高校演劇の創作について

昨年(平成23年)は二つの高校演劇の県大会を観劇しました。35回島根県高校演劇と51回広島県高等学校総合演劇大会です。講師として参加しましたのでパンフレットに原稿を頼まれ、字数は限られていますので箇条書きに創作劇について書いてみました。参考になればと思い紹介します。

創作劇を書いて学んだことなど

全国(中国、島根)高校演劇協議会顧問
劇研「空」代表、日本劇作家協会会員
洲浜昌三

部員や顧問が書く創作脚本の上演が主流になっている。昨年の広島県大会では13本中8本が顧問や部員の創作か潤色である。参考までに創作についてぼくの考えを書いてみる。

創作脚本の利点として次のようなことが考えられる:
1.部員の人数や一人一人の個性や特徴を活かして役をつくることができる。
1.地域性を活かしたり、その学校の問題やテーマを取り上げることができる。
1.書き上げたら部員で批評したり、いろいろな人に読んでもらって感想を聞き修正できる。
1.練習に入っても議論しながら台本を手直しできる。
1.身近なテーマだから理解や共感も深く統一意識を持って劇を仕上げていくことができる。

弱点も考えられる:
1.部員の人数や現状に合わせて書くので世界が狭くなる。
1.自己満足から抜け出せない場合がある。
1.客観的評価や批評を経ていないので上演したときの成果は未知数。
1.学校の現場は生徒も先生も忙しく、ぎりぎりになってでっちあげることが多い。
1.脚本執筆者に依存して部員は脚本を広く読まなくなる。

ぼくは新任の時は文芸部、次ぎに柔道部、転任したら演劇部顧問がついていた。劇は分からなかったので部員と一緒に汗を流すことにした。3年くらい既成の脚本を上演したが、文化祭では、観客は私語か安眠の時間。生徒の意識から遠い既成の脚本を上演しても意味はないことを実感した。次の年、地元の伝説を素材にして劇を書いた。好評でその年には5回上演した。以降退職するまで毎年書く羽目になった。
(島根県大会では松江工業、三刀屋、松江商業、松江農林、大社、出雲、安来高校が上演し、三刀屋の「ヤマタノオロチ外伝」(亀尾佳宏作)と大社の「生徒総会」(畑澤聖悟作)が代表に選ばれ、中国大会へ参加、中国大会では三刀屋が最優秀賞、安来が2位に相当する優秀賞を受賞しました。三刀屋は8月10~12日に富山県民会館で行われる全国大会に出ます。安来は春の全国高校演劇祭に出ました。)

創作劇を書きながらつぎのようなことを学んでいった。
①1時間の劇では言いたいことは一つ。
②劇がはじまって10分以内にテーマ(その劇で最も観客へ伝えたいこと)を立ち上げる。③自分のために書くのではく、観客のために書く
④観客は贅沢。5分も同じ状態が続けば退屈する。
⑤観客の層を考えて書くが、目の肥えた演劇人もいることも忘れない。
⑥執筆は剣道の試合の如し。相手(観客)の呼吸を計りながら打ち込む。
⑦芸術に説明は大敵。説明するようなセリフは使わない。
⑧小説のように書かない。舞台では言葉より行動や表現がはるかに効果を発揮する。
⑨書くときテーマを横へ拡げ過ぎない。深く井戸を掘ればいろいろな地層や水脈に出会う。
⑩観客の期待を裏切り揺さぶりながら展開していく。観客に先が見える劇はつまらない。⑪劇は激。山場では二つの潮流が激突し、予期せぬものが生まれたら最高。
⑫暗転が多いほど書くのは楽。上演したらプチプチ切れて観客の集中力もその度に切れる。
⑬ラストは難しいけど、急に道徳劇や予定調和劇にならないように。(以下略)

実際に皆さんの劇を観る時には、こんなことは忘れて、大いに楽しませていただきます。

「高校演劇の創作について」への5件のフィードバック

  1. 大阪で四十年ほど芝居をやっております。うち三十年は現職の高校教師として、高校演劇に関わってきました。
    大阪は全国で一番創作劇が多く、コンクールの本選では十三校中全部、あるいは十二校が創作劇です。
    「創作劇が多いのは、大阪の誇りである」と公言される先生方もいらっしゃいます。わたしは、この現状を心配しております。創作劇が主流になってきてから大阪の高校演劇は減衰の傾向にあります。大阪には二百七十あまりの高校がありますが、連盟に加盟しているのは百校ちょっとで、コンクールに参加する学校は八十あまりしかありません。貴兄がご指摘のように、大半の創作劇は、短期間に、それも本番の直前の仕上がりです。一応劇作を生業としておりますので、本の善し悪しぐらいは分かるつもりでおりますが、創作劇の、ほぼ全てが戯曲の体をなしていません。戯曲とは、登場人物の間に葛藤があり、人間が変化し、結果的に劇的なカタルシスを与えるものだと思っています。それが書けていない、もしくは非常に浅いものでしかありません。
    そのために、高校生を含め一般の人たちは急速に高校演劇から興味を失いつつあります。本選でも観客席は(六百席)七部の入りを超えません。戯曲というのは、吹奏楽の楽曲と同じものです。吹奏楽で、創作曲が演奏されることは、まずありえません。創作の稚拙さが一般の人たちでもすぐに分かってしまうからです。逆に、既成の名曲に磨きをかけることで、一般の人たちからの支持もも高く、いろんなイベントに自衛隊や、警察のブラスバンドと同列の扱いと関心を得ています。演劇はひどく内向きに閉じたものになってしまいました。
    今、高校生の身体表現の関心は、軽音とダンス部にとってかわられようとしています。ネットで検索すれば、その検索数にはっきり現れています。
    創作とは聞こえはいいのですが、ようはその場しのぎの使い捨てです。「創作劇の多さが誇り」なら、なぜ、手を加え再演されないのでしょうか。コンクールで最優秀を取った、それも創作脚本賞をとった学校の作品でさえ自校を含め再演されることは、極めて希であります。また、高校演劇の創作で名を成されている作家顧問の先生方をネットで検索しても、ほとんで出てきません。
    榊原政常先生や内木文英先生などの先人のお名前と作品は、今でも出てきます。今、高校演劇は、自己満足のラビリンスの中、ゆっくりと自壊しはじめていると認識しております。
    中学演劇が、この十数年、創作に傾斜しすぎ、ほぼ壊滅、もしくは急速な減衰の状況であります。大阪の中学は五百三十校あまりですが、コンクールに参加したのは三十四校に過ぎません。十数年前には百校あまりの参加がありました。高校に入学した生徒の一覧から演劇部出身者を捜して一本釣りなどを、昔はやっていましたが、今は、それをやっても徒労でしかないでしょう。
    いささかペシミスティックなことばかり書きましたが、中学演劇の姿は、明日の高校演劇の姿に思えてなりません。
    演劇の三要素は「観客、役者、戯曲」であります。創作を否定はしませんが、吹奏楽や軽音に見習い、既成のものにも目を向けなければならないと思います。
    長くなりますが、高校演劇ほど、自分のジャンルである演劇に興味の薄いクラブもありません。生徒だけではなく、顧問も近頃は演劇はおろか、本さえ読んでいません「榊原政常て、誰ですか?」という顧問の先生が、こうおっしゃいます「既成の本で、高校生に適した本ありませんよってに」
    もう、終わりが始まりかけているように思います。

    1.  適切な問題提起です。とても参考になりました。
       確かにそうです。今の時代は、確かに、多くの方が想像力と創造力を失っているかのごとく演劇が衰退してるようにも見えます。
       高校生には、いろんな可能性があります。
       仕事や権利・義務で縛られている大人ではできない事が、本当に沢山あると確信してます。
       例えば、高校演劇で主流なのは、(昔でいう)本歌取りですよね。例えばテレビアニメやドラマを小ネタにしたり、他のうたを引用したりもします。近年は著作権問題が深刻化しましたが、ですが、その手法を全否定はしてません。大人だったらお金が絡んでできない事が、高校生たちにはそれができる可能性があるんです。
       高校生にこそやってみてほしい演劇脚本というのも、僕としてもいろいろあります。ハムレットとか、忠臣蔵とか、また様々な古今東西の名戯曲の数々。
       ですが彼らやその顧問の先生はその時間がうまく取れなくて、やるべき事に追われてしまっているんですよね。無茶は体に来るものです。ホントそう思います。先述した利権問題や金銭問題、それに今の時代では江戸の歌舞伎時代とは違って、あまりにタブーが多すぎます。そのせいで失われたものも確かにあるんです。
       そんな状況を、僕は無視したくはありません。
       たとえ最初は認められなくたって、本当の意味で正しい心をもってさえいれば、誠意を持ってさえおれば、自分の人生を魅力的にするための仕掛け・シナリオは認められていく事を、僕は信じてます。
       そして、僕も、実際に戯曲を書いて、様々なインターネットサイトに載せるようにしてはいます。数はまだ少ないですし、それにいい作品かどうかは分かりません。最近の(いわゆる)脚本リテラシーはあまりに高すぎるモノですから、スッゴク自信がありません。ですが、どんなにつらい思いをしても、自分と同じような悲劇を生まないように、様々な物語を作ろうと思います。そして、どんな迷路に行っても必ずゴールがあるように、一貫してほのめかしたいと、思ってます。
       僕の第一目標は、創作戯曲を、少なくとも37作品書く事です。そしてその37作品の戯曲が、次の世代である彼らの人生をさりげなくサポートできるようにすることです。
       一流と呼ばれているものに学び、アマチュアに刺激され、そして自分の感じるがままに、突き詰めるところは突き詰めて、手を抜くとこは抜いて、地道に精進して、そして、・・・前へ進もうと思います。
       僕は、健常者ではありません。精神病患者です。だからいつも体のどこかが痛いんです。だから、自分はいつまでここにいるのかが分からないんです。ですが、ベストを尽くします。自分のやりたい事と相手が求めている事に素直になって、小さな社会貢献をしようと思います。
       無茶はしません。ですが、一人のアマチュア戯曲作家として、生き抜きます。

  2. 貴重なご意見をありがとうございました。まさか大橋さんからコメントがあるなど思ってもいませんでした。何十年前からお名前やご活躍の様子などはよく知っていました。演劇に関わっている者として、高校演劇の現状に危惧の念を抱いている者は多いと思います。愛する故に理想も高い。

    演劇にも時代の流れや地域性がありますので一般論で一つの現象を括ると、こぼれ落ちる方が多くなる可能性があります。例えば、現在、島根県の中学校では演劇部などありません。(昭和20,30、40年代は別です)創作劇が中学校演劇をだめにする以前の問題で、大阪の現実とは同一に論じられません。

    中学校では学芸会や文化祭で発表があります。音楽が中心です。「演劇」といえるものはほとんどありません。(ぼくの中学時代には「修善寺物語」をクラスで発表しましたが、当時は演劇部がなくてもクラスで本格的な演劇を発表していました)

    島根では高校の演劇部は一時はほとんどの学校にありました。しかし平成23年では約4分の1、8校です。原因は何でしょう。創作劇以前の問題です。

    原因は単純ではありませんが、一つは演劇という手のかかる表現活動に興味を持つ先生がいなくなったことです。脚本選び、練習場所、時間、指導、照明、音響、装置、運搬et cetera、面倒なことばかりです。転勤して顧問がつくと仕方なしにやりますが、部員が減り、一人にでもなると、「一人では何も出来ない」となり、廃部案が出ても反対もしません。情熱のある人が急速に少なくなっていった気がします。(一人でも部員がいれば、それをテコに、増やしてやる!と頑張ってきた顧問ばかりでしたけど…)

    さて、先生が指摘された問題は創作劇についてです。
    創作劇の長所や短所についての考えは大橋先生とそんなに変わらないと思います。

    高校演劇の場合、創作劇もその年の上演が終わったら、既成作品になるわけですが、時、場所、観客が違っても鑑賞に堪える脚本は数少ない、というのがぼくの実感です。そういう脚本は古典的な作品として残ると思います。しかし8割以上の創作劇はその時だけの面白さで支えられている気がします。普遍性がないのです。その時その場の高校生には受けるけど、場所と観客が変われば眠気を誘う舞台になりかねません。「内輪受け」で成り立つ創作劇が多いのが特徴です。そういう傾向がつづいて高校演劇が「自壊しはじめている」という先生の考えもよくわかります。

    観客が「同類だけ」ですから、そういう内輪集団は衰退していくのはどんな集団でも同じですね。外に開かれているいる集団でありたいものですが、言うは易く行うは難し、です。ぼくは大会の事務局を担当したときには、地元の一般の人たちにPRして演劇部員以外の観客を集める努力をしました。先生が言われるように、「観客、役者、戯曲」で成り立つ訳ですからね。

    観客に一般の人たちが多くなれば、内輪向けの劇など見てくれないようになり、普遍性のある名作が取り上げられるようになるでしょう。コンクール形式の大会以外の上演の時には、そのような作品が取り上げられている傾向も強いのではないかと思います。そういう点では、コンクール形式は弊害を生んでいることは確かですね。

    1.  このご投稿にやっと気づき、わたしの『高校演劇・新小規模演劇部のマネジメント2』に転載させていただきました。
       身体表現に関わる部活は、完全に軽音楽などに取って代わられました。
       企業が参画しているとは言え、軽音の大会である「スニーカーエイジ」の大阪での参加校は、演劇部のコンクール参加校を超えてしまいました。本選は舞洲アリーナで12月に行われますが、観客動員は16000で、高校演劇府大会の10倍ほどになります。ダンス部、吹奏楽が、それに次ぎます。
       わたしは、事に触れて指摘していますが、どうもアカラサマな物言いに反感を持たれます。昨年は、近畿大会の出場校の半分を観ました。6分ほどの入りの観客席は、よく反応していましたが、芝居として真っ当なものは一つもありませんでした。戯曲が深刻なほど書けていません。
      この指摘には多くの反発のコメントでいただきました。
       しかし、結果は、全国大会で近畿の代表校は、何一つ受賞できないという、明白な結果として表れました。
       大阪でOMS高校演劇創作劇賞が創設されました。一見良いことに思われますが、審査は、どうやら相対評価のようです。書けていない作品群から、受賞作を選んでも意味がありません。絶対評価でやっていただくように、言い続けていますが、どうも蟷螂の斧で、ますます反感をいただきそうです。しかし、一人ぐらい憎まれ役がいてもいいかな。そう開き直っております。
       一つの提案があります。手間はかかりますが、通年で書き手を育てることです。月に二三度、一年を通して書き手を育成することです。
       そして、手間暇のかかる本格的な芝居だけでなく、ボードビルというかコントというか、短編を演じること。軽音などとのコラボなども考えてもいいと思います。
       ある演劇部は「演劇部」の看板を降ろして「舞台芸術部」と変えました。きちんとフォローはできていませんが、少し可能性を感じます。

  3. 我が家の一角なのに、久しぶりに、ここを訪問しました。

    何故かこの「高校演劇の創作について」という蘭はコンスタントに読まれていています。日々の来訪者を示すグラフの高さがコンスタントなのです。創作に苦心する人たちがいるからでしょうか。

    大きなテーマなのに、わずか1ページに箇条書きにして短縮、圧縮して書きましたので、言いたいことの半分も書けませんでしたが、参考になるとすればありがたいことです。時間があればじっくり書いてみたいものです。

    さて、大橋むつお先生の次の文章にぼくも同感です。「『演劇部』の看板を降ろして『舞台芸術部』と変えたことに」「少し可能性を感じます」

    少子化とともに高校の学級減もつづいています。地元大田市の高校は、ぼくが赴任したときは8クラスで実に活気がありました。今は半減!4クラスです。

    生徒数が半減すれば、PTA会費も半減。ぼくがいた時には300万以上かけていた演劇鑑賞ですが、いまやプロの劇団を呼ぶのは贅沢で授業時間浪費のため削減の筆頭。もちろん30以上あった部も削減・・・当然、部員が少なく経費もかかる演劇部は廃部の筆頭・・・すべてマイナス回転です。

    多い時には11校の演劇部が地区大会に参加した石見地区では、現在2校のみ。ある演劇部顧問の先生が、松江地区から石見地区へ転任され、演劇部を立ち上げようとされましたが、部の新設は現在御法度だとか。そこで引き下がらないのが、彼のすばらしいところ。

    放送部の顧問になり、活動の中に演劇表現も追加。放送部の大会にはもちろん参加しますが、演劇の大会には、観劇として参加したり、そのうち、朗読や朗読劇として参加するでしょう。

    「舞台芸術部」という名称なら、その中に音楽関係、舞台美術、装置作成、朗読、アナウンス、万歳、落語、演劇、能、狂言、オペラ、ミュージカル、演出、照明、脚本、プロデユースなどいろいろな分野が対象になります。拡散して集中性は薄くなりますが、多彩な生徒が集まり、一つの発表を完成するときもうまく協力すれば、予想外の成果を上げることができます。運営の仕方には創意工夫が必要ですが、現実の厳しさを考慮すれば、一つの「可能性」を感じています。本来、演劇は総合芸術です。

    大田市演劇サークル 劇研「空」を立ち上げて18年目ですが、社会人の演劇活動も高校演劇と似たような状態です。新しく参加する人がほとんどいない。金はない、練習場所はない・・・・。定期的に大ホールで劇を上演するのは大変なことです。劇団を継続するためには、いつでも、どこでも、金を掛けずに、気軽に発表できる朗読や朗読劇などもやらねばなりません。そのとき、音楽、絵画、装置、宣伝、プロデュースなどでコラボレションできる人や団体があれば最高です。

    高校だけではなく、社会的にも「舞台芸術部」的な存在が必要になってきているのかもしれません。

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