責」、「痛点の敏感さ」であり、同時に「姿勢の低さ」、「弱者への優しい眼差しと思いやり」である。その強さや深さは普通の何倍もあるのではないかと想像する。そこから生まれてくる痛みや怒り葛藤などのマグマに自ら傷を負いながら、内蔵し、凝視し、詩という文学の世界へ昇華させてきた。
今回の詩集にも執拗な自己凝視や痛切な自責、非合理への怒りがある。


「嵐の海は愛のかたみを流す以外になかったわたしを/激しく包んで抱きしめてくれた」(「あの夜の港」)「業の深いわたしという女/片方の手を/空のむこうへ伸ばしてみても/つかめない希望/そんな欲深い心に/夜の灯台の灯は/静かに心のドアをトントンとたたくのだ/じっと自らを見つめてごらん、と」(灯台)「時が わたしの積みあげた愛が/溺愛でしかないことを知る」(「疲れた耳に届く声」)「わたしは死ぬまで/美しい心はもてない/そう思う/いつも心がけてはいても/たちはだかる業に身動きできぬ程/摑まれている」(「愛しい左半身」)
同時に今回の詩集では大自然や生命への慈しみの気持や感謝から生まれた詩も多い。落ち葉の視点や死の視点、死後の未来からの視点、更に普遍的な時間認識から生まれた詩が多いのも特徴である。
「娘や孫が愛しんだ命が/わたしの内の野原に/ろうそくの灯をともす/一つ二つ三つ/でも決してゆるがない愛する芯を/聖火のように翳して」(表題の詩)「愛することは/生きる時間を芯から共有すること/生まれる 逝くこと/それは永遠に紡ぎ続けること」(「自らを織る」)「まんまるの月がぽっかりと/空にうかんでいて/思わず手をあわせる/命を守っていただいている/なぜか知らぬまに心がうるむ」(「はてなの木」)
高機能自閉症だという「たっくん」の絵は、仏さまや魚などの色や形の自由さが魅力的。また4頭の虎の絵は、虎の内面がよく表情に出ていて楽しい。
「おばあちゃんは遠くへ行ってしまっても、いつまでもたっくんといっしょだよ」という思いを作者の吉田さんは具体的な形にして残したかったのだろう。

コールサック社は東京都板橋区板橋2-63-4 (03-5944-3258)この詩集は2千円です。吉田さんは詩画展「折り折りの想い 希い」を2011年10月8日~16日まで開かれます。10時~17時まで。場所はいかしの舎(岡山県都窪郡早島町早島1466)見に行ってください。感じるものがたくさんあると思います。

小寺雄造詩集『説法』

鳥取市の詩人・小寺雄造さんが第13詩集『説法』を出版されたのは平成22年でした。島根県詩人連合会報に「最近読んだ詩集から」という欄があり、事務局から依頼されて感想を書きました。その後小寺さんは平成23年1月に和光出版から中四国詩人文庫7として「小寺雄造詩集」を出版されました。小寺さんは同人誌『菱』の発行者です。『菱』は昭和43年(1968)に創刊され2010年10月には171号をだしている伝統のある詩誌です。

最近読んだ詩集から
小寺雄造詩集『説法』

洲 浜 昌 三
積み重ねた本を数えると、昨年の晩秋から新年までに読んだ詩集は三十冊くらいになる。
それぞれの詩集のタイトルを眺めると作者の心的風景や文学への姿勢や思想が雰囲気となって立ち上がってくる。半年たっても作者の精神風景がはっきり浮かんでくる詩集もあるし、中には何も浮かんでこない詩集もある。ぼくの記憶力の問題もあるが、その詩とぼくの趣向や思想、好みとの共振性の強弱の問題もあるだろう。
印象に残る詩集は多いが、その中で小寺さんの『説法』について感想を書いてみる。
小寺さんは1936年鳥取市の生まれ。今回の詩集は第十三詩集になる。随筆集も五冊ある。
多くの詩集の中から、『靴を脱ぐ』『挽木橋にて』とこの二月に出版された『説法』しか読んでいないが、どの詩集の作品も書く動機が深く明確で、思考や詩句が濃縮され個性的である。今回の詩集の作品二十一編も詩誌『菱』に掲載された作品が中心であるが、四、五年前に『菱』を読ませてもらっていた時の作品に出会うと、はっきり記憶が蘇ってきた。これは明らかに僕の記憶力ためではなく作品が持つ力だと断言できる。
冒頭の詩を紹介する。
ホタル
孵化して/成虫となったホタルは/死滅するまで/水しか/飲まない//カワニナの甲羅に/覆いかぶさって/食い殺し尽くした/ゴムのようにグロテスクな幼虫は/いま 宿業の痛みに耐えながら/ひたすら清浄な水を求めて/明滅している が/明滅しているの/はホタルではない/あれは/カワニナの精霊だ/宿るカワニナの精を/己れの虚体を通して/放っているのだ/放たねば/空に浮くことが/出来ないのだ/あらゆる食を絶ち/葉先のわずかな露をすすり/闇のなかに/腫らした贖罪の眼を/見開いている/己が性を御しかねて/露滴のような涙を/ひとしれず放りながら
典型的な隠喩法で書かれていて、表現に無駄がなく的確で、作者の深い哲学や思考が丸薬のように言葉に凝縮されている。奥行きはとても深いが難解ではなく、力量に応じて理解し納得できる。見えない思想や思いをカワニナやホタルなどの具体で象徴し、視覚的にも鮮やかに記憶に刻まれる。
人生を求めて小説や詩を読んだ僕らの世代には、文学の醍醐味を味わえるとてもいい作品だ。
同時に古典的で詩の教科書の枠に見事に収まっている印象も残る。それは、枠が溶解し自由奔放な世界へ放たれた現代詩に、ぼくらが完全に埋没しまったからだろう。そういう意味でもこの詩集は最近では出会わなかった懐かしい詩集だった。
『説法』という詩集のタイトルを見たときには思わず微笑んだ。背後で高踏な風刺が踊っているのが見える。それも僕には素敵な詩だ。

 

井上嘉明詩集『封じ込めの水』

鳥取の詩人・井上嘉明さんが第9詩集を出されたのは2009年11月でした。書評を頼まれて書きましたので紹介します。その前の詩集・『地軸に向かって』は中四国詩人賞を受賞しています。

   日常から思惟の世界へ 井上嘉明著 詩集『封じ込めの水』

好打者・イチローのように確実にヒットを打ち続ける詩人・井上嘉明の第九詩集である。中四国詩人賞を受賞した前回の詩集『地軸に向かって』以降五年間に書かれた作品の中から27編が収録されている。

現代詩は言語中心主義の難解な修辞法に走り自ら孤立してきた。理解することが不可能な詩が幅をきかす中で、この詩人はあえて日常の言葉を大切にする。本来の意味で言葉を使う。それぞれの詩はささやかな日常の事象を入り口にして平明な描写で始まる。詩は詩人だけのものではなく、万人に開かれた文学だ、という詩人のポリシーがここには見える。高い敷居がないので読者は抵抗なく詩の中へ誘い込まれる。表現は無駄がなくしなやかで洗練され彫りが深い。絵画や短歌の素養も深いのか、一編の詩は明確な輪郭を持ち端正で古典的な姿で立っている。

何より井上詩の最大の魅力は読者が日常から予期せぬ思惟の世界へ連れ出されることだろう。存在と非存在、生と死の隙間を開けたり構図をずらしたりして三段跳びのような仕掛けで遠い抽象の世界へ読者を誘引する。

 「封じ込めの水」
まわりを塩水に囲まれた水
そこだけ ぽっかりと明るく
動かない
南極には冬になっても
摂氏二五度をくだらぬ水が
あるという
厚い氷が
夏の熱気を閉じ込めているのだ

わたしの内側にも
確かに塩水に包囲された水がある
それは母からもらったような気がするが
定かではない(五行略)

まわりの乾きが
攻めてくる日のあることを
わたしは知っている
砂漠を行く商人のように
最後の砦の水の封を
切る日のことを

誰かに もらうのを
あてにするのではなく
自分自身のための
末期の水を
さかずき一杯ほど
底に残して

ここでは紹介できないが、ユーモアのある詩や大きな視点から本質をつかもうとする詩などもあり、帰納的に思考しつつ同時に詩の楽しさと醍醐味を味わえる詩集である。

(日本詩人クラブ会員 洲浜昌三)